全集第31巻P41〜
(「イザヤ書の研究」No.12)
その12 繁栄と審判 2章6〜11節
◎ イザヤ書2章は、世界平和実現の夢を以て始まり、世界裁判執行の
知らせを以て終る。あたかも青天白日を以て始まった日が、大暴風雨を以て終るようなものである。
しかし、そのような事は、無い事ではない。暴風の前の平穏は、気象学上よく有る事である。また人類の歴史において、大戦争が始まる前に平和繁栄が普(あまね)く世に行き渡る場合は少なくない。
人生は、平和と戦争である。戦争の後に平和が来るように、平和の後に戦争が来る。同じイザヤ書21章11、12節に言う、
斥候(ものみ)よ夜は何時ぞ、斥候よ夜は何時ぞと、
斥候答へて曰ふ、朝来り夜亦来ると。
夜は明けて朝が来る。けれども朝は永久に続かない。朝の後にまた夜が来ると言うのである。平凡な事を言うようであるが、しかし平凡であって平凡でない。その内に大きな真理が含まれている。
人生全部が救いの途程である。平和があり裁判があって、救いは完成されるのである。「
シオンは公平を以て、帰り来る者は正義を以て贖はるべし」(1章27節)とあるのはこの事である。
正義のある所に、裁判は免れない。正義を以て贖われると言うのは、裁判を以て救われると言うのと等しい。平和実現の約束の後に、裁判執行の
知らせが記載されたとしても、決して不思議でない。
批評家が、イザヤ書第2章を前後の関係のない記事の点綴(てんてつ)であると言うのは、理由のない事である。
◎ 第5節「
ヤコブの家よ、来れ我等エホバの光に歩まん」は、平和を裁判に繋ぐ言葉である。
平和の約束に関して言えば、奨励の言葉である。裁判の予告に関して言えば、警告の言葉である。花咲く野辺を辿る時も、雪吹く暗夜(やみよ)に彷(さまよ)う時も、頼るべきは、この光である。
エホバ彼等の前に往き給ひ、昼は雲の柱を以て彼等を導き、
夜は火の柱を以て彼等を照らし、昼夜行き進ましめ給ふ。
(出エジプト記13章21節)
とあるその光である。
ある注解者は、この一節を前部の平和の約束に付け、他の注解者は、これを後部の裁判の予告の始まりとする。したがって、前後共通の訓戒であることが分かる。
◎ 「
主よ汝は汝の民ヤコブの家を棄たまへり」と言う。そしてその結果を記して言う、
彼等の国には黄金白銀満ちて、財宝の数限りなし
彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし
(7節)
と。神に捨てられた結果ここに至ったと言う。
神に捨てられて、国は富んで兵は強いと言う。この世の見方とは正反対である。あるいは結果を原因として見ることも出来る。
国が富んで兵が強くなったので、民は神を忘れ、彼を離れたので、終(つい)に神に捨てられたとも解することが出来る。しかしながら、神に捨てられた結果が、富国強兵であると見るのが、預言者の見方である。預言者ホセアの言葉に言う、
エフライムは偶像に結び聯(つらな)れり。その為すがまゝに
任(まか)せよ。 (ホセア書4章17節)
と。神が人を捨てられるときには、神は人が欲するがままに任せられる。国に金銀を有り余るほど御与えになる。昔は馬と戦車、今は軍艦と軍用飛行機とを数限りなく持たせられる。そして無知な国民は、富んだと言って神に感謝し、強いと言って祝福に誇る。
彼等は屠(ほふ)られる前に肥やされることを知らないのである。カーライルがある箇所に、英国が急激に富を増したのは、神に捨てられた証拠であると書いたことを記憶する。「英国人が手を触れる所は、悉(ことごと)く金に化した」と言った。
イザヤは同一の事を言っているのであると思う。
富国強兵に神の祝福を見ずに呪詛(じゅそ)を見る。それでこそ真の預言者である。軍旗を祝福し、軍艦にバプテスマの式を施す教会の監督こそ、紛(まぎ)れなく偽りの預言者である。
◎ エホバに捨てられて国は富み、兵は強い。そして有り余る富は、主として外国貿易から来る。ユダの場合においては、ウジヤ王の時に、紅海のエジオンゲベルに港を得て、ここに紅海沿岸、さらに進んで東方インドとの貿易に従事した。
第16節に「タルシシの舟」とあるが、これは大海の航路に耐える、当時の大船を指して言ったのである。ユダの富の激増は、英国の富と等しく、インド貿易から得たらしくある。G.B.グレー氏によれば、第6節の後半は次のように訳されるべきであると言う。
彼等の内に貿易商横行し
彼等は外国人と手を打てり(売買の約束をした)
と。難解な半節であるが、このように解して前後の意味が明瞭になる。
農民の国であったユダが貿易商人の国と化した時に、富が増したと同時に信仰が衰え、迷信が盛んになり、エホバに捨てられて、大審判がその上に臨んだのである。
◎ 繁栄に誇る国民の上に、突然天から声が響き渡る。いわく、
汝岩間に入り、又土に隠れ、エホバの震怒(いかり)と其
御稜威(みいつ)の光輝(かがやき)とを避けよ。
と。大審判は、大繁栄の上に落ちて来る。ユダの場合だけでなく、全て他の国民の場合においてもそうであった。この次に審判(さば)かれるのはどの国であるか。
(1月15日)
(以上、3月10日)
(以下次回に続く)