全集第29巻P7〜
近代人の神
大正14年(1925年)1月10日
「聖書之研究」294号
◎ 私が見るところによれば、近代人が神を信じると称するのは、たいていの場合は神を信じるのではなくて、自己を信じるのである。彼等は神の名を借りて、自己の意見を押し通そうとするのである。
ゆえに自分の意見に反しない限りは神を信じると称するが、一朝神の聖旨(みこころ)が自分の意見と合わないことを示されると、彼等は憤然と起って神に背くか、そうでなければ神の教えを曲げて、自分の意見に適合させようとする。
◎ 近頃、あるミッションスクールにおいて近代式の高等教育を受けたある若い婦人が、その為すことがことごとくキリスト教の神とその聖書が教えるところに反する事を示されると、彼女は答えて言った、「もしそうであるならば、私は他に神を求めます。また聖書以外に聖書を作ります。私は私がする事をことごとく是認してくれる神と聖書とを発見せずには止みません」と。
言葉は甚だ矯激(きょうげき)であるが、近代人の心理状態を表明して誤らないものである。
自己を是認してくれる神と聖書、これが近代人最大の要求物である。
◎
近代人とは他でもない。自己を神として仰ぐ者である。道徳の標準を自己に求める者である。極端な主観主義者である。神を自己の上に認め、道を自己の外に求めるのは、彼等に為し得ないことである。
神に自己を砕いていただくとか、自己を殺して神の聖旨(みこころ)に従うというようなことは、近代人が決してしない、またし得ないことである。
しかしながら神は、近代人といえども自分の自由にすることの出来る者ではない。神は
大我と称しても、「大きな我」ではない。我以外の、我以上の、我に絶対的服従を要求する者である。
人は神に対して土塊(つちくれ)の陶人(すえものし)に対するような者である。自分から彼に要求を以て臨むことの出来る者ではない。
今や多くの求道者または信者と称する者が、神の命令者であって、服従者でないことは、嘆くべきことである。私たち伝道者は、近代人のこの横暴を許さない。彼等が他に神と聖書を求めるのは、彼等の勝手である。彼等はただ、神は彼等の玩具ではないことを知るべきである。
完