全集第34巻P496〜
(日記No.260 1925年(大正14年) 65歳)
10月22日(木) 曇
雑誌編集に全日を費やした。引続き旧約聖書の研究に大きな興味を覚えた。新しく探検の世界が発見されたように感じた。
今や私の興味は、ザグロス山脈以西、地中海までの、今から2500年前の、文明世界の歴史に在る。旧いようで、実は新しい歴史である。私たちの今日に、関係が最も深い歴史である。
10月23日(金) 半晴
持地夫人がドイツ視察を終えて帰朝し、多くの興味ある実験談をもたらして訪問された。ドイツが大々的速度で復興しつつあるのを聞いて、非常に嬉しかった。
いずれにしろルーテルの国である。これがこのまま亡んでしまうはずはない。必ずや
より善いドイツとなって復興し、再び全人類を覚醒するであろう。
殊にまた私が、かの国の有識者階級の中に、多くの知己を有すると聞いて有難かった。エナ市においては、教授クリストリープのような人までが、自分を記憶してくれたと聞いて、非常な名誉に感じた。
クリストリープ夫人は、その父君ドンドルフ君の作に成るルーテル銅像の原型の見事な写真を持地夫人に託して、はるばる送ってくれた。返す返すも名誉の至りである。
ドイツの悪事については、今日まで沢山に聞かされたが、今日は自(みず)からドイツ人の家庭に入り、自分の眼でその実情を探った日本婦人から、ドイツの善事について多く聞かされ、会心の至りであった。敗戦はドイツに取って大恩恵であった。宗教改革は、再びドイツから始まるであろう。
この日午後3時から、聖書講堂において、聖書研究補助講演を行った。ルカ伝19章11節以下の金の譬えを、マタイ伝25章における銀の譬えと比較して語った。来会者は80人あり、気持ちの好い会合であった。
同一量の少量の金は全般的な恩恵を現わし、量を異にする多量の銀は、特殊的恩恵を示し、二つの譬えは相似て、また相異なる譬えであることを述べた。
10月24日(土) 曇
出来事の多い日であった。朝は雑誌の原稿を携え、久々ぶりに市ヶ谷秀英舎の印刷工場を訪れた。その大々的発展に驚いた。そのような大工場に、我が研究誌のような小雑誌の印刷を託すのは、甚だ気の毒であるように感じた。
雑誌「キング」の新年号を印刷しつつあるのを見た。実に「大雑誌」である。大工場はそのような「大雑誌」がなければ立ち行かないのであろう。
しかし……しかし……である。今から450年前にグーテンベルグが初めて印刷機を発明したのは、主として聖書を印刷するためであった。それが今や聖書ではなくて商品雑誌の印刷に主力を注ぐに至って、発明者の意志は全く破られたのである。
敢えて商品雑誌を羨むのではない。印刷機の発達が、必ずしも国家人類を益するものではないことを言うのである。いずれにしろ秀英舎万歳を歓呼(かんこ)せざるを得ない。
◎ 今に至って所々方々から演説の依頼がある。いずれも思いがけない所からである。日本人はもはや私を国賊または危険人物として見ないと見える。自分の意志が終(つい)に国民に通じたのであろうか。不思議である。ただし依頼には応じないつもりである。
◎ 富士見町教会員某が、私の聖書研究会の会員にしてくれと申し込んだ。私は彼に、彼の属する教会に忠実であれと諭して、彼を帰した。私たちは、教会員はなるべく入会させないように努めている。
教会は、この事について、安心して良い。ただ教会の会員が彼等を去って、私のような、常に教会に嫌われる者に、教えを乞うに至らないように、教会に努めてもらいたい。
◎ 大きな興味を以て、スイスの考古学者S・ガイヤー氏著チグリス河下降記を読み終わった。アッシリア学研究のための好資料である。
10月25日(日) 半晴
相変わらず楽しい聖日であった。朝夕共に300人以上の来会者があった。両回共に充実した、緊張した集会であった。社会や教会の小問題を離れ、聖書が示す宇宙人生の大問題について語るのは、非常に楽しい。
10月26日(月) 晴
明治神宮外苑内に日本青年会館が竣成し、その開館式に招かれたので、謹んで出席した。建築が壮大なのに驚いた。ただし式は非常に貧弱であった。
総理大臣、内務大臣、文部大臣の祝辞に一つも敬服すべきものがなく、ただ通り一遍の当たらず障(さわ)らずの祝辞であって、その内に何の大思想または独創の意見も見いだせなかった。これではせっかく大会館は成ったものの、天下の青年を指導するに足りる人物はないと見受けた。
大講堂は劇場式であって、神聖な講演をするには、全く不適当である。私は今日の日本において、その青年を指導するに足る人物は、一人もないと信じる。憐れむべきは日本青年である。
式が終って後に立食の饗応に与り、二三の余興を見、重い心を懐いて家に帰った。再びこのような場所には出席しない事に決めた。
10月27日(火) 晴
昨日見た俗吏俗人の姿が眼に残り、甚だ不愉快であった。
殊に堪えられなかったのは、キリスト教の教師が俗吏に化した者の姿であった。今日は終日聖書を研究し、我が心霊の清浄を計った。
預言者の言葉の一節を読むのは、大臣とか市長とか言う人たちの千万言を聴くよりも遥かに有益である。今日の日本に在っては、私のような者は、外に出ることを廃し、家に在って孤独を守ることが必要不可欠であることを、ますます切実に感じる。
今の人は、官吏商人はもちろんのこと、牧師・宣教師に至るまで、人を見れば必ず自分の事業を助けさせようとする。彼等に他を助けようと思う雅量もなければ余裕もない。実に恵まれていない人たちである。
10月28日(水) 晴
思いがけない所に行き、思いがけない人たちに対し、思いがけない感話を述べた。日本の天地が一変したように感じた。キリスト教の教師を国賊と見たのは、遠い過去の事となった。
私が今日為すことを許された事を公にするならば、日本全国が驚くであろう。もし私の肉の父がこの事を聞いたならば、どれほど喜んだであろう。いずれにしろ日本国万歳と称せざるを得ない。
10月29日(木) 曇
昨日は鬼をも挫(くじ)く多数の人たちに話したのに対し、今日は繊弱(かよわ)い少数の婦人会に臨み、彼等と信仰の実験談を交換した。
昨日はシベリヤの朔風(さくふう
:北風)に身を刺されるような緊張を覚えたのに引換え、今日はセイロン島の暖風に顔を払われるように感じた。昨日は大きな名誉であって、今日は少し恥ずかしかった。しかし二者いずれの場合においても、誠実にありのままを語るまでである。
10月30日(金) 曇
二三日来の活動で、今日はだいぶ疲れ、原稿を二枚書いた他は、何も出来なかった。歩兵第一連隊将校団から「御礼」として金一封を受けた。未だかつてそのような所から、このような謝礼を受けたことはない。
武士の家として名誉の至りである。よって封のまま、これを先代宜之君の写真の前に供え、在天の彼の霊に報告した。彼が生きていたならば、さぞかし喜んだ事であろうと思った。
謝礼の半分は、これを帝国在郷軍人会淀橋町分会基本金の内へ寄付し、半分は感謝して私が頂いた。生涯にただの一回であっても、武士の家に生まれた自分が、軍隊のために尽すことが出来て、感謝の至りである。
我家も我が妻の家も、代々の武士である。故に、たとえ今や平和の福音の宣伝者の職に在るとは言え、武士の魂は失わないつもりである。もし日本の軍人が、この上とも更に私たちを使ってくれるならば、私たちは如何に幸福であるであろう。
10月31日(土) 晴
我が家の新来者内村正子の上に、聖書講堂において祝福を祈った。これは彼女の宮参りであって、私は彼女の額に手を按(お)いて、イエス・キリストの御父なる真の神の御恵みが、彼女の一生を通して下ることを祈った。
思えば長い旅路である。彼女が私の歳まで生きるとして、長い長い旅路である。その危険を思って、老いた者は、幼(いと)けない者のために熱い祈りを捧げざるを得ない。
(以下次回に続く)