全集第34巻P227〜
(日記No.193 1923年(大正12年) 63歳)
9月29日(水) 晴
人を送って軽井沢を引き上げた。多事多難な夏であった。休養どころではない。言い尽くされぬ心の苦悩(なやみ)であった。「主よ赦し給え」である。
◎ 朝鮮のある人から、次のような朝鮮新聞の記事を書き送って来た。
本月19日大邱新町南城町の両キリスト教会李万集一派の教徒は、
金線キリスト教会と相呼応の上、これ等米国人経営の教会より脱退
して、朝鮮人自治を申し合せ、
同26日約5千枚の宣言書を一般教徒及び各方面に配布して、米国
人宣教師の横暴を鳴らし、朝鮮人は朝鮮の教会として独立自治する
旨を声明したが、
来る9月2日の日曜日を期し、3教会相通じて大々的にこれが実
行運動に着手すべく、目下もっぱら準備中であると言う。
キリスト教会の独立運動が日本においてではなく、朝鮮において始まったことは、生気ある信仰は却て朝鮮に在って、日本に無いことを証しするに足りる。
しかしながら、宣伝ビラを撒(ま)くとか、大々的運動に着手するとかいう事は、止めてもらいたい。これは米国人たちがする事であって、我が東洋のキリスト信者は、これに倣ってはならない。
私たちは、主イエス・キリストに倣って、従順謙遜にこれ等不虔傲慢な米国宣教師に反対すべきである。そして米国の教会に対する最も有効な途(みち)は、彼等の金銭上の補助を断ることである。
米国宣教師と金銭的関係を絶てば、彼等から絶対的に独立することが出来る。彼等から金銭を受けるのは(極々稀な場合を除いて)私たちの霊魂を最大危険に曝(さら)すのである。
9月30日(日) 曇
朝の集会に100人以上、午後の集会に15〜16人の来会者があった。引続き震災の意義について語った。「ソドムとゴモラの覆滅(ふくめつ)」と題して、創世記18章19節の研究を始めた。
夜、鹿児島県大島郡徳之島に伝道している松本太平君が同島在住のクリスチャン医師武原嘉豊氏と共に今井館に宿泊し、二君から、かの地の地理、風俗、言語、物産等について聞き、大きな興味を覚えた。
俊寛が流された鬼界ケ島からほど遠からぬこの島にもまた霊的福音の種が播かれ、善い果(み)を結んだ実例を示されて、大きな感謝であった。
別に伝道会社を起して伝道したのでなくて、ただ同志の努力によって、このような遠方の所にまで、我が福音が伝わったことを、居ながらにして示されて、私の感謝と満足とは例えようがない。
10月1日(月) 曇
大地震以来満1ヶ月である。長い多事の1ヶ月であった。全世界が一変したように感じる。万事が不安になった。不安なのが当然である。「
我等此所(ここ:この世界)に在りて存(たも)つべき城邑(みやこ)なし。惟(ただ)来らんとする城邑(みやこ)を求む」(ヘブル書13章14節)。
震われるべきこの地に在って、何物も永久に存するものはない。変らない主に頼ることは、何と楽しいことか。夜警団の組織が成り、今から1週間に1度ずつ夜番に従事しなければならない。
10月2日(火) 曇
震動はまだ止まない。用事を兼ねて市中に行った。大災害後1カ月の今日、まだ戦争状態である。大日本衛生会の跡を訪れて、涙がこぼれた。灰の中からピアノの焼け残りの銅線一本を拾って帰った。日本国にとって善い事であったとは思いながらも、その惨状を見て、強く痛まざるを得ない。
10月3日(水) 曇
雑誌の校正ならびに編集に従事した。山県五十雄君の訪問があった。
松江市の四方文吉君の見舞状の一節に言う、「聞くも恐ろしき此度の大惨状、幾十万の同胞が不真面目な私共の身代わりと相成り下されし思ひいたし奮起する所なくては相済み不申(もうさず)と存居り候」と。
私たちの誰にとっても、これが今度の災禍の本当の見方であると思う。山県君とこの事を語って、大いに相互を警(いまし)めた。
10月4日(木) 晴
雑誌編集に全日を費やした。日本は依然として不信国である。その政府も人民も、この大災害に会って罪を悔い、神に頼って復興を計ろうとしない。ただ山本権兵衛とか、後藤新平とかいう人たちに依って、以前と同様な物質的強国を再び作ろうとしている。
そのような国民に向って、悔改めとか新生とかいう事を説いても全く無用な事であると信じるので、ただ沈黙を守るだけである。
彼等はさらに大きな天譴(てんけん)を蒙らなければ、目を覚まさないであろう。神よ日本を憐み給えとただ祈るのみである。
10月5日(金) 晴
昨夜順番に当り、自警団の夜番を務めた。内村医学士が金剛杖(こんごうづえ)をつき、提灯(ちょうちん)を持って前に進み、老先生は柏木(かしわぎ)を鳴らしながらその後に従う。昼間はとうてい演じ難い業である。震災が産み出した滑稽の一つである。
◎ 雑誌9月号がとうとう出た。感謝の至りである。これで過去24年間一回も休刊することなく発行することが出来た次第である。
しかし郵便局は未だ第三種郵便物を扱わず、また市中の受継ぎ書店の中には未だ開店していない者が多く、そのために読者の手に配ることが出来なくて残念である。
10月6日(土) 雨
震災の結果として、東京の文士と芸人とが多く大阪に移住すると聞いて、甚だ喜ぶ。以来東京は健全な思想の中心となって欲しい。近松門左衛門が栄えた京坂地方が、今の軟弱文学者に最も適していると思う。
幽霊は箱根以東にはいないと昔から唱えられている。願う、幽霊に等しい現代文士が、一人も残らず箱根以西へと、その巣窟を移すことを。そうすれば関東は再び往時の強健に帰って、多くの清士勇者を産するに至るであろう。
ついでに薩長土肥の政治家たちも西の海へと帰ってくれればさらに幸福である。
10月7日(日) 曇
今井館における聖会は満員の状態であった。今後どのようにするかが大きな問題である。主は良い方へ導いて下さるであろう。
「アブラハムとロト」と題して、創世記第13章に依り、「ソドムとゴモラの覆滅」の第2回を講じた。ロトに臨んだ不幸を語るのであって、罹災した兄弟姉妹に対し、甚だ気の毒に感じ、思い切って言い得なかった。主はその御言葉を守られると信じ、万事を彼に委ねまつって、自分で自分を慰めた。
10月8日(月) 曇
少しの用事を兼ねて市中に行った。さすがは東京である。自ずと復興しつつある。もちろん
義に復興することはないであろう。しかし大きな市(まち)として再び起つことは疑いない。
今回の災禍は罪悪の増長を一時挫(くじ)いたに過ぎない。しかしそれだけでも有効である。時々そのような審判的大荒廃が降るのでなければ、人類の堕落は停止する所を知らないであろう。
10月9日(火) 雨
地震気分は今も止まない。また時々軽い震動がある。この際人生の悲惨を語る事以外は、悪い事であるかのように感じられる。
しかし、悲惨を語るばかりが人生の業務でない。今や努めて地震と火事とを忘れる必要がある。心を永遠の真理に馳せて、そこに永遠の安定を求める必要がある。その目的で、二三日前から天文と哲学の復習を始めた。殊にこの際、有神論の研究に興味を覚える。
人類に多くの災禍を与える天然の出来事を、神の聖業(みわざ)として見ることが出来るか、これは信仰上重大な問題である。哲学は決して道楽ではない。患苦(なやみ)多い人生に処するに当たって、必要不可欠な研究である。
(以下次回に続く)