全集第29巻P19〜
(「ガラテヤ書の研究」No.3)
第3回 教義の大要
(ガラテヤ書1章1節〜5節の研究)
◎ ガラテヤ書1章1〜5節は、この書簡の挨拶の言葉である。そしてその内に、全書の意味が籠(こも)っている
パウロが神に召された使徒である事は、第1節で言明された。そして彼が伝えるように命じられた福音は何であるか、その大要が、これ等数節の内に明記されている。
私たちはこれを読んで、意外に感じる。しかもその意外なところに、福音が福音であるゆえんがあると信じる。
◎ 私は「教義の大要」と言う。教義とは、教会が強権によって信者に課する信仰箇条ではない。
信者の信仰を簡単明瞭な文字で言い表したもの、それが教義である。ゆえに教義は悪いものでない。その反対に信者の立場を明らかにするために、最も必要なものである。
私たちの信仰は、曖昧(あいまい)であってはならない。一目瞭然でなければならない。世がこれをどのように思うかは、私たちが意に介する事ではない。「然り然り、否な否な、之より過るは悪より出るなり」である。教義を掲げるのは狭いと言う者は、未だ信仰の単純性を知らない者である。
◎ そしてパウロが取って動かなかった教義の一つは、
キリストの復活であった。「キリストを甦(よみがえ)らしゝ父」と言う。パウロは地上に生存したナザレのイエスを通して使徒となる使命を受けたのではない。死から甦(よみがえ)った主キリストから、ダマスコ途上において異邦伝道の職を授かったのである。
復活が何であるかは別問題としてパウロは、キリストは死んで甦り、今は天に在って、地上の万事を指揮しておられることを、毛頭疑わなかった。彼は死んだイエスの遺訓によって動く、その崇拝者ではなかった。活きている救主に仕える、その従者であった。
父なる神は、甦ったイエス・キリストによって、彼に使徒の職を御授けになったと言う。この世の知者は言うであろう、これは荒唐無稽な言葉であると。
けれどもこの意外な言葉の内に、パウロの福音の勢力が宿るのであって、これなしには彼の伝道はなく、また当時の文明世界を救ったキリスト教は無かったのである。コリント前書15章1節から11節までを読みなさい。
◎ キリストは死から甦り、今は活きて父と共に、万物をつかさどっておられる。その事が教義第一である。パウロはさらに次いで言う、「
汝等願くは父なる神及び我等の主イエス・キリストより恩寵(めぐみ)と平康(やすき)を受けよ」と(第3節)。これまた意外な言葉である。
キリストは父なる神と並び称すべき同等の方であると言うのである。どのような人がこの地位に立てるか。世に聖人はいたが、神と同等の聖人はいなかった。釈迦の弟子も孔子の弟子も、その師を神としては崇めなかった。
ところが人に神の栄光を帰することを最も嫌ったヘブル人の一人であるパウロは、ここに恩寵(めぐみ)と平康(やすき)の出所として、イエス・キリストを仰いだのである。狂か迷か、いずれにしろパウロがキリストを神として拝したことは確かである。
殊更にキリスト神性論を唱えたのではない。けれども彼がキリストを人として扱わずに、神としてこれに仕えたことは、これまた疑いのない事実である。
◎ 第三にキリストは「
我等の罪の為に死たまへり」と言う。
私たちの罪が彼の死の原因であったことは明らかである。彼は御自分のために死なれたのではない。または御自分の主義を守るために死ぬことを余儀なくされたのではない。
私たちの罪が彼を十字架の死に追いやったのである。
たとえ贖罪の死でなかったとしても、身代わりの死であったことは確かである。彼に在って「
彼は我等の愆(とが)の為に傷(きずつ)けられ、我等の不義の為に砕かれ、自(みず)から懲罰(こらしめ)を受けて我等に平康(やすき)を与(あた)ふ。その撲(うた)れし痍(きず)によりて我等は癒されたり」とある預言者の言葉が実現したのである。
そしてキリストのこの死が、贖罪の死であったことは、聖書の他の個所によって明らかである。人は自分で自分の罪を除くことは出来ない。神はその独子(ひとりご)に人の罪を担(にな)わせ、人に代わって贖罪の死を遂げさせられたとは、パウロが他の使徒と共に唱えた事である。
福音が福音である理由はここにある。初代の信者は、「キリスト我等の罪の為に身を捨て給へり」と聞いて、それが何を意味するかをよく解したのである。パウロは今日の多くのキリスト教会の教師たちがするように、社会改造または道徳的努力を称して福音とは言わなかったのである。
「
我等弱かりし時にキリスト定りたる日に及びて、罪人の為に死たまへり」(ロマ書5章6節)とは、彼の福音の根底であった。
罪の赦しの必要条件として、キリストの十字架上の死を認めない所に、パウロは福音を認めなかった。
◎ 第四は、「
今の悪世(あしきよ)より我等を救出(たすけだ)さん」ための死であったと言う事である。「今の悪世」とは、パウロ在世当時の世を称して言ったのではない。現世全体を指して言ったのである。
これまた近代人の意外とするところである。もしこの世が悪しき世であると言うならば、善き世とは、どこにあるか。この世に悪があるのは疑わないが、しかし善くすることの出来ない世であって、実質的に悪しき世であるとは、近代人ならびにこの世の人たちが全然承諾しない事である。
けれどもパウロはそう信じた。イエスもまたそう教えられた。イエスならびに使徒たちは、いわゆる楽天主義者でなかった。人類は罪の手に売られた者、世は神の呪いの下に在る者である。悪魔は「此世の主(ぬし)」であって、この世は根本的に悪い世であるとは、聖書の教示(おしえ)である。
ゆえに言う、「
此世或(あるい)は此世に在る物を愛する勿(なか)れ。人もし此世を愛せば、父を愛するの愛その衷(うち)に在るなし」と。
この世は人が施す教化運動ぐらいで善くなる者でない。これは神の改造を待たなければ、とうてい善くなる見込みのない者である。
◎ ここにおいて第五の教義が起こるのである。即ち人はこの世から救出される必要がある。
救済とは即ち救出であるという教義である。
信者はこの世を改造して神の国としようとするのではない。彼はこの世を否認して、即ち根本的に悪い世であると認めて、その内に在って神の義を証しするのである。信者はロトのように、神に導かれて、その中から脱出すべきである。
厭世主義と言えばそれまでである。けれどもそれが聖書の人生観であることは確かである。キリスト教は、決してこの世を善い世であるとは認めない。またそれが進化して終(つい)に天国となるであろうとは教えない。キリスト教は、悪は悪であると称し、人に偽りの希望を供して彼を欺かない。
パウロは明白に、「
キリストは神の旨に循(したが)ひ、今の悪しき世より我等を救出さんとて、我等の罪の為に身を捨たまへり」と言って、彼の福音が何であるかを明らかに示した。贖罪、救拯(きゅうじょう)、キリストの再臨、万物の復興等の教義が、この一節の内に含まれているのである。
以上は、ガラテヤ書簡の挨拶の言葉の内に含まれたパウロ唱道の教義の大要である。そして問題は、これは自分が奉じる教義であるか、それである。
今やキリスト教と言えば、愛の教えであると言う。けれどもその愛は、キリストの復活、彼の神性、贖罪、救出の教義に現れた愛である事を知らなければならない。キリスト教を浅く容易(たやす)く解して、自分はキリスト教を了解したと称する者が多いことを悲しむ。
そのような人は、ガラテヤ書を読んで、その発端の言葉に躓くのである。殊にこの世を称して悪しき世と言い、救いはこの世を善くする事ではなくて、その中から救い出される事であると聞いて、彼等は意外の感に打たれ、自身福音の信者でない事を認めるか、そうでなければパウロの信仰を非難し、
これはユダヤ教の感化から脱出できなかったパウロ独特の人生観であって、キリストのそれではないと断定し、それによって自己の不信を弁護しようとする。
そのような人には、ガラテヤ書は至って興味の少ない書である。ただパウロ研究の良い材料として、また宗教史の好い材料として珍重されるに止まる。今や第16世紀の大改革を起こしたこの書が、キリスト教会において必要不可欠な書として重んじられないことは、教勢衰退の何よりも良い証拠である。
◎ 今の人は言うであろう、キリストは甦ろうが甦るまいが、人であろうが神であろうが、それは実際生活に何の関わりもない問題である。人はただ、キリストのような人格を具(そな)えれば足りる。その他の神学問題など、私たちはこれを不問に付して良い。
殊に宇宙ならびに人生に関しては、私たちは近代の進歩した科学ならびに哲学に学ぶべきである。旧い昔のパウロに学ぶ必要はない。もしそのような事にまで私たちが聖書に聴かなければならないと言うならば、私たちに知識の進歩もなく、活動の自由もなくなるであろう。
神学問題の考究や、古代神話の穿鑿(せんさく)は、これを暇人に委ねれば良いと。
◎ そうではない。私たちの救主は、死んで甦った、神と等しい者でなければならない。そうでなければ、彼は弱い罪人である私たちに、救主としての用をなさない。キリスト信者は、死んだ聖者の跡を辿って、自分の完成を計る者でない。活ける救主に身を委ねて、神に似ることを期する者である。
キリスト信者はキリストを模範として歩む者でない。彼に直ちに導かれる者である。ゆえにパウロが言ったように、「
キリスト若(も)し甦(よみが)へらざりしならば我等の信仰は空しく、我等は尚(なお)罪に居る」のである(コリント前書15章17節)。
キリスト復活の信仰は、キリスト信者にとって実際上最も必要である。
◎ この世が悪しき世であることは、間違いのない事実である。これは説でもなければ神学でもない。人生を深く味わった者なら誰もが認める事実である。
世は学術の進歩と共にだんだんと善くなるというのは事実ではない。その反対が事実である。世はだんだんと悪くなりつつある。イエスが教えられた通り、またパウロがここに述べた通り、この世は根本的に悪い世である。この事を認めずにこの世を善くしようと思うので、私たちは限りなく間違いを行うのである。
敵を知らずに敵に勝つことは出来ない。病を知らずに病を癒すことは出来ない。不治の病人を癒そうと思うので、無益な努力をするのである。
この世は人力によってはとうてい救えないまでに腐った世である。ゆえに全能の神による改造を要する世である。そして私たちは、自己を全く神に引き渡して、彼の御器(おんうつわ)となって、その聖業に参加するのを許されるのである。
◎ 亡ぶべく定められた世である。故に世の属(もの)として存(のこ)る間は、自分も救われず、世を救うことも出来ない。人は聖(きよ)められなければならない。即ち神の属(もの)となるために、世から離され(聖別され)なければならない。
この世の人でありながら、神の救いに与ろうと思うのは無理である。キリスト信者は、世人の目から見て
変人であるのは止むを得ない。
(10月19日)
(以上、1月10日)
(以下次回に続く)