全集第35巻P239〜
(日記No.323 1927年(昭和2年) 67歳)
10月4日(火) 半晴
疲労が少し癒えた。両雑誌の校正に従事した。地方伝道により蒙る損害は多大である。これを補うのに随分の努力を要する。
◎ スウェーデン国物理学者スヴンテー・アーレニウス氏逝去の報を新聞紙に読んで、悲しんだ。氏は68歳であって、私より2年の長老である。氏の大胆な宇宙創造説は、かつて私の血をわかしたものである。
ヘルムホルツ、ヴァイズマン等と共に学界の偉人である。リニーウスを生んだスウェーデンは、時々このような学界の偉人を産する。
10月5日(水) 小雨
疲労が未だ癒えていないけれど、全日を両雑誌校正のために費やした。引続き
校正恐るべしである。しかし兎にも角にも雑誌が出来るから不思議である。
10月6日(木) 半晴
忙しい一日であった。朝先ず第一に、旧約ホセア書の終りの三章を読んだ。次に「研究誌」の校正をした。次にまた英文雑誌の校正をした。こうしてようやく今月分の両雑誌が私の手を離れた。
編集と校正との間に北海道が挟まって苦しかった。しかし兎にも角にも雑誌が出来て感謝である。もちろん塚本と畔上とが助けてくれたから出来たのである。
その他種々(いろいろ)と人の相談に与った。疲れた頭脳は、これから彼へと使い回される。宇宙や人生の大問題を考える時は少なくなる。しかしこの事を止めることは出来ない。たいていの人は私を学者として見てくれない。牧師か伝道師の類であって、俗事に携わるべき者であると思うらしい。
人生、実はどうなっても良いではないか。霊魂が救われて天国に行くことさえ出来れば、他の事はどうでも良いではないか。結婚、財産、事業、いずれもどうでも良いではないか。
しかしキリスト信者と言う人でも、この地が第一であって、天国などは末の末の問題である。無理もない。これは米国人のキリスト教であって、日本のキリスト信者は、たいていは米国信者である。
私の幸福は夜に入って、これ等の人たちを離れて、独り机に対し、ペンを執ってその日の「日々の生涯」を書く時に来る。
10月7日(金) 晴
久し振りの休息日であった。サイス教授の「イザヤ時代」を復読する他には何事もしなかった。札幌独立教会ならびに北海全道の上に聖霊が降るように有志の特別祈祷会を開いた。我が愛するかの地方の上に今や大きな恩恵の雨が降ろうとしているのを感じた。
10月8日(土) 雨
平安の一日であった。少し原稿が書けた。信仰が活動と思われる時に、私の霊は混乱である。しかし信仰は活動ではなくて、静かな信頼である。米国式の信者から見れば無為の生涯であるが、実に深い充実した生命の持続である。
我が贖(あがない)主を措(お)いて他に何物をも要しないと言う生涯である。信仰を殺す者は、米国宣教師が伝えた「多忙の信仰」である。これを除かなければ、本当の信仰は起らない。
10月9日(日) 晴
昨夜は大雨であったが、今朝は快晴で、美(うる)わしの聖日であった。外苑大講堂の集会に、600人ほどの出席者があった。塚本はロマ書11章1〜10節により、「七千人の遺(のこ)れる者」について講じた。
私はイザヤ書研究第2回として、「イザヤとその時代」と題して話した。講演は悪くはなかったが、ただ会衆一同が未だ場慣れしていないので、調和が取りにくく、聖会としては不満足な点が多かった。いずれにしろ新しい試みである。成功まで時日を要する。未だ俄(にわ)かに失望すべきではない。
10月10日(月) 晴
田村直臣君を訪問し、君の幼稚園を見せてもらった。実に天下一品である。社会も国家もこのようにして救うべきであると思わせられた。また例によって色々な事を聞かされた。ただ驚くほかはなかった。自分たちは一心不乱にただ旧い聖書を世に紹介しようとの決心を固くされた。
◎ 札幌の嫁から、「思ふ事なき北海の秋」という句を送ってきた。これに付するのに何か善い上の句は無いだろうかとのことであった。よって目下の石狩平野における彼女の楽しい新家庭を思いやり、次のように作り直して返してやった。
空は澄み平野(ひらの)は遠し家安し
思ふことなき北海の秋
これにさらに一首を加えて遣わした。
孫去りて家は淋しくなりにけり
いざ奮起せん東海の秋
こんな事で札幌柏木間の通信が賑(にぎ)わっている。
10月11日(火) 曇
湿気の多い嫌な日であった。両雑誌を発送した。多事の一ヶ月であった。その間に雑誌を二つ作ることが出来て、自分ながら不思議に思う。自分が作るのではない。主が私に在って造り給うのである。
10月12日(水) 半晴
引続き休養の一日であった。北海道演説旅行の疲労が、容易に取れない。私自身に取って高価な旅行であった。
◎ 年末が近づき、結婚時期になったので、私もまた多少これに関係させられる。これに社交上信仰上の問題が絡まり、甚だうるさい事である。
「それ洪水の前、ノア方舟(はこぶね)に入る日までは人々飲み食ひ嫁(とつ)ぎ娶(めと)りなどして洪水来り悉(ことごと)く之を滅ぼすまで知らざりき。如此(かくのごと)く人の子も亦来らん」とあるように、結婚は世の終末まで、人世の最大事として続くであろう。
しかし「
甦(よみがえ)る時は娶らず嫁がず、天に在る神の使者達の如し」とあるから、天国は結婚が無い所であることを知って、それが実に幸いな所であることが知られるのである。
まことに結婚問題ほど
現世らしい問題はない。俗気紛々とは、実にこの問題を言うのである。マタイ伝22章30節、同24章38、39節
10月13日(木) 小雨
淋しい秋の日であった。孫は北海道にその父母と共に在り、甥は学校の遠足で家にいない。姪は親類に泊りに行った。残るのは老夫婦二人で多く語る事もない。ただ信仰の兄弟姉妹が訪れてきて、神の御事業について語る。まことに福(さいわい)な事である。願う、末の終りまで聖国(みくに)のために働けることを。
三谷民子女史が明日女子学校校長として就任するという事なので、彼女を励まし自分をも慰めようと、次の一首を書き送った。
荷は重し我に代りて負ひ給ふ
主ありと知れば我は恐れず。
10月14日(金) 半晴
久し振りに新渡戸稲造君を訪問した。古い札幌時代の事を語って楽しかった。同君たちと共に汽船玄武丸で品川沖からかの地に運ばれたのは、今から満50年前であった。君と私とは人生の全く異なった行路を歩んだ。しかし今もなお異ならないのは、学校時代に受けた気風である。
札幌出身者で世人に最も多く噂されるのは、新渡戸君と私と、故有島武郎君の三人であるとの事である。奇妙な組合せである。三人共に農学士であって、農学以外の事で噂されるのは不思議である。ただし有島君の終りが美しくなかったのが残念である。
10月15日(土) 曇
寒い日であった。引続き講堂の事について苦しめられる。世には良い講堂があって、聴衆がなくて困る教会が多くあると聞くが、私たちは聴衆があり過ぎて、適当な講堂がなくて苦しめられる。
時にはこの際断然講演を止めようかとも思わせられる。雑誌によって数千人に語れれば、それで充分である。聴衆を集めていかにも勢力を張ろうと思っているように思われるのは心外千万である。会衆取締りのために講演の質を低落する恐れがある。あるいは講演廃止が満足な解決であるかも知れない。
(以下次回に続く)