全集第34巻P283〜
(日記No.207 1924年(大正13年) 64歳)
2月28日(木) 晴
1章1節、「
イエス・キリストに在りて信ずる者」。
聖徒は聖器、信者は「キリストに在りて信ずる者」である。聖徒即ち信者である。上から召された者は、下から信じる者である。
しかも直ちに信じるのではない。「キリストに在りて」信じるのである。信者の信仰そのものさえも、自分で維持することの出来るものでない。
信仰の保蔵所とも称すべき者がある。キリストがそれである。信仰は神に始まり神に依り神に終る。栄光はすべて神に帰すべきである。
◎ 信州木曽の教友一団が改築聖書講堂の門柱を寄付してくれる事になり、径7寸樹齢60年の檜(ひのき)丸太3本を汽車に積み込んだとの報に接して、大きな感謝であった。
教友の一人松島縫治郎君は、案内状の内に、「門柱樹齢約六十年」と題して次の一首を寄せた。
木曾山(きそやま)の六十路(むそじ)を越えてもだしつゝ
今日神の家(へ)の門守(かどもり)と立つ
感謝のあまり私は次の通り返歌した。
木曾山の同じ齢(よわい)の老檜(おいひのき)
共に守らむ神の聖殿(みとの)を
2月29日(金) 晴
1章2節、「
恩寵(めぐみ)と平康(やすき)」。恩寵は自分不相応の賜物である。受ける価値のない者に賜わる恵みである。神が聖子(みこ)を通して賜わる賜物はこれである。そして平康(やすき)は、この賜物を受けて起こる心の状態である。
「
人の凡(すべ)て思ふ所に過ぐる平康」と言う信者独特の幸福である。召され信じさせられ、恵まれ、平康(やすき)に居らせられると言うのである。
◎ ずいぶんと眼を使う。雑誌の校正、著書の校正、その他に毎週の講演の草稿、読むことと書くこととが主な仕事である。60年間使い通したこの一対の眼、私はこれに関してどれほど神に感謝すれば良いかを知らない。
3月1日(土) 雪
1章3節、「
頌(ほ)むべきかな……恵みたり」。ギリシャ語においても英語においても同じ辞(ことば)である。「祝ふべき哉(かな)……福(さいわ)ひし給へり」と訳したら原語の意味に近いであろう。
神は物を以て我等を恵んで下さった。私たちは言葉を以て彼を頌(ほ)め奉る。与えられた者に言葉で報いる。これは子が父に報いる唯一の途(みち)である。そして子に父を讃美する言葉が無かろうか。
◎ 松方公は齢(よわい)90歳で、今や将に死のうとしている。一門80人、いずれも実業に従事している。その富は巨万に達し、一人として独立伝道師と称するような割の悪い業に就いた者はいない。
しかし私は公と同時代の日本人の一人として、少しも公を羨まない。もし公が今私に地位の交換を申し出されるとしても、もちろん私はこれに応じない。明治大正の日本において、聖書を日本人の書としようとして努力したことは、日本銀行を設立した以上の名誉であると信じる。
そして歴史は必ず私のこの確信を証明してくれるだろうと思う。公の危篤を痛むと同時に、私に今日この感なしにはいられない。
3月2日(日) 晴
1章3節、「
天の処に既に恵みたり」。恩寵は今、地上において始まったのではない。
天において既に施されたのである。地に今在る事は、天において既に定められた事である。
神は既にその聖旨(みこころ)において、恵もうと定められた事を今行われつつある。神が為される事は、すべてそうでなければならない。地上の出来事は天上の御計画の実現に過ぎない。そして実にそうあると示されて、私の今日の立場を説明することが出来る。
◎ 北風で寒い。集会はいつもと異ならなかった。午前はイスカリオテのユダについて、午後は愛の消極的半面について語った。今切に祈ることは、聖霊が私たちの間に降ることである。
3月3日(月) 晴
1章4節、「
世の基を置かざりし前より我等をキリストの中に簡(えら)び」。神の御計画が成って、それから後に御事業が始まったのである。その計画の内に今彼に召されてその聖器となった私たちの救と完成も入っていたのである。
思えば実に勿体(もったい)ない。けれども元々私たちがどうのこうのと言う訳ではない。後に言われているように、「
我等をして彼の栄の讃美せらるゝ事を為さしめんため」(12節)である。
私たちが目的ではない。彼の栄光が目的である。そのためにこの汚器(おき)を聖器として選ばれたと示されて、私たちは少し聖旨がどこに在るかを解することが出来る。
◎ 支那山西省平陽府ウィルソン記念病院長スタンレー・ホイト氏から書面が届いた。我が世界伝道協賛会の少額の寄付が、当該病院医師ドクトル張(チャン)氏を支持するために使用されるという報知に接して、感謝に堪えなかった。
こうして計らずもここにキリストの聖名(みな)により英支日の共同事業が成立したのであって、これでこそ自分たちもキリストの本当の教会に入れてもらったように感じた。
背教者や近代人の攻撃などはどうでも良い。私たちにはこんな楽しい仕事が与えられたのである。何を廃しても、この仕事だけは継続しなければならない。
3月4日(火) 曇
1章5節、「
キリストの中に簡(えら)び……キリストに由りて我等を己が子と為さん事を……」。
選ばれた。けれども自分独りで、またはキリストと
共に選ばれたのではない。彼の
中に彼に
由って選ばれたのである。彼の御目的は彼において在ったのであって、私において在ったのではない。彼キリストを崇めるための選択である。
私が特別に可愛いからではない。「
愛を以て預(あら)かじめ定め給へり」という愛は、神のその子キリストに対する愛を言うのである。
予定は全くキリスト本位である。彼を愛されるが故に私を選択されたのである。このように見て私は、神がこの罪人を愛される理由が判明するのである。
3月5日(水) 晴
1章6節、「
恩恵(めぐみ)の栄を讃(ほ)めしめんため也」。神はすべてにおいて讃美すべきである。その能力、知恵、技巧、いずれも讃美すべきである。けれども彼は、
特にその恩恵において讃美すべきである。
彼の栄光は最も著しく、彼が罪人を扱われる途、即ちその恩恵において現れる。彼が私たちのような者をその聖器として用いようとして予めその聖旨において定められた理由は、主としてここに在るのである。
即ち定められた私たちはもちろん、天の万軍にその恩恵の栄を讃(ほ)めさせるためである。神に帰すべき全ての栄光の内で、「恩恵の栄」は最も大きな者である。
◎ 久し振りに、キリスト再臨の信仰によって慰められた。この信仰を懐いていれば、どんな事が起こっても、またどんな人が現れても、少しも驚くに及ばない。「
是等の事は皆ある可(べ)き也」(マタイ伝24章6節)である。光明の前の暗黒である。ハレルヤである。
3月6日(木) 晴
1章6節、「
愛する者に在る我等に賜ふ恩恵(めぐみ)なり」。「愛する者」は、独子(ひとりご)イエスである。彼はまことに神の愛する者である。愛される資格がある者である。
私たちはそうではない。私たちは愛される資格のない者、ただ「愛する者に在りて」愛されまた恵まれる者である。そして神の「恩恵の栄」は、ここに在るのである。私たちのような者をさえ愛し得る途を開かれたことである。
キリストに在って神は私たちを愛し、私たちは彼に愛される。聖(きよ)い神の愛は、義の上に立つ愛である。彼は罪人を愛そうとして、罪を除くための途を備える必要がある。
神の義によって保証されない愛は、頼るに足りない。そして「愛する者」によって表れた愛は、この愛である。
◎ 夜講堂において、世界伝道協賛会の例会を開いた。会する者20人、支那において私たちの代表者を得たことを報告した。そのために一同は活気立ち、近頃にない生き生きとした会合であった。伝道心があって初めて本当の信仰があることを、この夜つくづく感じた。
(以下次回に続く)