全集第29巻P129〜
(「十字架の道」No.11)
第11回 パリサイ人とキリスト教会
マタイ伝23章1〜12節の研究。
マルコ伝12章38〜40節参考。
◎ イエスと教職との衝突において、彼は最後まで忍耐の態度を取られた。彼等の責問に遭って、彼はあくまで説明誘導の途(みち)を取られた。彼は彼等が亡びることを欲されなかった。
故に何とかして彼等に彼が誰であるかを知らせて、終(つい)に神の子を十字架に釘(つ)ける大罪を犯させないようにしようと努められた。
けれどもイエスの努力は、無効であった。彼と教職との間には、了解の橋を架けることが出来ない深くて広い溝が横たわった。
問答は終(つい)に破裂に達せざるを得なかった。そして十字架は歩一歩と近づいて来た。
◎ そして破裂に先立って注意があった。もはや教職に注意する必要はなかった。学者とパリサイの人たちについて、イエスの弟子たちに注意する必要があった。人がその罪を悔い改めない場合には、彼に鑑(かんが)みて、その罪を避ける必要がある。
「
汝等パリサイの麪酵(ぱんだね)を慎めよ。是偽善なり」(ルカ伝12章1節)との教訓(おしえ)は、この事である。
学者とパリサイの人に倣(なら)ってはならない。イエスの弟子たる者は、彼等と全くその行動を異にしなければならない。
◎ 第一の注意は、
偽りの教師を排斥しない事である。
学者とパリサイの人とは、モーセの位に坐す。故に凡(すべ)て
彼等が汝等に言ふ所を守りて行(おこな)ふべし。然れども彼等
が行(おこな)ふ所を為す勿(なか)れ。そは彼等は言ふのみにし
て行(おこな)はざれば也。
と。
教職は教職として尊敬すべきである。モーセの権威を以て語る者に、モーセに対するのと同じ尊敬を以て対さなければならない。神の言葉は誰を通して臨んでも、神の言葉である。故に謹んでこれに服従すべきである。
けれども教師の行為に倣うかどうかは、私たちの自由である。そして偽りの教師の場合においては、彼が伝える神の言葉は守って、その行為は倣(なら)ってはならないとの教えである。真に深い知恵のある教えである。教師の行為をもとにして、その教えを判断してはならない。
イエスのこの教えが常に守られれば、数多の教会騒動はなくて済むのである。多くの場合において、最も悪い教師が、最も善い教えを伝える。
水を運ぶ管(くだ)を飲むのではない。
生命の水を飲むのである。管の善悪によって水の善悪を裁いてはならない。
◎ しかしながら、行動(おこない)は別である。人は誰でも神の言葉を受けて、これを行動として現さなければならない。そして行動において私たちは、パリサイの人に倣(なら)ってはならない。
彼等は重くてかつ負うのが難しい荷を人に負わせて、自分はこれを動かすために、指一本動かそうとしない。即ち戒律を下すだけで、これを行う能力(ちから)を与えない。為すべし為すべからずと命じて、善を為し悪を避ける動機を伝えない。
けれどもイエスは、そのような教師ではなかった。彼の戒めは厳格であったが、彼はそれと共に、これを行う能力(ちから)を与えて下さった。
彼御自身が私たちの罪を負われて、私たちが彼の御足の跡に従うことが出来るようにして下さった。
要約すれば、パリサイの人の教えは律法であって、福音ではなかった。恩恵が伴わない道徳であった。彼等自身さえも担えない重荷であった。私たちは彼等の跡を踏んで、十字架の伴わない山上の垂訓を説いてはならない。
◎ いわゆるパリサイ宗とは、人に見られるための宗教、社会に認められるための宗教であった。教師と言われ、師父と言われ、博士として崇められるための宗教であった。即ち全く俗化した宗教であった。
そしてイエスは、焼き尽くす熱心を以て、この宗教を排斥された。彼は学者とパリサイの人の宗教と、御自分の宗教とを比べて、御弟子たちに教えて言われた、
汝等の内大なる者は、汝等の僕(しもべ)たるべし。凡(およ)そ
自己を高うする者は低くせられ、自己を低くする者は高くせら
るべし。
と。
意味は最も明瞭であって、何人もこれを誤解することはないであろう。フダとは聖書の句を書いて、これを守札のように額(ひたい)または腕に結んだものである。
◎ 解し難いのは、イエスの御言葉の意味ではなくて、彼の弟子であると称する者たちが、この明白な彼の御言葉に文字通りに背いて、今日に至った事である。
今日といえども、キリスト教国において、キリスト教会において、そしてややともすれば私たちの間にあって、パリサイ宗が文字通りに実現するのである。
教会は何よりも人に見られることを欲する。社会に認められると、勢力を得たと言って喜ぶ。日本基督教会と、組合教会と、日本メソジスト教会と、日本聖公会とが日本の四大教会であって、宗教的日本の天下は、彼等の間に四分されるべきものであると公言して憚らない。
「
汝等はラビの称を受くる勿(なか)れ」と、イエスは明らかに教えられたにも関わらず、教会は神学士、神学博士、監督、長老等の称を設け、そして教師たちはこれを受けて喜びまた誇るのである。
「
地に在る者を父と称ふる勿(なか)れ」との明訓があるにも関わらず、ローマ天主教会は、その首長を称して、パパまたはポープと言う。「法王」は意訳であって、「父」と言うのがその直訳である。
イエスは人を父と呼ぶなと教えられたのに対して、天主教会は、「否、我等は我等の教会の首長を父と呼ぶ」とあからさまに反対を表している。
イエスは明らかに「導師の称を受くる勿れ」と戒められたにもかかわらず、全てのキリスト教会は、あたかも主のこの戒命(いましめ)に正反対を表するような態度で、その教師を呼ぶのに Reverend の敬称を用いる。
このようにして、マタイ伝23章5節以下11節までの主イエスの御言葉は、全部一々彼の聖名(みな)を以て称えられる教会によって破られている。世にこれほど不思議なことはない。
◎ そのようでない事がキリスト教会の特徴でなければならない。そしてそのようにならせているのは、単に教師の罪ではない。いわゆる平信徒もまた、大いに与って力あるのである。
彼等は福音の真意を解せずに、自身直ちにキリストに導かれようとせずに、教師に頼るので、教師は自ずから「学者又はパリサイの人」と成るのである。
キリストの教会においては、師は一人即ちキリストである。そして信者はみな同等の兄弟姉妹である。この事が解らない者は、キリスト信者ではない。故に教会に連なる資格のない者である。
人が弱いことを唱えて、教職制度の必要を唱える者は、未だ、福音は人の弱さに勝つ能力(ちから)であることを知らない者である。
(4月12日)
(以上、8月10日)
(以下次回に続く)