全集第35巻P235〜
(日記No.322 1927年(昭和2年) 67歳)
9月22日(木) 晴
秋晴の好天気である。十分に北海の秋を楽しんだ。終日家に居て、旅行の疲れを休めた。交々(こもごも)新聞記者の訪問を受けた。ここでは彼等に会わぬわけにはゆかない。境遇が変った故か、孫娘は思わない所に祖父の見舞いを受けて、真の祖父とは認めないらしい。
夜、旧い豊平館において、佐藤大学総長、宮部、南の両名誉教授、高岡札幌市長の晩餐歓迎を受けた。こうして夢のように札幌における第一日を過ごした。柏木におけるのとは全く違った生涯である。
9月23日(金) 晴
朝、自動車を駆り、内村医学士の家族を乗せ、札幌神社、豊平橋、旧農学校跡、創成川の畔で、49年前に私がバプテスマを受けた跡などと訪れ、彼等に私に関する札幌の名所旧跡を示した。
殊に万感が湧いてきたのは、南二条西6丁目のいわゆる「白官邸」の跡であって、これは自分たち当時の青年が初めて設けたキリスト教の説教所である。半西洋風の二軒長屋であって、その半分を借りて、ここに初めて札幌独立基督教会を起したのである。
私が初めて聖書を講じたのもここであって、私の生涯の仕事の発祥地とも称すべき所である。その長屋は依然として存し、私たちが借り受けた半分は、今は建具屋となっているのを見た。
午後4時から札幌独立教会の役員会に出席し、牧師選定に関する相談に与った。無教会主義者の私が、その事に関して、良い意見を懐くはずはないが、しかし私の関係が深いこの教会に対し、深い同情を寄せるのはもちろんの事なので、主義と情との間に挟まれて、少なからず困難した。
会議は万事を神の指導に仰ぐ熱心な祈祷会に化した。そして多数の兄弟姉妹は熱誠を込めて祈った。近頃見たことのない真剣な祈祷会であった。
9月24日(土) 晴
札幌独立教会講堂において、北海道「聖書之研究」読者会を開いた。来会者100名以上、遠くは北見、函館からわざわざ来る者もいた。来会者の感想述懐は相次いで尽きず、午後2時に始めて5時に至り、惜しみつつ会合を閉じた。教会行き詰まりの談は至る所で聞くが、聖書研究者の団体だけは、希望春の海を行くかのようである。
9月25日(日) 晴
朝と夜と2回、札幌独立教会において説教した。朝は400人余り、夜は500人ほどの聴衆があった。朝は「福音の奥義」と題し、ガラテヤ書2章20、21節によって話した。説教はあまり振るわなかった。
夜は講堂に溢れた聴衆に対し、「日本とキリスト教」と題して、我が熱誠を披瀝(ひれき)した。信仰に愛国心が混ざったので、説教は愛国的能弁と化した。自分で自分を抑えきれなかった。私に取り札幌でなければ出来ない演説であった。
9月26日(月) 快晴
札幌にいる。昨日の二回の壇上の労働で、今日はだいぶ疲れた。訪問者は絶えなかった。夜ユーゴー亭において、「内村鑑三謝恩奨学資金」の受領者6人の歓迎晩餐の饗応を受けた。受領者全て8人、内一人は死亡し、一人は満州に居て、札幌に居る者は6人であった。
いずれも農学部出身または在学の優等生であって、私が提供する少額の奨学金を受けてくれた事は、私に取りこの上ない名誉であった。一同は先ず撮影し、次いで夕食を共にして、卓上談話に快楽を貪った。
ここに「札幌内村会」を設けることに議決した。そして将来会員は結合して、相共に活動することを約した。私に取って生れて初めての経験であった。こんな嬉しい事はない。この事をするためだけに札幌に来る充分な甲斐があった。
9月27日(火) 晴
孫娘がようやくにして再びなつき、愉快であった。急激の変化によって、ジージを新しい場所に認め得なかったのであるらしい。小児心理に、大人に解し難いものが多い。
午後2時30分から北海道帝国大学大講堂において、佐藤総長司会の下に、特別に自分のために開かれた演説会に出席した。この日午後、特にこの演説会の為に全校の休講が宣告され、職員生徒挙って大講堂に集まってくれた。
聴衆は堂に溢れ、1500〜1600人あったように思われた。拍手が暫らく止まず、少し面食らった態(てい)であった。題は、Boys be ambitious であった。故 W・S・クラーク氏の有名な告別の言葉である。これに注解を加えて、私の意見を述べた。
1時間以上の演説に大聴衆は鳴りを潜めて聞いてくれた。終って壇上において、全大学を代表する佐藤総長と私の間に堅い握手の礼が行われ、全衆は大拍手によってこれを祝してくれた。私が旧い母校から受けた最大名誉である。
◎ 夜9時50分発の汽車で、帰途に就いた。友人多数の見送りを受けた。相変わらず孫娘と別れるのが最も辛かった。
9月28日(水) 晴
朝7時に函館に着いた。津軽海峡の渡航は稀な平穏であった。船中には知人が多く、さすがに北海道旅行であることに気付いた。午後1時40分青森発の急行列車で東京に向った。車中には小島、後藤、須田諸君の日本聖公会の教職ならびに名士が居て、快談に時の過ぎるのを忘れた。
9月29日(木) 雨
朝8時上野に着いた。主婦ならびに畔上に迎えられた。9日間連続の旅行と労働とで、身体は綿のように疲れた。終に床に就いて休んだ。しかし有意義な伝道旅行であった。私の生涯が新たに始まったように思われた。家族一同活気づいた。
9月30日(金) 晴
不在中に悲しい出来事が起こった。21日にオウムのローラが死んだ。メキシコから我が家に来てからここに17年、家族の一人として私たちと共に生存した。毎朝オハヨーと言って家人を迎えた。よく自分を愛する者を知った。
夏ごとに彼を家に残すのは大きな気がかりであった。今年の夏の暑気に負けたと見え、大きな疲労を見受けた。いろいろと手を尽したが、終に立たず、飼主の声を認めつつ、主婦の懐に抱かれながら、終に息絶えたとの事である。
北海道から家に帰ってこの事を聞いて、熱い涙を禁じ得なかった。鳥とは言え、17年間の友人である。私たちの苦痛を何回慰めてくれたであろうか。ルツ子が逝(い)った年に我が家に来て、今日に至って逝く。何やら彼に不滅の生命があったように感じる。彼の皮を剥製(はくせい)にして永く保存するつもりである。愛惜何ぞ堪えん。噫(ああ)。
10月1日(土) 晴
校正ならびに講演準備で多忙であった。北海道行きが祟(たた)って、その補償が容易でない。
10月2日(日) 曇
東京青山明治神宮外苑内、日本青年館における第1回の聖書研究会を開いた。来会する者500人余り、1500人を容れる大講堂の真ん中に、密接に座に着き、柏木におけると同様の静粛で充実した会合を催した。
開会に当り、常務理事田沢義鋪(よしすけ)君の歓迎の辞があった。この会館は外人はもちろんのこと、富豪にも頼ることなく、全く日本青年の献身努力によって成った者である。これに内村聖書研究会のような会合を迎えるのは、この館建設の目的に適い、会員一同の満足する所であるとのことであった。
畔上が先ず講じ、続いて私はイザヤ書研究の第1回として、「イザヤの紹介」と題して語った。北海道旅行の後を受け、疲労は未だ癒えず、満足な講演をすることが出来なかったが、瑞祥(ずいしょう)の下にこの会合を始められて大感謝であった。
10月3日(月) 晴
長旅を加えた大集会の連続で、ガッカリ疲れた。再び聖書の研究に帰って、疲れた霊と肉とを休めた。聖書の研究である。大運動ではない。ただ講堂の広さを求めただけである。
会員中にこの機会に乗じて大いに教勢を張りたいと思う者がいるのを見て、憂慮に堪えない。そのような思いは教会的精神であって、この精神があれば福音の衰退は必然に来る。大きな警戒を要する次第である。
(以下次回に続く)