全集第32巻P207〜
楕円形の話
昭和4年(1929年)10月10日
「聖書之研究」351号
(上)
◎ 真理は円形でなく楕円形である。一個の中心の周囲に描かれるべきものではなくて、二個の中心の周囲に描かれるべきものである。
あたかも地球その他の惑星の軌道のように、一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、中心は二個あって、その形は円形ではなくて、楕円形である。有名なアインシュタインの説に依れば、宇宙そのものが円体でなくて、楕円体であると言う。
人は何事によらず円満と称して円形を要求するが、天然は人の要求に応じずに楕円形を採るのは不思議である。楕円形は普通これを「いびつ」と言う。
曲った円形である。決して美しいものでない。
ところが天然は人の理想に反して、「まる形」よりも「いびつ形」を選ぶと言う。不思議でないか。
◎ そして真理は曲り形(なり)の「いびつ」即ち楕円形であると私たちは言うのである。即ちその中心は二個あって、一個でないと言うのである。
哲学的に言えば、物と霊とがある。extension(エクステンション) と thought(ソート) である。万物に二方面があって、一は全く他とその素質を異にする。
もし思想の上から言うならば、万物ことごとく物であると言い得るならば、説明は至って簡単になり、円満な哲学を組み立てることが出来るが、しかしながら、事実として霊の存在を拒むことは出来ないので、ここに問題は複雑になるのである。
万物を霊と見るのも同じである。物の存在を否定することは出来ないので、いわゆる霊的哲学を組み立てることが出来ない。
デカルトから始まり、スピノザ、ライプニッツ、カントを経て今日に至っても、この根本問題を円満に解決することが出来ない。
古い禅宗の歌に、
麻糸の長し短しむづかしや
有無(うむ)の二つをいかに判別(わか)たん
というのがあるが、そのように、物と霊とを判別し、物によって霊を説明しようとするのは、霊によって物を説明しようとするのと同様に難しい。いや実に不可能に見える。
しかし難しいという理由で、哲学者は問題を放棄しない。そして哲学の進歩は、ここに原因する。即ち
楕円形の真理の内に、真理の深みと興味とがあるのである。真理は単純であると言って、簡単に容易に説明することは出来ない。
円満な哲学は、常に疑わしい哲学である。いわゆる「頭脳(あたま)の中によく入る哲学」は、甚だ怪しい哲学である。哲学も科学と同じく、思索的(スペキュラティブ)であってはならない。叙述的(ディスクリティブ)でなければならない。
真理は一個中心の円形ではなくて、二個中心の楕円形であるからである。
◎ 宗教においても同じである。宗教も円形ではなくて、楕円形である。その中心は一個ではなくて二個である。単にその教義の方面から見ても、それがそうであることを見る。
宗教は神と人とである。神だけではない。また人である。人だけではない。また神である。宗教を単に神学と解し、神を知ることが即ち宗教であると言うならば、問題は至って簡単であるが、事実はそうでない。
キリストは神であってまた人である。ユニテリアン教のように、キリストは神ではなくて人であると言えば、説明は簡単明瞭であるが、人は全体に、その説明で満足しない。
キリストが人であることは疑わないが、彼にまた神らしい所がある。彼は同時に人であってまた神である。説明は円満を欠く。解するのが至って難しい。しかし事実であるから仕方がない。
私たちは不可解と承知しつつキリストの神人両性を信じる。頭脳に彼を受けるのは難しいが、心は彼を受け入れて満足する。いや実に、彼でなければ満足しない。
◎ その実際的方面において、宗教は慈愛と審判である。愛と義である。愛だけではなく、また義である。義だけではなく、また愛である。一中心ではなく二中心である。円形ではなく楕円形である。
もし宗教が義だけであるならば、これを行うのは至って容易である。愛だけであるならば、同じく容易である。
宗教を実行する困難は、
それが愛であって同時にまた義であるからである。
忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずと言うジレンマ(板挟みの窮境)に在るのと同様に、愛と義とを同時に全うするするのは非常に困難である。
けれども信仰的生活において、このジレンマは免れられないものである。私たちが完全になろうと欲すれば、このジレンマの内に完全にならなければならない。実に辛い事である。しかし人生の事実であるので止むを得ない。
今の教会信者のように、「神は愛なり」とだけ解して、「神は義なり」という明白な教えに耳を傾けなければ、事は至って簡単であるが、人生の事実はこれを裏切って、弊害(へいがい)百出して愛は愛でなくなることは、教会現在の状態が証しして余りがある。
もちろん「愛なき者は神を知らず」であって、神を正義の一面においてだけ見るのは、彼に関わる大きな誤解であることは言うまでもない。
神に義と愛との二方面がある。そして彼に倣おうと思って、信者は二者のいずれを選ぶべきかについて、大いに迷わされるのである。
もし愛だけを実行すれば、柔弱な世人と教会信者とは、「円満の人だ」と言って、私たちを誉めてくれる。しかしながら、神御自身はそのような柔弱な愛をお怒りになる。
神御自身が一中心ではなくて二中心であられる。私たちは彼に倣って愛すると同時に怒らなければならない。
(下)
◎ 真理は二中心であり一中心ではない、楕円形であり円形ではないと言うならば、人は言うであろう「それは二元説であって一元説でない。そして二元説は哲学論としても常に不完全な証拠である。人は自ずから一元説を必要とする。思想的に二元説を以て満足することは出来ない」と。
私でもその事はよく承知している。けれども満足に二種ある。思想の満足と事実の満足とが、それである。そして思想の満足は、必ずしも事実の満足でない。そこに人生の苦しみがある。そして苦しみの内に、進歩と発達と、そして最後に永遠の平和とがあるのである。
◎ これを義と愛との対照について見ようか。真剣に生涯を送ろうと思う者は何人も、その調和に苦しまざるを得ない。これを思想の上に調和しようとするのは不可能である。けれども人生の長い実験において調和点を発見する。
しかし、実験的に調和するのであって、思想的にするのでない。そしてキリスト信者の場合において、彼は義と愛との調和を、キリストの十字架において認めるのである。
憐憫(あわれみ)と真実(まこと)と共に合ひ、義と平和と互に接吻せり。
(詩篇85篇10節)
という理想は、キリストの十字架において実現された。義の神がどのようにして罪人を罰せずに赦そうかとは、神御自身にとって、至難の問題であった。そして神はこの問題を、キリストの十字架を以て見事に解決された。
即ちパウロが言った通りである、
イエスを信ずる者を義とし、尚(な)ほ自(みず)から(御自身)義たらん
為なり。 (ロマ書3章25、26節)
と。即ちイエスにおいて、神の憐憫(慈愛)と真実(公義に基づく審判(さばき)の精神)とが合体したのである。義と平和とが互に接吻したのである。忠孝両道が全うされたように、義と愛とが完全に調和したのである。
けれども調和は実験的であって、思想的でない。思想的にはキリストは依然として「躓(つまず)きの石」である。信者は十字架の救いを実験するのであって、解得したのではない。彼は実験によって理論を超越したのである。
真理は意地悪く、依然として楕円形であって、円形でない。私たちは解らないのに解ろうと思い、苦戦奮闘して終(つい)に人生の実験に解決以上の解決を得るのである。即ち真理は実得すべきものであって、理解し得るようなものでない。それ故に貴いのである。
◎ このようにして、真理を実得した信者は、小人が要求するような円満の人でない。キリスト御自身が円満の人でなかったからである。
彼はただの「優しいイエス様」でなかった。彼はラザロの墓に涙を流されたけれども、また「悪魔よ後ろに退け」と言って、弟子のペテロを叱咤(しった)された。救うキリストはまた、審判(さば)くキリストである。
彼に、思想的には調和することの出来ない義と愛との両面がある。親しむべき、畏るべきイエス様である。パウロが「
我等主の畏るべきを知るが故に人に勧む」(コリント後書5章11節)と言ったイエス様である。
そして主がそうであったから、弟子もまたそうである。コリント前書13章に愛の讃美歌を綴(つづ)ったパウロは、決して
愛だけの人でなかった。彼にまた、恐るべき義の一面があった。彼の書簡を読んで、この事を認めない人は、未だ彼を知らない者である。
人は使徒ヨハネを特別に「愛の使徒」と言うが、しかし十二使徒の内に、実はヨハネほど怖い人はなかった。
西洋の神学者がヨハネ伝とヨハネ黙示録とが、その著者を異にするとの説を立てる時に、同一の人が愛の福音と義の審判とを唱えるはずがないと言うのが常であるが、実に浅薄な見方であると言わざるを得ない。
愛すること甚だしく、憎むこと甚だしいのがヨハネの特性であった。彼がもし今日のキリスト教会に現れたならば、彼は監督、牧師、伝道師を初めとして、信者一同に激烈に排斥されるであろう。
使徒ヨハネは、イエスの懐に在って、最も良くイエスの心を知った者であった。故によく愛して、よく憎んだ。彼に在って愛と義とは最もよく発達した。
◎ 使徒ヨハネについて言われるのと同じ事が、預言者ゼカリヤについて言われる。ゼカリヤ書は14章から成り、始めの8章はエホバの愛について述べ、後の6章はその審判について語る。
故に西洋の聖書学者は言う、同一の記者が前後両部分の著者であり得ない。前の部分は優しい平和の人によって書かれ、後の部分は厳(いか)めしい義の人によって記されたのであると。即ち人を一元的に見て、二元的に見ることが出来ない見方である。
しかしながら、偉人はすべて二元的である。イザヤ、エレミヤ、ルーテル、クロムウェル、すべてそうでない者はない。この事を心に留めれば、ゼカリヤ書問題もまた容易に解決することが出来る。
何事に限らず、円満を要求するのが間違いの始めである。真理は円形ではなくて楕円形である。真人もまたそうである。自分がその人のように成るのでなければ解し得ない者が真人である。偉人である。
小さな頭脳の内に描き得るような人は、取るに足りない凡人小物と見て誤らない。
◎ 地球その他の惑星の軌道は楕円形である。宇宙は楕円体であると言う。真理もまた二元的であって、円満に解決し得るものでない。患難の坩堝(るつぼ)の内に、焼き尽す火に鍛えられて、始めて実得し得るものである。
ここにおいて知る、教会も神学校も、法王も、監督も、神学博士も私に用はない事を。誠にありがたい事である。
(8月12日 沓掛にて)
完