全集第34巻P513〜
(日記No.264 1925年(大正14年) 65歳)
12月4日(金) 晴
朝、品川御殿山に原六郎氏を訪(とぶら)い、家族と共にヨブ記第19章を読み、祈祷を共にし、その後に氏の実歴談を聞き、甚だ有益であった。氏は旧い日本人の好いタイプである。
彼によって横浜正金銀行が長大足の進歩をし、その他の多くの産業が起こったのは、故のない事ではない。氏は理財家であるよりは、むしろ志士である。青年時代に但馬の池田草庵
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8D%89%E5%BA%B5 )に就き、陽明学を学んで志を起こしたと言う。
かつて借りたことなく、貸したことなく、貸さざるを得ない場合には与えたと言う。まことに理財家の好模範である。来年は84歳であって、自分よりも19歳年長者である。今や聖書の熟読に余念がない。時々氏を訪れて、慰安を分かつ次第である。
12月5日(土) 晴
秀英舎に労働争議が起り、印刷を中止し、雑誌の発行に差支(さしつか)え、困難する。労働争議に直接に災いされたのは、今回が始めてである。恐ろしい者である。ただし時代病として免れることが出来ない。我慢するまでである。
◎ 女子高等師範学校の生徒で、聖書研究会の会員である者の、感話親睦会を開いた。総数18人、一人残らず出席した。宗教には全く冷淡な官立学校から、このように比較的に多数の信者ならびに求道者が出るのは不思議である。
今後毎月一回、この会を開くことに決めた。徐々にではあるが、日本にキリストの福音は行き渡りつつある。
◎ 久し振りにスイス国チューリッヒ市のフンチケル氏から書面があり、欧州に再び宗教改革が起ろうとしつつある兆しを伝え、非常に嬉しかった。
少壮神学者バルト、ブルンネル、ツルネーゼン、ゴガルテン等によって新福音主義が唱えられ、中欧の宗教界を風靡(ふうび)しつつあると言う。
実に会心の至りである。欧州はやはり人類文化の中心である。信仰の世界的復興もまた、ここに起こらざるを得ない。大感謝である。
12月6日(日) 晴
集会は変りなし。午前は「不幸の転用」と題して説教し、午後はエレミヤ記第2章を講じた。日本及び日本人に取り、福音の必要をますます切実に感じる。これがあれば滅亡の心配がない。これがなければ、危険極まる。今日も元気よく二回高壇に立つことが出来て感謝である。
12月7日(月) 晴
印刷職工の同盟罷工
(どうめいひこう:ストライキ)によって雑誌の校正が来ず、気が
やきもきするが、致し方がない。これも近代文明の一面と思って、諦める他はない。町は皇孫殿下の御誕生で賑(にぎ)わい、我が家も孫娘の笑顔で賑わう。天下同慶、上下偕楽である。
12月8日(火) 晴
印刷所の休止は、我が活動の休止である。そのような休止を余儀なくされたのは、生れて今度が初めてである。労働争議がどれほど恐ろしいものであるかが、つくづく感じられる。
罪は双方のいずれにあるか知らないが、争議を起こした者の罪が甚だ重いことを認めざるを得ない。今日もペンを執る元気がなく、久し振りに友人訪問に出かけた。
12月9日(水) 晴
手首が痛み、ペンが執れなくなった。当分原稿書きを止めることにした。書いても書いても別に効果が挙がらないように見える。この際、書くことを止めて、他の事に意を転じる方が良いと思うことがある。
ある人は欧州旅行を勧める。他のある人は、日本文を捨てて英文で世界に訴えよと忠告する。倒れるまで何か働く。語るべき、書くべきことは唯(ただ)一つ、神の子の福音の事である。人が何と言おうと、自分にはこの事だけは止められない。
12月10日(木) 晴
キリストの無い生涯は、歓喜の無い、熱心の無い、
つまらない生涯である。その生涯が最も成功した者であっても、生きる甲斐の無い生涯である。
そして日本人多数の生涯は、この気の抜けた、「希望のない、神のない」生涯である。そのような人たちの中に在って、消えぬ希望を懐いて一生を送るのは、非常に困難である。この冷たい社会に接触して、私たちはただ愛熱を奪われるだけである。誠に不快な事である。
12月11日(金) 晴
ジョン・スキンネル著「エゼキエル書講解」
(或いは https://www.amazon.co.jp/Expositors-Bible-Book-Ezekiel/dp/1521931402/ref=sr_1_fkmr0_1?s=english-books&ie=UTF8&qid=1551942214&sr=1-1-fkmr0&keywords=prophet+ezekiel%2C+john+skinner )を再読し終わった。499頁の大著述である。その第1回読了は1900年12月9日と記してあるから、今からちょうど25年前であって、本誌発刊当時の事であった。
今日これを再読し終わって、自分の知識も信仰もやや進歩した事が分かって嬉しかった。今日といえども精読する十分な価値のある書である。預言研究には逸してはならない良書である。
◎ 印刷職工の労働争議が解決し、今日は校正刷りを受取り嬉しかった。12月号の発行が8〜9日遅れるであろうが、それ以上に損害を蒙ることなしに済んだのは幸いである。
12月12日(土) 晴
引続き読書の好時期である。空は星を覗くに好く、天文熱の復興を促し、一昨日来大分天文書を復読した。相変わらず非常に面白い。しかし興味の中心は家の赤ん坊にある。星と彼女とを詠み合せて、次のような者が出来た。
神の座の平和の星は地に下(お)りて
柏の里に花と咲きけり。
彼女が最善の友人である。その次はオウムのローラと子犬のパロとである。彼等に慰められつつ聖書と天文と哲学とを読む。興味がいっそう深くなる。
12月13日(日) 晴
相変わらず充実した聖日であった。朝はマタイ伝26章により、「ゲッセマネの苦祷」について語った。問題が余りに厳粛なので、私も過度に緊張せざるを得なかった。主の御導きにより、その要点を語り得たと思い感謝であった。
私も弟子に裏切られる辛い経験を持たせられたので、この問題について自信を以て語ることが出来て幸いであった。コリント後書1章4節にいわゆる「キリストの苦」を実験したことのない者には、ゲッセマネの苦闘の意味は決して解らない。
午後は「聖書と星座」と題し、星が供する教訓について述べた。朝の緊張を幾分でも緩和するために、このような題を選ぶ必要があった。
12月14日(月) 晴
昨日午後の集会において、星を見る聖快について語ったところ、今日聴衆の一人の姉妹から、次のような反響があった。
前略、今日先生の御講話を伺って帰宅後、夜8時頃、戸棚の隅に押し込んでおいた星座早見表を取り出し、母と友人と三人でオライオン、昴宿(ぼうしゅく)、アンドロメダ、牛、ドラゴン等を見ました。
オライオン座の三星のエメラルドの様な光には、すっかり魅せられて仕舞いました。大犬は折悪しく未だ出て来なかったので残念に思い、部屋に帰って居ります中に、ふと時計を見ると9時15分なので、
今度はと表に飛び出ましたところ、向う側の遠くの家の屋根の上に、燦然として輝き出したその姿を発見した時の嬉しさ、思わず快哉(かいさい)を叫んで躍り上がりました。右御報告まで。 日曜夜。
これは誰にでも無代価で得られる快楽である。この快楽を捨てて、劇場に高価有害な快楽を買う人たちの愚かさよ。
12月15日(火) 曇
若い学士たちの生涯ならびに事業について
難しい相談に与った。彼等の先輩として、これを辞退することが出来ない。彼等のために最善を尽くすまでである。
実際のところ、多くの人たちに先生と呼ばれる事は、決して幸福な事ばかりではない。その内に多くの面倒な問題が起こり、その処分について少なからず苦心する。ただ頼るべきは、神御一方である。万事を彼に委ねまつって、心は平安を得る。
◎ 夜、塚本指導の下に行われる柏木聖書研究会青年有志のギリシャ語研究会を参観した。会員20人余り、一同の熱心を喜んだ。聖書研究もここまで進まなければ面白くない。
12月16日(水) 晴
大きな興味を以て、世界的権威である米国の古生物学者ヘンリー・オスボルンの、故ブライアンの進化論反駁(はんばく)に対する反駁論を読んだ。これを題して「地がブライアンに語る」と称する。
この事については、私はオスボルンの賛成者であって、ブライアンの反対者である。ブライアンが進化論をキリスト教の敵であるかのように見たのは、大きな誤謬である。オスボルン氏自身が、敬虔なキリスト信者である。
その他アーサー・トムソン氏とか、ロイド・モルガン氏のような大生物学者であって進化論と共にキリスト教を信じる人は少なくない。今日の進化論は、スペンサーやハックスレー時代のそれとは大分異なる。
今や進化論とキリスト教とを同時に信じることは、少しも困難でない。造化の方法と見れば、至って簡単である。
私は常に唱えて言う、God worketh evolutionally (神は進化論的に働かれる)と。私は米国キリスト信者のいわゆる Fundamentalist (ファンダメンタリスト) でない事を告白する。
(以下次回に続く)