全集第35巻P292〜
(日記No.335 1928年(昭和3年) 68歳)
3月3日(土) 晴
「雛祭り」である。しかし孫娘がいないのでツマらない。雑誌校正が一日の仕事であった。楽しく一生を送る秘訣は、善い人を見て、悪い人を見ない事である。たとえ善人は千人中の一人であっても、目をその一人に注げば、残りの999人までが善く見えて楽しい。
そして一人の善人のために自分の全力を注ぐ充分の価値がある。人を集団(マス)と見る時に、私の熱心は衰える。その中の善い一人を我が目当てとすると、天使をもてなそうと思う熱心が、私の中に湧き出るのを覚える。
3月4日(日) 晴
朝はマタイ伝18章10節により「活動の来世」と題し、午後はイザヤ書第6章の研究準備として「聖召」に就て語った。両回ともやや満足な集会であった。全体にわたり来会者が真剣なのに驚く。このような真剣味は、教会においては見ることが出来ないと聴衆中の教会通は言う。もしそうであるとすれば、感謝の至りである。
3月5日(月) 雪
東京では稀に見る大雪である。終日炉辺に座して読書した。マレー人種とその分布と文明とが、興味多い研究の題目であった。マレー人種は島国人種である。世界の七大島中、大英国を除いて、ニューギニア、ボルネオ、マダガスカル、スマトラ、日本本土は、全てマレー人種の住所である。
日本人は、半ば蒙古人種で、半ばマレー人種である。そして日本人の気質に、確かにマレー人種特有の気質を見る。マレー人種を知らずには、日本人は解らない。
◎ 長年この雑誌を読んで来たが、他に
より良い機関を見出したので、廃読するから発送を止めてくれと、ある人から言ってきた。普通の情としては快くなかったが、彼の為、また我が為を思って喜んだ。彼が満足を得たのを喜び、私の責任がそれだけ軽くなったことを喜んだ。
そのような場合が時々ある。そしてその場合には、私もパウロと共に言う、「
我れ之を喜ぶ、且(かつ)常に喜ばん」と(ピリピ書1章18節)。ただしこの日一人の旧い読者を失って、新たに三人の読者を得た。喜ぶべきか悲しむべきか、私には解らない。
3月6日(火) 晴
麗しい雪の
あしたであった。皇女久宮様の御重症を御心配申上げた。雑誌3月号の校正を終った。雑誌が一個に成ったために、編集校正に力を入れることが出来、前の通りに主幹としての職務を十分に尽くすことが出来て満足であった。
無理は決してするものではない。雑誌二個は確かに無理であった。思い切ってその一つを廃刊して良かった。
3月7日(水) 晴
寒い日であった。マレー群島の地理動物に就て読んだ。生涯の方針に迷うある若い人に言って聞かせた。「世を征服しようと思ってはいけません。これに奉仕しようとしなさい。そうすればアナタの運命が開けます。
成功とは征服だと思うから、人生は辛く思われるのです。成功とは奉仕だと知れば、誰でも成功することが出来るのです。アナタもまた多くの近代人と同じく、近代思想に毒されて、他を征服して御自分に幸福を求めようと思っておられたのではありませんか」と。
彼はこれによって大分覚ったらしく、喜んで帰って行った。私も人に説教して、また大いに覚(さと)らせられた。
3月8日(木) 晴
皇女久宮様が今暁(こんぎょう)御隠れ遊ばされ、一同涙に咽(むせ)んだ。全国民と悲しみを共にする。悲しくもあり、また美(うる)わしくもある。
◎ 方面を異にする友人二人から先般行われた総選挙の内幕を聞き、呆(あき)れざるを得なかった。もしそれが事実なら、日本国は精神的に既に亡びているのである。この上これを救おうと思うようなことは、無益な業(わざ)と言わざるを得ない。
世人が私のような者を迂闊(うかつ)千万な奴と見るのは、怪しむに足りない。大洪水は将に目前に迫ろうとしつつあるように思われる。自分だけは良いとして、子々孫々をどうするかと思って憂慮に堪えない。
3月9日(金) 曇
キリスト教は何であるかと尋ねるよりも、キリスト教は何を教えるかと探る方が遥かに有効であることに気付いた。キリスト教のために戦えば、多くの無益有害な戦いを戦わざるを得ない。
しかしキリスト教が教える真理のために戦えば、戦いに全て意義があって、また敵と味方とを見分けるのが容易である。
このようにして今のいわゆるキリスト信者またはキリスト教会なる者の多くは、キリストに背く者であることもよく分かる。遅れたけれども、この事が分かって大きな感謝である。
3月10日(土) 雨
浅草教会牧師永井直治君の新約聖書の新日本訳に序文を寄贈した。大きな喜びまた名誉であった。25年前に私がしたいと思った事業である。そして私に出来なかった事を、今、永井君がしてくれたのである。
誰がしても良いのである。私は少しでも聖書に対する興味を我が同胞の間に喚起することが出来て感謝である。
3月11日(日) 曇
雨後の泥道に関わらず、午前午後合わせて300人より少し多い来会者があった。午前は「イエスの永生体に就て」、午後は「キリスト教は何を教えるか」と題して語った。前者は霊肉の関係に就て語るのであって、随分と困難であった。
後者はキリスト教の根本は自己に死んで自己のない愛の神の子となる事であるという、何人にも解し得る明白な真理を述べるのであって、述べるのは易しいと同時に、効果もまた多かったと思う。
キリスト教の根本ほど明瞭なものはない。ただこれを実現するのが非常に困難である。そのための人生、教義、制度、その他の全てであるに相違ない。
◎ 雑誌332号を発送した。部数はまたまた少し増したらしい。敢て拡張を計ったのではないのに。
3月12日(月) 半晴
昨夜までに6回にわたり、ラジオによる文学博士鳥居竜蔵氏の人類学及び考古学の講話を聴いた。私に取ってこんな有益な講話を聴いたことはない。私が有する人類学の知識が、これによって生きて来たように感じる。実に驚くべき科学である。これによって人類の過去ならびに将来に関する思想が一変せざるを得ない。
人類はアダムとエバとを以て始まった者であるとは、いくら聖書に書いてあるにせよ、どうしても信じることは出来ない。そのような信仰を今日に強いようとすれば、ただ一笑に付せられて斥けられるまでの事である。
しかしながら、鳥居博士が明白に示された通りに(氏は天主教信者であると聞く)、近代人類学は、もっと深い意味において、聖書の人類観を証明する。
人類は特殊な動物であること、その宗教心は、早く既に何十万年前の旧石器時代において発達したこと、人類の長い発達の歴史において、摂理として認められるべき節が幾回もあった事、これ等は私が今回鳥居博士から学んだ貴い知識であって、少なからず私の信仰を補ったことは確かである。家にラジオを据え付けて以来、今度ほど有難味を感じたことはない。
3月13日(火) 晴
英文雑誌J・C・インテリゼンサー廃刊に就て、在英国オクスフォードの好本督君から次のような通信があった。
拝啓、J・C・Iが本月限りと知りまして、英人読者中より惜しまれます。その一人より別に金一ギニー(11円余り)を、些少ながら御手元へ志のしるしとして御送り下さいと申して来ました。
ある一英人は、日本からのJ・C・Iに接して、本当に信仰を非常に強められたと感謝しました。宣教師連の間には喜ばれませんでした。その一人は全く私の宅へ来なくなりました。しかし支那内地伝道会社(その本社は英国に在る)の役人の人々には、喜ばれました云々
と。こうして我が英文雑誌が英国において良い読者を持ったことを感謝する。米国においても有名な評論家ボルトネー・ビゲロー氏などは、熱心な愛読者であった。言うまでもなくこれを嫌った者は、主として宣教師であった。殊に私と全く信仰の立場を異にするメソジスト教会ならびに組合教会の宣教師たちであった。
(以下次回に続く)