全集第31巻P32〜
(「イザヤ書の研究」No.9)
その九 審判と救い 1章21〜31節
◎ 1章18、19節における罪の消滅の福音の宣言を以て、エホバが預言者を以てイスラエルに対して起こされた大訴訟は、ひとまず終りを告げた。イスラエルは裁かれ、罪に定められ、そして罪の赦しの約束に接して、ひとまず天地の大法廷から放免された。
これで審判(さばき)が済んだのではない。審判(さばき)の筋道が示されたのである。預言は預言、福音は福音である。そしてその実行と適用とは別である。
国も人も言葉で裁かれない。また言葉で救われない。人生の事実で裁かれ、また救われる。
シオンは正しい審判(さばき)をもつて
其帰来者(かえりきたるもの)は公義をもつて贖(あがな)はれん
然(さ)れども悖逆者(そむくもの)と罪人とは同時に壊(やぶ)れ
エホバを棄る者は亡び失せん
(27、28節)
◎ そして現実のユダとエルサレムとはどのようなものであったかと言えば、実に憐れむべき状態にあった。市は妓女(うかれめ)となり、公義は失せて、殺人はその内に満ちていた。
有司(つかさ)は盗人の侶伴(かたうど)となり、人は各々(おのおの)賄賂(わいろ)を喜び、贈物を追い求めるという状態であった。
名は神国、仁義の民であるが、実は淫乱国、収賄の民であった。これに対してエホバの怒は臨まざるを得ない。
事実を以て行われる罪悪は、事実を以て裁かれざるを得ない。主は言われる、
噫(ああ)我れ我が仇(あだ)に向ひて我が念(おもい)を晴らし
我が敵に向ひて我が讐(あだ)を復(か)へさん
我れまた我が手を汝の上に加へ
悉(ことごと)く汝の滓(かす)を洗ひ去らん……
然る後に汝は公義の市(まち)
忠実なる市と称(とな)へられん。
罪の赦しの福音の宣伝によって、雪のように、羊の毛のように白くなるのではない。事実を以てエホバに裁かれて、公義の市(まち)、忠実な市と称えられるようになると言う。
◎ エホバはこのようにその民を救われると聞いて、彼は無慈悲だと言う者は誰か。無慈悲ではない。その正反対である。言葉だけによって悔改めた民はどこにあるか。
もし神が警告の鞭を加えられなければ、自分の罪に目覚めて、彼に帰りくる者はいない。これは人類の実験であって、また私たち各自の実験である。
福音の宣伝、説教、演説、と単に言葉の散布によって、人が救われた例はない。福音が伝えられて、これを証明する事実の審判が臨んで、国も民も少しだけ目を覚ますのである。
何も2500年前のイザヤのユダとエルサレムの跡をたどるに及ばない。大正昭和の我が日本と東京とに、好い例証を見るのである。
市は妓女となり、殺人はその中に満ち、人は各々(おのおの)賄賂を喜ぶと聞いて、今日の東京市を思い出さない者が誰かいるであろうか。実に事実ありのままでないか。
上流婦人までが、芸妓、娼妓のように装うではないか。小学校の校長になるのさえ、視学官に贈賄しなければ成れないと、新聞紙は明らかに報じるではないか。
殺人は日々の出来事であって、その点において日本の東京は、米国のニューヨークまたはシカゴに似た市となりつつあるではないか。東京全市が遊郭であり、盗人の巣であると言って過言でないではないか。ただ、それをそのまま大胆に唱え得る預言者がいないまでである。
◎ そしてこの場合、福音の宣伝だけによって、日本と東京とが救われようと、誰が信じるか。
事実を以てする審判が必要でないか。大地震が必要でないか。財界の大動揺が必要でないか。
破産者が相次いで生じ、昨日の貴族は今日の平民となり、昨日までの富豪は、今日は社会の憐みを乞うに至る必要はないか。まことに「
シオンは義(ただし)き審判(さばき)を以て、其帰来者(かえりきたるもの)は、公義を以て贖(あがな)はる」である。
今や日本人が少し真面目に神の福音に耳を傾けるようになったのは、少数の伝道者の言葉が、彼等を動かしたからでない。父なる神の愛の審判が、近年に至って、頻々(ひんぴん)として彼等の上に臨んだからである。
◎ この事は、もちろん日本だけに限らない。いずれの国においてもそうである。米国など最もよく預言者の言葉に適中する国である。
「如何なれば忠実なる国は妓女(うかれめ)とはなれる。昔しは義(ただ)しき審判にて充ち、公義其の中に宿りしに、今は人を殺す者とはなりぬ」と読んで、イザヤは特別に今日の米国について預言したのではないかと思われる。
私たちピューリタン思想旺盛時代の米国を知る者は、今日の米国を見て、実に今昔の感に堪えない。今日の米国がキリスト教国であるとは、誰も信じない。米国は遥かに日本以上の審判によって、贖われる必要がある。
◎ しかしながら審判は、審判のための審判でない。潔(きよ)め救うための審判である。神は数多の患難(なやみ)を下して、国と民とを再び御自身の所有と為されつつある。
「公義を以て贖はる」とは、この事である。そして日本においても引き続く災難が、少し功を奏して、エホバの聖名(みな)が少しその民の間に揚がりつつあるのは、感謝の至りである。
その怒は唯(ただ)暫時(しばし)にして、其恵が生命(いのち)
と共に永し
夜は終夜(よもすがら)泣悲むとも朝(あした)には歓び歌はん
(詩篇30篇5節)
とあるのは、この事である。
(12月4日)
(以下次回に続く)