全集第35巻P397〜
(日記No.360 1928年(昭和3年) 68歳)
12月17日(月) 晴
例の通り憂鬱(ブルー)な月曜日(マンデー)であった。子と孫とは北海道に、姪は朝鮮に、甥は学校に、その上主婦は病気で、自分独りで家を守った。このような時には新聞の記事がいっそう強く心を痛め、生きているのが詰まらなく思える。
宗教改革史にウィリアム・チンデールの伝記を読んで、大いに我が心を慰めた。彼は英国人に英訳聖書を与え、そのために12年間国外に流浪し、終(つい)にローマ・カトリック教徒に絞殺された。
ところが彼の功績は、英語が有る限りは尽きず、また英訳聖書がある限りは、英語国民全体は、再びカトリックにならない。
聖書を国民に与えたいと思っても、容易に彼等に受けられないのは、チンデールの場合に照らして見て明らかである。純福音の敵は、政府と教会とである。聖書の伝播に従事する者は、生前にその功績を認められる事を期待してはならない。
12月18日(火) 晴
年末の来客が多く、応接に忙しかった。朝は第一に、ペテロ後書3章10〜13節を読んだ。いわく、
主の日の来る事盗人(ぬすびと)の夜来るが如くならん。其日には天は大いなる響きありて去り、体質尽(ことごと)く焚毀(やきくず)れ、地と其中に有る物皆な焚尽きん……然れば汝等神の日の来るを待ち、之を速にせんことを務め、潔き行を為し、神を敬ふべき事を為すに非ず乎
と。こう読んで後に新聞紙を開けば、次のような大文字の見出しを見た、いわく「美しい夫人令嬢が今夜華やかな舞踏、外務大臣の奉祝夜会、おらが首相も大いに若返って踊る」と。使徒ペテロと田中首相兼外務大臣と、どちらが真理を教えるのか。
12月19日(水) 晴
北風が強く、寒い日であった。雑誌原稿締め切りと研究会諸勘定支払いで多忙であった。これも独立伝道の一部分であって、しかも最重要部分である。
ミッションや教会またはこの世の権力者からは一文も仰がずにキリストの福音を伝えなければならず、そしてこの不信者国に在って、30年以上もこのような事業を継続し得て、感謝の至りである。
今や私が欲しい物は何もない。孫どもには、既に彼等の注文以上のクリスマスを送り出して安心である。今からが私のクリスマスである。そしてそれはコリント後書5章21節である。いわく、
神、罪を識(し)らざる者を我等に代りて罪となせり。是れ我等をして彼に在りて神の義たることを得しめん為なり。
正子のクリスマスはお人形様、お祖父ちゃんのクリスマスはこの一節、
そして全ての人のクリスマスが、最後にこの一節に帰するのである。
12月20日(木) 晴
寒気が強い。我が国においてはほとんど2カ月にわたり、大饗宴が相次いだ間に、東隣の米国においては、共和党が大勝利を博して、さらに数年にわたる大繁栄が保障され、西隣の支那においては、国民政府は着々と基礎を固め、日本を除く諸外国との新条約締結も順調に進行し、今日は終(つい)に英国政府の新政府承認を見るに至った。
これは東洋、殊に日本に取り由々しい大事であって、あるいは日本が東洋における優秀権を失うに至る緒(いとぐち)とならないとも限らない。
信仰の立場から見てどうでも良い事であるが、世界の大勢を観る明のない政治家等に導かれる我が国の憐れさを痛感せざるを得ない。
神は何かの根本的罪悪の故に、日本を罰し給いつつあるのではないかと思われて心配に堪えない。
12月21日(金) 晴
久し振りに朝日を浴びながら、独り戸山ケ原を散歩して愉快であった。近隣は悉(ことごと)く俗化したけれども、ただこの原と祈祷の森とだけは元のままに残って感謝である。
◎ 「内村教会」の信者が出来、その伝道師までが出来て、心痛堪え難い。これはもちろん私が作った者でない。人に頼らなければ信仰を維持することが出来ない者たちが、私の意志に反して、そのような者と成りつつあるのである。
「人は生まれながらにしてカトリック信者である」とは、そのような者を言うのである。そして私がカトリック信者よりも嫌う者は、「内村教会」の信者である。そして「内村教会」の信者となる者はみな、直接間接に教会の感化を受けた者である。純粋の日本人は、殊に日本武士は、教会人となる途(みち)をさえ知らない。
12月22日(土)
自分一人は至って幸福である。ところが自称弟子たちに、非常に苦しめられる。師を誤解する者は弟子である。ヘーゲルがその師カントの説を誤って伝えたように、法然上人の弟子たちが、彼等の師に数限りない迷惑をかけたように、弟子は師を誤って後世に伝え、そして後世は弟子に聴いて、真の師を知ろうと思わない。
世にこれよりも大きな悲劇があるとは思えない。しかし幸いにも私は自分の思想信仰をペンに留めておいたから、後世は私が書いた物によって、直ちに私を知ってくれるであろう。
しかし直接私に就て学んだ人たちが、全然私を誤解している事を知る時の、その辛さは譬えようがない。
師として最も幸福な事は、直弟子は一人も持たない事であろう。
◎ 桜井ちか子女史が高齢を以て永眠し、今日本郷組合教会において行われたその葬儀に列席した。女史を初めて知ったのは、明治12年函館においてであって、その後間歇(かんけつ)的ではあったが、交際は絶えずに今日に至った。明治大正に活動した偉大な婦人の一人であった。
12月23日(日) 晴
朝は七分通り、午後は満員の集会であった。この日を以て今年の集会を終る。滞(とどこお)りなく53回の集会を催した。相変わらず幸いな一年であった。身体は疲れるが、心は聖日ごとに若やいで、止めようと思っても止めることが出来ない。
今日もある有力な教会の有力な会員の入会があって、喜ばしくもあり、悲しくもあった。このような信者を失わざるを得ない教会に対し、深い同情を表した。もちろん幾度か勧告を試みて、止むを得ず入会を承諾した次第である。ただし当方の教に飽き足らずに他の教会に行く信者もいることだから、この事に関しては
教師相身互いである。
12月24日(月) 曇、夜雨
聖書研究会男女青年組のクリスマスを催した。別に余興は無かったが、私達相応の意義深い集会であった。松村工学士の飛行機の話は、殊に面白かった。主として大学程度の男女学生130名の会合であって、見るからに楽しかった。
12月25日(火) 雨
我が信仰生活における第50回のクリスマスである。第1回を共に守った者8人の内、5人は既に世を去り、残りはわずかに3人で、しかも離れているので、共にこの日を守ることは出来ない。
人生は、これを顧みればつまらない事極まりない。けれども前を望めば希望満々、栄光の主は私を待っておられる。私は世に在って彼の聖名(みな)を言い表わしたので、彼は約束に従って、私の名を父の前に言い表して下さると信じる。
◎ 前号最後の歌は、誤植のために歌でなくなった。次のように訂正されるべき者である。
第五十回独り迎ふるクリスマス
楽しくもあり悲しくもあり。
さらに「今年の元旦」と題する一首を加える
元日や先づ正(まー)ちゃんと叫ぶ声
今年も去年(こぞ)と変ることなし
12月26日(水) 曇
夜某所において聖書研究会会員長老連の有志クリスマス晩餐会を開いた。出席者男女56名、いずれも責任ある地位に立つ人であって、これによって見ても、私たちが教会側で言うような、キリスト教界の流浪人でない事が分かる。十数名の卓上感話があり、真に充実した上品な会合であった。
◎ この夜、小山内薫氏の死を聞いて驚いた。氏もその青年時代においては、熱心な聖書之研究研究会員の一人であった。けれども早く信仰と私を離れ、背教者だと自ら任じ、役者芸人を友として、信仰の事は、これを小説を作る材料とするに過ぎなかった。
そして彼と共に私の所に来て聖書を学んで、終(つい)に信仰を離れたいわゆる俊才は数多(あまた)いる。小山内君と言い、有島君と言い、数えれば悲歎の種とならないものはない。彼等を思うたびごとに、日本現代の青年、殊に大学生等には、貴いキリストの福音は、再び教えまいと思う。
12月27日(木) 晴
多数の訪問客があった。いずれも難しい問題を持っての訪問であって、応接に非常に骨が折れた。唯一人Sさんが、手製の美しいスリッパを携えて、純然とした感謝の訪問をしてくれて、有難かった。
その上に伊藤一隆の病が重く、彼を病床に見舞って、辛い役目を務めた。苦しい歳の瀬である。
12月28日(金) 曇
喉(のど)の痛みが強く、今日は面会を断って休んだ。しかし、来客は後から後へと絶えず、彼等を追い返すことは、非常に辛かった。日本人は何故、平常は無沙汰して、暮が押し迫って、申し合せたように、一度に押しかけて来るのか。
彼等の中に大した用事の無い者が、信仰談と称して、分かり切った事を、長たらしく話して行く者も少なくない。そして善い事を聞かせてくれる者は滅多になく、訪問のついでに一身上の困った話を聞かせて、私の判断を仰ごうとする。
故に来客面会は苦労の種であって、一人を送り返してほっと一息するのが常である。西洋にあるような友誼的訪問なる者は、日本には無い。何と憐れな国でないか。
12月29日(土) 晴
喉が痛くて全身が疲れ、今日は終日病人であった。しかし押して雑誌校正を終った。姪第一号が去って、第二号が来て、私たちを慰めてくれる。公けの仕事が済んで、私の仕事に取り掛った。
故ルツ子の名により、少しばかりの慈善をして楽しかった。逝った子を思い、その者に代って義務を果たす、こんな美しい純な心持はない。愛する者が居る所に、私の心は通う。時々見えない上なる国に心を引かれるのは好い事である。
12月30日(日) 晴
講演の無い日曜日であった。滅多に無い事である。独り広い講堂に坐して祈った。特別な神聖味があった。身体に大きな疲労を覚え、大した事は何もし得ない。このような場合にただ信じる。主イエスを仰ぎ見る。彼が私の
いさほし(:勲功、功績)、我が事業である。
年末に際し、多くの友人が多くの物を贈ってくれる。主として食品である。ところが憐れなことに、老人にこれを消化する
胃力がない。ただ徒にこれを眺めて、壮年時代を追想するだけである。
12月31日(月) 晴
姪第二号に伴われてバビロンに行った。大晦日のバビロンとしては、至って静かであった。不景気のためであろう。チーニーの詩篇注解とカーライルの肖像絵はがきを買った。別に欲しい物は何もない。
◎ ここにまた旧年を送る。過去を顧みて、満足なものは何もない。為した事業は悉(ことごと)く不満足である。これを思うだけでも不愉快である。過去を振り返ると、生れなかった方が遥かに増しであったと思う。
唯一つ満足な事がある。
神の独子(ひとりご)が人類のために死なれた事である。この事だけは完全な善である。そして
この事を知って我が事として信じる事が出来た事、これに勝る幸福はない。過去68年の生涯において何一つ善事をしなかったけれども、この事を信じられただけで、生れた甲斐は充分にある。
ロマ書1章17節である。これは社会の事でもなければ人類の事でもない。
自分の事である。他人に伝道するための福音でない。自分が救われるための福音である。故に教会や宣教師に何と言われようが、信仰を止めることが出来ないのである。
サヨナラ1928年!
(以下次回に続く)