全集第29巻P41〜
(「ガラテヤ書の研究」No.7)
第7回 アンテオケにおけるペテロ
(ガラテヤ書2章11〜15節の研究)
◎ 初代のキリスト教に二大中心があった。その一つはもちろんエルサレムであった。これは十二使徒の本拠地であって、福音の発祥地であった。その他の者はアンテオケであった。これはいわゆる異邦的キリスト教の根拠地であって、異邦伝道の発足地であった。
アンテオケはエルサレルからおよそ350マイル北にあった。その間にほとんど東京と大阪との距離があった。エルサレムが山上の城邑であったのに対して、アンテオケは大河に臨み、地中海からわずかに20マイル、ほとんど臨海の都市であった。
その地位において、人種において、制度文物において、二都は全く別世界の観を呈した。しかしキリスト教は非常に適応的であり、エルサレムに始まったこの教えは、たちまちのうちにアンテオキアに深い根を下ろした。事は使徒行伝11章19節以下において詳らかである。
その内で特に注意すべき事は、イエスの弟子たちがクリステアンと呼ばれたのは、アンテオケに始まった事である。ギリシャ語の Christianos は、Chrestianos の転訛(てんか)であって、クレスチアノスは「善良な人」即ち「お人よし」という半ば嘲りの言葉であったろうとの事である。
いずれにしろ福音が異邦人の都会であるアンテオケに根拠を据えてから、その性質が一変したのである。その時まではキリスト教と言えば、ユダヤ人か、そうでなければユダヤ教に入った異邦人によってのみ信じられた教えが、今はユダヤ教を通らずに、直ちに異邦人に受け入れられるものとなったのである。
このようにして、キリスト教に明白な二大派があるに至った。即ち、エルサレムを本拠とするユダヤ派と、アンテオケに新たに起こった異邦人派とがそれであった。この二大派の関係、折衝、協力等を知る事は、初代キリスト教の真相を知る上において、最も必要である。そしてガラテヤ書2章後半部などは、それを伝えるものである。
◎ パウロは、エルサレムに行って、福音の真理については、十二使徒から教えられる事は何もなかった。そしてアンテオケにおいては、使徒団の首長であるペテロの誤謬を正し、目の当たり彼を責めた。
神の前にユダヤ人と異邦人との差別はない事を示されて、これを実行した者はペテロである。そのペテロがアンテオケに来て、人種的差別を、その行動によって示したのである。
これは許すべからざる事であって、もしこの事を不問にすれば、福音をその根底において覆す恐れがあった。ゆえにパウロはここに、衆人の前において、ペテロを
目の当たり責めざるを得なかったのである。
◎ 人種的差別が悪いことである事は、今や誰もが認めている。しかしこれは、容易に取り除ける事ではない。ユダヤ人が今なお依然としてこれを実行するだけでなく、どの国民もある程度はこれを実行している。
インド人などは、他国民に向かってこれを実行するだけでなく、固い階級制度を設けて、同胞相互に対してこれを励行する。白人種は、有色人種を排斥する。白人種はまた、相互を排斥する。この世は排斥の世である。
米国のある政論家が、近頃米国の排日法を論じて言った、「全ての人種は平等であるとは神の聖旨(みこころ)であろうが、この事においてだけは、私たちは神に反対する事を許していただかなければならない」と。実に人種差別の止む時が、国際的戦争の止む時である。
◎ 人は人種差別の撤廃は容易な事であると思い、差別が悪事であることを人が知って、平等を実行すれば、それで事は成ると思う。しかし世に、実はこんなに難しい事は無いのである。
人種的差別の根拠は、自己尊重にある。自己が特に尊いと思うので、他が卑しく見えて、これを排斥するのである。自己の価値を知るまでは、人は他を尊敬しない。そして自己の価値を自己によって定める間は、人は自己を高く見て止まない。
日本人が日本人である間は、支那人や朝鮮人を低く見て止まない。日本人が日本人であることを止め、自己以外に自己を発見する時に、彼は全ての国民を、自己と同等に見ることが出来るのである。
ユダヤ人がユダヤ人を標準とし、異邦人が異邦人を標準とする間は、彼等の融合は不可能である。二者が自己以外に同一の標準を発見し、その内に自己を投じる時に、彼等は自ずから一体となって、相互を尊重するのである。
米国人が神の子キリストを信じる時に、即ち自分の義に頼らずに、神の子の義を自分の義とする時に、ここに米国人として誇らずに、キリストを誇りとするのである。そして日本人もまた同じ事をして、ここに真の日米融合が成立するのである。
人が信仰によって義とされると言うのは、自己以外の者の義によって義とされると言う事である。万国の民がキリストを信じる時に、即ちキリストの価値を自分の価値として認められる時に、人種的差別はその根底において除かれるのである。
◎ アンテオケにおけるパウロ対ペテロの問題は、この問題であった。人の価値は自己にあるか自己以外にあるか、その問題であった。
ユダヤ人の価値はユダヤ人であることにあると、ペテロならびにユダヤ派の信者は言った。そうではない、ユダヤ人にも異邦人にも無い、神の子イエスに在るとパウロは主張した。問題は実に世界的人類的最大問題であった。
パウロは後世万民のために、彼の主張をとって動かなかった。偉大なるパウロよ。アンテオケにおけるパウロ対ペテロの論争は、人類の歴史において関ケ原やウォータールー(
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Waterloo )以上の大決戦であった。
(11月16日)
(以下次回に続く)