全集第29巻P30〜
(「ガラテヤ書の研究」No.5)
第5回 血肉と諮(はか)らずアラビアに往く
(ガラテヤ書1章11節以下の研究)
◎ パウロは自由独立の伝道師であるとは、彼がこの書簡の劈頭(へきとう)第一に宣(の)べた事である。彼が伝えた福音もまた、自由独立の福音であるとは、彼が今から述べようと思う事である。
即ち使徒である彼自身の職分と、彼が宣(の)べ伝える福音とは同じく、人から出たのではない。また人を経て授けられたのではない。神から出て、直ちに神の子によって彼に授けられたものであるとの事である。
即ち、
自由独立の人によって、自由独立の福音がガラテヤ人に伝えられたとの事である。甚だくどい繰り返しのようであるが、この際パウロの立場を弁明するに当たって、必要不可欠な仕方であった。
◎ パウロはここに、前とほぼ同じような口調で言う、
兄弟よ、我れ改めて汝等に示す。我が曾(かつ)て汝等に伝へし所の福音
は、人に依る者に非ず。そは我れ之を人より受けず、亦教へられず、
惟(ただ)イエス・キリストの黙示に由りて受けたれば也。
(11、12節)
と。「我れ改めて汝等に示す」と言う。これはパウロがガラテヤ人と共にいた時、しばしば彼等に告げた事であった。そして今や彼等の変信に際して
改めてまた告げざるを得ないということである。
これはパウロにとって、重要な問題である。彼にこの事を認めなければ、彼の使徒としての権威を認めることは出来ない。「我が福音は人に依る者に非ず」と言う。原語の kata anthropon は、「人に準じない」という意味である。
人的でない、神的であるという意味である。
ゆえに「我が福音は世の流儀に倣(なら)う者に非ず」と訳して間違いないと思う。即ちパウロが伝えた福音は、その内容・実質においてはもちろんのこと、その授受の方法に至るまで、世間的でないとのことである。
もし今日の言葉で言うならば、「兄弟よ、我れ改めて汝等に示す。我が曾て汝等に伝へし所の福音は、
世間的に非ず」と言えば、最も良くパウロの思いを伝えるであろうと思う。
パウロの福音は何であったにせよ世間的ではなかった。これは全く非世間的であった。この世の人たちの眼によっては、とうていこれを解することが出来ない。そしてガラテヤ人は霊の人であることを止めて、再び元の肉の人即ちこの世の人に帰ったので、パウロとその福音とを誤解するに至ったのである。
◎ 内容は後に譲り、先ず授受の方法について言う。「我れ之を人より受けず、亦教へられず、惟(ただ)イエス・キリストの黙示に由りて受けたり」と言う。人を経て伝えられず、また人に教えられずと言う。その点において既に、非世間的である。
福音の根本的真理を伝えるに当たって、パウロにこの世の先生はいなかった。彼はその事において、全く自由であり、独立であった。
彼は福音をエルサレルの母教会から受けず、またペテロ、ヨハネ等の使徒たちに教えられず、直ちにこれを、人の子ではなくて神の子であるイエス・キリストから受けた。しかも諄々と教えられたのではなくて、直覚的に、啓示(しめし)によって受けたと言う。
実に大胆極まる告白である。もし真実(まこと)でなければ、最大の虚偽(いつわり)である。そのような事は絶対にあり得ないと、彼の反対者は言ったに相違ない。
これに対してパウロは、事実ありのままを述べて、彼のこの言葉が妄言ではなくて、真実であることを証明した。「
今我れ汝等に書贈る所は神の前に偽らず」とは、彼が自分の良心に訴えて、しばしば繰り返して言った言葉であったろう(1章20節)。
◎ そして事実は、1章13節から2章末節に至るまでの通りであった。これはパウロの改信ならびにその後の事情に関する彼の自叙伝であって、彼の生涯を知るに当たって、最も貴重な記事である。
使徒行伝は、パウロの生涯について最も多く記しているが、その正確な事においては、彼が遺した書簡に及ばない。そして書簡の中で最も写実的なのは、このガラテヤ書である。
人を知る者は、その人自身である。殊にパウロのような内的実験を叙述するのに秀でた人の自己描写は、伝記文学の経典として良いものである。文字そのものが、偽りのない事実の証明である。
もし有った事のない事をこのように如実的に叙述し得る人がいるならば、その人は実に詐欺師の首(かしら)である。しかし世に未だかつてパウロの真実を疑った者はいない。
◎ パウロは世にいわゆるインテンスキャラクターであった。即ち何事をするにも、徹底せずにはおられない性格の人であった。彼はユダヤ教にいた時にはユダヤ教に徹底し、キリスト教に反対する時は徹底的に反対し、過ちを改める時には徹底的に改めた。
ラオデキヤ教会の信者のように、冷ややかでもなく熱くもない事は、彼には耐えられなかった。故に彼は一たび彼の旧信仰が誤っていることを示されると、彼は「直に血肉と謀ることをせず」、絶対的に神の命に服したと言う。
「血肉」とは、父母兄弟等の血縁だけを言うのではない。情実または利益等、身に関わるすべての苦楽または利害をも指して言うのである。
「血肉と謀らず」とは、誰とも謀らず、また自分の利害をも省みず、一意専心神の啓示(しめし)に従って行動したという事である。徹底の人である。独立の人である。勇敢の人である。
過激の人であると言えば言えないことはないが、しかし神の声を聞いた時に、この勇気と決心がなければ、神と人とに対して忠実であり得ない。
もしパウロがこれ等血肉と謀ったならばどうか? もし彼が父母兄弟に相談したならば、彼等はもちろん、彼に反対したであろう。若(も)し自分に謀ったならばどうか? 彼自身の利害観念が、そのような無謀な事業に入ることを許さなかったであろう。
若しエルサレム教会の十二使徒の許に走ったならばどうか? 彼等は先ず第一に彼の誠意を疑い、彼を多くの質問によって試し、彼の熱心を冷やし、彼の勇気を挫き、また多くのユダヤ的思想を課して、彼が直接に神から授かった啓示(しめし)の自由を妨げたであろう。
人は彼の気まま勝手を責めるであろうが、彼には彼が守るべき聖なる秘密があった。そのような場合には、血肉はその全ての形において省みないのが知恵でありまた義務である。
人に諮(はか)らず、自己に省みず、さらに直ちに神に教えられるために、パウロはアラビアに往った。いわく、
神、其聖心(みこころ)に於て善とし給ひし時に、即ち我が母の胎に在り
し時より我を選び置き、その恩恵(めぐみ)をもて我を召し給へる者、我
をして異邦人に宣伝へしめんが為に、其御子を我が衷(うち)に顕(あら)
はし給ふを善とし給ひし其時、
我れ直に血肉と謀ることをせず、又我より先きに使徒となりてエルサレ
ムに在る所の者にも上らずして、去りてアラビヤに往けり。而(しか)し
て復(ま)たダマスコに返へれり。
(15〜17節)
と。「エルサレムに上らずに、その反対にアラビアに下った」との事である。即ち人に教えられようとして教理の所在地であるエルサレムには往かずに、神に教えられるために無人の地であるアラビアに行ったとの事である。
◎ このような言葉がある、即ち「英国人の歴史は、海を離れては語れないように、イスラエルの歴史は、砂漠を離れては語れない」と。
イスラエル人はその最善のものをすべて砂漠で得た。モーセはエジプト人から逃れてメディアンの地に行き、そこで神御自身の教育に与った。エリヤもまたホレブの山に行き、そこで神の細くて静かな声を聞いた。
バプテスマのヨハネもまた、ユダの山地の荒野に住んで、そこで主の前に道を備えるための準備をした。そして今やパウロは、その心に神の子を示されて、異邦人の使徒という職に就こうとして、人である教師の許に走らずに、人のいないアラビアの砂漠に行った。
砂漠はモーセ、エリヤ、ヨハネ、パウロ等、偉大な神の人たちを教育するために、神が設けられた最良の学校であった。
言ってはならない、砂漠は経済的に無価値なので人類に用はないと。人類にモーセの律法とパウロの福音とを供しただけで、1200万平方マイルのアラビア砂漠の存在の理由は、十分に認められるではないか。
神が地球面上に多くの不毛の地を存(のこ)されているのは、理由がない事ではない。地はことごとく農園か工業地であるべきではない。「
人はパンのみにて生くる者に非ず。神の口より出づる凡(すべ)ての言に因る」とあるので、人のいない砂漠ややせた土地もまた、人のために必要である。
砂漠の無い所に、神の人は起こらない。また砂漠を求めない人に神の霊は臨まない。人の生命である神の言葉に接するために、砂漠は必ずなくてはならないものである。
◎ パウロのこの実験が、文字通り今の人に繰り返されようとは思わない。しかしながら、その根本の精神において、全てのキリスト信者は彼の跡を践(ふ)むのである。キリスト信者に人である教師はいなくはないが、その心に神の子を顕(あらわ)す者は、人ではなくて神である。
「
人は聖霊に由るに非(あらざ)ればイエスを主と称(よ)ぶ能(あた)はず」とパウロが言ったのは、その事である。
イザヤは今の時に就て預言して言った、「
汝の子等は皆なエホバに教へられん」と(イザヤ書54章13節)。人には人がとうてい教えられない事がある。福音の真理などはそれである。これは「
目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ念(おも)はざる者」である。
これは神がその聖子(みこ)によって直に人の霊に示されるものであって、この示しに与る実験において、パウロも今の日本のキリスト信者も、少しも異なる所はない。
この事については、私もパウロと同じように、諸君に向かって言うことが出来る、「兄弟よ、私は今改めて諸君に言う。私が今日まで諸君に伝えた福音は、人に依るものではない。何故なら、私はこれを人から受けず、また教えられず、ただイエス・キリストの黙示によって受けたからである」と。
私はクラーク先生、シーリー先生等から教えを受けたが、キリストを私の心に現した者は、これ等の先生ではなくて、神御自身であった。そして諸君自身もまた、同じ事を言い得るのである。言い得なければならないのである。
◎ そして私にもまたアラビアが有った。あるいは砂地の砂漠ではなかったかも知れない。しかし人のいない寂しい所であったことは事実である。私もまた私の生涯のある時に、アラビア砂漠に追いやられて、そこで直に神の御声に接したと信じる。
そして日本のような人口稠密(ちょうみつ)な国においては、砂漠は砂の砂漠ではなくて、無情無慈悲の砂漠である。冷酷な今の社会、そう宗教界、これが砂漠でなくて何であるか。そして人の無情が私たちをそこに追いやる時に、私たちはそこに神の御声を聞くのである。
真のキリスト信者は、真のキリスト教を神学校において学ばない。また教会の講壇から聞かない。アラビアの砂漠で学ぶ。そこに響く神の細くて静かな声から聴く。こうして私たちはすべて神に教えられて、真の兄弟姉妹となり得るのである。本当の孤独を味わった人だけが、本当に一致することが出来るのである。
(11月2日)
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「アラビア」の解
◎ パウロが行ったというアラビアはどこであったかと言う問題については、種々(いろいろ)な異説がある。アラビアは国と言うよりも、むしろ大陸と称すべき地域であって、単にアラビアと言うだけでは、それがどの地であるかは分からない。
パウロはこの時に、ある人が唱えるように、彼の最初の伝道を試みるためにアラビアに行ったのではない。沈思黙考して福音の真理を授かろうとして、隠匿したのである。そして広いアラビア大陸の中で、彼のこの目的に最も好く適(かな)った所は、言うまでもなくシナイ半島である。ここはモーセがエジプトから逃れて、四十年間の沈黙的生涯を送った所である。
ここで彼はエホバの啓示(しめし)に接し、後日イスラエルの民を率いてここに留まり、山の頂において、エホバの法(のり)(十戒)を授かった。ゆえに真実なイスラエル人であって、暫時の隠匿を企てる者は、この思い出多い地を選んだに相違ない。
預言者エリヤが女王エゼベルの怒を避けたのもここであって、彼が細くて静かな声を聞いたと言うのは、このシナイ半島ホレブの山においてであった(列王記略上第19章)。
そしてパウロもまた、今や人生の岐路に立ち、彼の信仰の基礎を定め、神に仕える途(みち)を明らかに示される必要を感じるに至り、地理学者の称するアラビア・ペトラ(岩石のアラビア)の地を選び、ここに三年間祈祷と研究との生涯を送ったと見るのが、最も適当な見方であると思う。
故に1章17節に「アラビアに往き」とあるが、それはシナイ半島山岳の地に往ったと解すべきであると思う。
◎ こうしてモーセの律法と同じく、パウロの福音がシナイ半島において神から人に授けられたと思えば、この砂漠の地の貴さが知られるのである。
(以下次回に続く)