全集第35巻P269〜
(日記No.330 1928年(昭和3年) 68歳)
1月1日(日) 晴
元旦の聖日であった。午前、午後合わせて250人ほどの出席者があった。私は両会共に詩篇第136篇により、「感謝の心」と題して話した。まことに気持ちの好い講演会であった。
朝、床の中で大声に札幌にいる孫娘の名を呼んだものだから、昨日から泊まり込みの姪第1号が一句をやった。
元日や先ず正(マー)ちゃんと叫ぶ声
と。私はこれに下の句を加えて言った、
あとの奴らはどうにでもなれ
と。それでは余り酷(ひど)いとの抗議が出たから、これを詠み直して言った。
それより外に楽しみはなし
と。こんな
あん梅で楽しく一日を送った。
1月2日(月) 曇
今年最初の休息の月曜日であった。遊ぶ代わりに原稿を書いた。夕暮頃Kちゃんが訪れた。何のためかと訊いてみたら、「先生の顔が見たくなったから」と答えた。彼女は今年は家持になるのだから、沢山に先生の顔を見ておくがいいと、少し講釈を聞かせて帰してやった。
相変わらず数百通の年賀状をもらった。もらって小言を言っては悪いが、いずれも平凡で、奇抜なものは一通も見当たらない。「謹賀新年」より他に書く事がないとは情けない。昔は一通か二通は、良い詩か歌があったが、今年はそれもない。時代の平凡化と称すべきであろう。
1月3日(火) 晴
麗しの新年第三日である。半日働き半日休んだ。夜は主婦と共に某女史に夕飯に招かれ、11人の女史を相手に語った。滅多にない事である。老人にも正月が来た事が分かる。
1月4日(水) 晴
ようやくにして英文雑誌1月号の原稿をまとめた。これによって年末が如何に多忙であったかが分かる。今日からが、本当のお正月である。
哲学か、ダンテ研究か、いずれにしろ極楽は書斎に在って、山にも海にもない。所々の教会の高壇から、無教会主義の攻撃が轟くと聞く。しかし私自身は教会を助けはするが、これを攻撃はしない積りである。殊に教会員が私の集会に来ることは、成るべく断わっている。
無教会主義をこのように重大問題にした原因は、多くは教会そのものに在ると言わざるを得ない。もし教会が温かい、居心地の良い所であるならば、これに動揺が起こり得るはずはない。私たちから進んで教会を壊すような、そんな卑しい事は、断じてしない積りである。
1月5日(木) 晴
休み正月である。詩篇16篇から18篇までとダンテを少し読んだだけで、他に何もしなかった。無為休息の一日は、蓄積の一日であったと思う。
◎ ある地方のある教友からの年始状の中に、かの地方の教会の人たちが私を誹謗する言葉が記してあった。
内村氏の福音は是とする。しかしその無教会主義は、彼が社会に宗教上の政治的野心を遂げようとするパラドックスである。あるいは、教会に対する私怨(しえん)を公憤に脚色した主義である。
研究誌はいわゆる内村宗の宣伝であり、自我の拡張であり、独善主義の礼賛(らいさん)であり、文化的ドンキホーティズムであり、神秘的来世夢遊患者の記述であって、彼の博識がこれを装飾しているのだ。
恐ろしい奴で恐ろしい雑誌である。それだから教会の人たちに、私の所に来るな、私の書いた物を読むなと言うのである。敢えて問う、この批評家は、トルストイ、カーライル、ホイットマン、カント、シュレーゲル、フィヒテ等の書いた物を読んだであろうか。
もしそうならば、こんな批評はしないだろうと思う。しかしこんな事を言っても、何の役にも立たない。
1月6日(金) 晴
教会の人たちには嫌われるが、彼等が従事している事業に対して、相変わらず寄付を命じられる。そして彼等が喜んで受けてくれるから有難い。しかし、これも自我拡張の手段であると言われては情けない。あるいは事業のために「貰っておいてやる」と言うのかも知れない。しかしそれでも宜しい。
1月7日(土) 半晴
昨夜ラジオで柳田国男氏の「椿の話」を聞いた。非常に面白かった。今日は百科事典により、カメリヤの項を読んだ。カメリヤの名は、フィリピン群島に伝道した天主教宣教師 Camellus から出たと言う。茶の木はカメリヤ・ティフェラであって、椿の一種である。
秋の桜である山茶花は、秋の椿である。椿の実はオリブ油に次ぐ優良な油を生じる。美と実用とを兼ねた有用植物である。東方アジアの産であって、その精華とも称すべきか。その最も称賛される種類を Camellia japonica (日本椿)と称するのは、殊に懐かしい。
1月8日(日) 晴
両回の集会に330人の来会者があった。私はゼカリヤ書14章20、21節により、「聖俗差別の撤廃」と題して語った。新たに齢を加えて、さらに死と来世について考えた。この事については、聖書の語そのままを信じるより他に途がない。
そしてそれが真理でなければならない。私に取っては、現世は既に済んだと同然である。そして今から後に
より大きな生涯に入るのである。ダンテが言っているように、「
より高貴な戦闘」に入るのである。その準備のためにこの一生を送ったと思えば、感謝の極みである。
1月9日(月) 曇
主婦と共に市内に行った。借り切り自動車を20マイル飛ばした。近頃にない大旅行であった。そのために一日を潰し、有益な事は何もしなかった。ようやくにして英文雑誌の校正を終った。
1月10日(火) 曇
雑誌1月号を発送した。平穏な途は怒らない事である。誰に対しても、何時でも馬鹿になっていれば、怒らずに済む。だから平穏な途は至って容易である。しかし怒るのは、怒られる人の為に利益である。故に時には止むを得ず、自分の平穏を犠牲に供して怒るのである。
けれども怒られる利益を全く知らない近代人に対して怒るのは、矢を太陽に向って放つようなものであるから、しない方が良い。故に「笑って太れ」の途を取ろうと思う。しかし、それでは自分勝手で甚だ済まないように感じる。
1月11日(水) 晴
温かい春のような日であった。ある青年が、衛生会館における私のロマ書の講義を聴き、平安に死んだその実情を、彼の姉なる人の手紙によって知り、大いに励まされ、力づけられた。私もまた彼のようにして死ぬことが出来ると思えば限りない感謝である。
もし福音にこの力がないならば、これを説く必要はない。国家社会を善くするための福音でない。天国の希望を与えて人を平安に死なせるための福音である。たとえ一人でも私が説いた福音によって平安に死に就いたのを知って、私は無益に一生を送らなかったことを知って、有難くて堪らない。
1月12日(木) 曇
ルツ子デーである。少しばかりの慈善をして、彼女を記念した。再び彼女に会う日が、段々と近づきつつある。今日は久し振りに、彼女が永眠した直後に読んだ来世ならびに永生に関する書物を取り出し、これを復読して大いに我が信仰を強めた。
もし栄光の来世が無いとすれば、人生ほど
つまらないものはない。しかし来世が有って、これに入る特権を付与されたとすれば、この世のことはどうでも良い。ルツ子は実に恵まれた娘であった。
1月13日(金) 晴
夕方7時から、中野の伊藤一隆氏宅において、北海道ならびに札幌のためにする本年最初の祈祷会が催された。会する者7人、内に大島正建氏と私と、他に計らずも札幌から宮部金吾君が来られ、ここに期せずして50年来の信仰の友が、祈祷の為に一室に会したのである。
私たちはいずれも70に達し、または70になるばかりの老人であるが、神の前に跪いては、いずれも小児である。老博士も老実業家も小児のようにアバ父よと呼んで祈った。まことに稀に見る神聖な光景であった。
私たちは70歳に達して、ますますキリストの聖名(みな)によって為す祈祷に、効験があることを知った。祈祷を終えて後の雑談は、まるで50年前の北海道の雪の中のそれの繰り返しであった。
古い旧い北海の荒波を渡った航海談であった。腹の底から湧き出る歓声であった。クリスチャンフレンドシップの深さと聖(きよ)さを誰が知っていようか。
キリストの前に跪く所においてのみ本当の友人関係はあるのである。
(以下次回に続く)