全集第31巻P47〜
(「イザヤ書の研究」No.14)
その14 実際のユダとエルサレム 2章6節以下
◎ 理想のユダとエルサレムに比べ、実際のそれは正反対であった。エホバの道を以て万邦を率いるべき国が、富に頼り、強兵を誇り、あまつさえ偶像に仕えていた。
預言者は、対照の甚だしさに驚いた。驚きの果てに彼は叫んで言った、「
王よ汝はその民ヤコブの家を棄給へり」と。国に在るものは、公義と信仰と平和の器でなかった。いわく、
彼等の国には金銀充ちて財宝の数限りなし
彼等の国には馬充ちて戦車の数限りなし
彼等の国には偶像充ちて皆己が作れる者を拝めり
と。有るものは正義でなくて金銭、平和でなくて軍馬と戦車、エホバの神でなくて偶像との事であった。預言者はこれを見て、憤らざるを得なかった。故に言った、「彼等を赦し給ふ勿(なか)れ」と。
◎ そして審判(さばき)がたちまち彼等の上に臨むであろうことを予想して、彼等を警(いまし)めて言った、
岩間に入り、土に隠れ、以てエホバの震怒(いかり)と其(その)
威光(いこう)の光輝(かがやき)を避けよ。
其日には高ぶる者は凡(すべ)て卑(ひく)くせられ、驕(おご)る
人は屈(かが)められ、唯(ただ)エホバのみ高く揚げられ給はん。
と。大審判が彼等の上に臨むであろうから、これを避ける途(みち)を講じなさい。そしてその結果は、エホバの聖名(みな)だけが崇められるようになるであろうとの事である。審判は、価値の判定である。貴い者が崇められ、賎しい者が低くされる事である。
金銀は貴くなくはないが、至上善として貴ぶべき物ではない。兵力は恐るべきであるが、それによって公道を維持するには足りない。人はどれほど尊くても、神として崇めてはならない。
そして価値が転倒する所に必ず神の審判は臨み、その結果として真の神だけが、万物の上に崇められるようになるであろう。人類の歴史は、すべてこのプロセス(順路)であった。
物質、威力、人間、いずれも頼るに足りない。ただ神だけが、頼るべき永遠の岩であると、その事を証明するための歴史であった。
史学の始祖と称せられるギリシャのヘロドトスは言った、「
神は嫉む者であり、他の何物も自分以上に崇められることを許さない」と。そして彼の有名な世界歴史は、すべてこの立場から書かれたものであると言う。
イザヤは神の立場から、ヘロドトスは人間の立場から、同一事を言ったのである。
◎ 全ての物は低くされ、ただエホバだけが高く揚げられるべきであると言うのが、審判の原理である。
理想のエルサレム即ちエホバの家の山は、諸々の山の頂に立ち、諸々の嶺に超えて高く聳(そび)えるのに対して、エホバを棄てた実際のエルサレムは、全て高ぶる者、自(みず)からを崇める者と共に、低くされるであろうと言う。
即ちマタイ伝23章12節に記されているイエスの御言葉の適用である。
凡(すべ)て自己(みずから)高くする者は卑くせられ、自己を
卑くする者は、高くせらるべし。
と。神を離れた人類の歴史は、これを「低くする経路」と称することが出来る。引き下げ運動、階級の民衆化、言い方は種々あるが、つまる所は、イザヤが言ったように、
凡(すべ)て高ぶる者、驕(おご)る者、凡(すべ)て自己(みずから)
を崇(あが)むる者……是等(これら)は皆な其日に卑くせらるべし。
と言う事である。イギリス革命、フランス革命、世界大戦争、事柄は違うが、その結果は同じである。帝と称し、王と称して、人に高く崇められた者が、賎しくされた運動であった。こうして最大の審判は最後に行われるが、同種類の審判は常に行われつつある。
◎ 私たちは、預言者がここで言っているような審判を、近頃しばしば我が国において目撃した。昨日までの富豪は、今日は貧者と成った。
鈴木、村井、高田、松方等、最近までは「レバノンの高く聳(そび)えたる香柏、バシヤンの岡の橿樹(かしのき)」と称せられるべき者が、今は低くされ、かがめられて、見る影もなくなった。
個人として彼等に対し、深い同情なしにいられないが、富や権力によって高くされた者が、低くされたのは止むを得ない。これは神の聖旨(みこころ)であるとも、天然の法則であるとも言うことが出来る。
殊に「タルシシの凡ての舟」も卑(ひく)くされると言われている事は、事実そのままを目前に示されたように感じる。タルシシの舟とは、当時の大船のことである。広く世界貿易に従事した船を、そう呼んだのである。
その大船が卑(ひく)くされたと言う。解し難く見えるが、そうではない。大船は富を作るための第一の要具である。殊に世界大戦当時に在っては、大船一艘を有する者は、富者となった。いわゆる船成金(ふななりきん)は数多出来た。
汽船会社は、一躍して大勢力と成った。ところが今はどうか。タルシシの舟は審判(さば)かれて、卑(ひく)くされたではないか。その最も顕著なものが、国際汽船会社である。数十隻の大船を擁(よう)して、今やその処分に窮する状態である。
その他、東洋汽船、山下汽船、いずれも見る影もない状態である。ここに第20世紀の初めに当って、紀元前700年の昔、イザヤの時代におけるように、タルシシの舟が審判(さば)かれて、卑(ひく)くされたのである。
◎ しかし、すべてのものが低くされて、唯一のものが高くされた。イエス・キリストの御父なる神の聖名(みな)が高くされた。富者や権者が低くされるだけ、神の聖名(みな)が高くされる。我が国においても、今日ほど日本人がキリストを慕うことは、未だかつて無かった。
(2月5日)
(以下次回に続く)