全集第35巻P7〜
(日記No.267 1926年(大正15年・昭和元年) 66歳)
1月13日(水) 晴
暖かい日であった。講堂において、私たちの一人である理学博士大島正満氏の双生児に関する研究の講話があった。問題は、教育・宗教の根本に関わるものであって、大いに私たちの思想を刺激した。
生物学の結論が信仰の根本に衝突するのは止むを得ない。その間に在って信仰を守るのが、信仰が信仰であるゆえんである。
しかしこれを守るに当たって、ただ信仰にのみ拠ってはならない。学問の奥に入って、学問を以て学問を信仰化しなければならない。そこに信仰生活の興味がある。
1月14日(木) 曇
赤ん坊が二三日留守になり、家が急に淋しくなった。その代わりに大分にペンが動いた。相変わらず百科事典の通読が、不用時間の最も善い使用法である。
1月15日(金) 晴
平静な一日であった。近頃ある所で、ある牧師から私のある知人の品行につき、容易ならざる悪評を聞いたので、驚いて、ある友人に依頼して、その真偽を調べてもらったところ、全く事実に反していたことが分かって、安心した。
キリスト教会の牧師は全体として思い切った悪評を立てる者である。多分人の善悪について、牧師の批評ほど当てにならないものはあるまい。そしてこれは、私一人の経験ではないと思う。この点について牧師諸君は充分に注意してもらいたい。
1月16日(土) 曇
エレミヤ研究において、偉人の死について考えた。エレミヤに限らず、イザヤ、エゼキエル、パウロ、ペテロ、ヨハネの死についても、聖書は何も記していない。彼等がどのように死んだかは、聖書記者が関しない事であるように見える。
そしてそうするのが当然である。神の御用を終えた後に、彼の僕はただ静かに消えてしまえば良いのである。「
エホバはその愛しみ給ふ者に寝(ねぶり)を与へ給ふ」(詩篇127篇2節)とある。人の注意を引くような葬式や墓碑は全然無用である。神の人は全てモーセのように死にたいものである(申命記34章)。
◎ ドイツから、またまた良い通信があった。シュワイツェル、シュピールマイエルというような大家が私の同情者であることを知って、非常に嬉しかった。私の一子が私に代ってルーテルの国に駐在するようなものである。父子の名誉この上なしである。
1月17日(日) 曇、午後晴
集会は朝夕共に変りなし。朝はエペソ書1章1〜14節に依り、「キリストに在りて」の中心的真理について講じた。午後は150余名の青年男女に向い、エレミヤ記第4章により、「的中しなかった預言」について語った。相変わらず静粛な、しかも充実した集会であった。
これをもまた、聖霊に満たされた集会であると称して良かろうと思う。私たちは教会を組織しないけれども、教会に劣らない敬虔と熱心とは有ると思う。説教は厳格な福音主義のそれであって、その点においては無教会の私たちは、遥かに教会以上であると信じる。
1月18日(月) 晴
沢山に赤ん坊と遊んだ。最も良い休養である。私の意思が彼女に通じるらしく、最も愉快である。彼女に合わせて世の全ての赤ん坊について思う。殊に保護者のない赤ん坊について思う。
彼等の幸福を計るのは、神が最も喜ばれる事であるに相違ない。イエスが「是等のいと小さき者に為せるは我に為せる也」と言われたのは意味深長である。私もこれからいっそう、世のすべての赤ん坊のために尽さなければならない事を、最も切実に感じる。
1月19日(火) 雨
朝はエレミヤ記によってエジプトを研究し、午後はある教友から朝鮮における山林事業について聞き、非常に面白かった。その他一人の兄弟と、また他に一人の若い姉妹とが信仰を起した経歴を聞き、強い感に打たれた。
神は一人の信者をこの世から取られる時に、必ずこれに代わって、他に新たに信者を起こされるように見える。信仰の系統は絶えないように見える。
神は「
自己(みずから)を証し給はざりし事なし」である(使徒行伝14章17節)。一人が斃(たお)れれば、他が起ってこれに代わる。このようにして信仰の灯は地上において永久に絶えないと思えば、大きな安心かつ感謝である。
1月20日(水) 晴
いよいよ3月から英文雑誌を出すことに決心した。世界に向って私の信仰を唱えようと思う。ただ1回で止めになっても悔いない。この事につき、同胞の日本人には既に尽くすだけ尽した。今からは外国人に尽そうと思う。
「
我はギリシャ人及び異邦人にも負へる所あり」である(ロマ書1章14節)。キリストの十字架の福音が今やいわゆるキリスト教国に絶えようとする時に当って、私はただ安閑として傍観することは出来ない。
ここに全力を注ぎ、私の生涯の最後の努力として、予(か)ねて学んでおいた英文を以て、日本に在って全世界に向って簡単で深遠な神の子の福音を伝えようと思う。神よ、弱い私を助けて、私にこの大業を果させて下さい。
1月21日(木) 晴
寒気が強い。仕事が余りに多いので、またまた新来の生涯に移った。行為ではない、信仰である。神に、私の内に在って、働いて頂くのである。そうすれば山をも移すことが出来る。セカセカ働く事を以て自分が為すべき事の全てとするアメリカ教に落ち着いてはならない。
仏教界にも時には敬愛すべき人物がある。日本の宗教界は多望である。そのような人たちが福音の真理を握るに至れば、世界は日本人の教化を受けるに至るであろう。彼と私とは一面して良い友人であることを感じた。
1月22日(金) 晴
寒気が引続き強い。今の日本において「自己の事業は、これ国家の事業である、自己に尽すのは、これ国家に尽す途である」と信じて、自己の事業に賛成を迫る人が随分と多い。実に厄介な人たちである。
彼等は自己があることを知って、他人があることを知らない。国も神も全てが、自己を拡張した者であると思う。故に彼等には遠慮というものがない。彼等は大胆不敵、自己の主張要求を以て他人に迫る。
彼等は近代人の好模範である。そのような人が婦人の間にしばしば見当たるに至っては、実に不愉快千万である。どう見ても世は末の世である。キリストの再臨が待たれる。
1月23日(土) 晴
新聞紙に次の記事を見た。
米国上院議員ハイラム・ジョンソン氏は、米国の国際司法裁判所参加反対に加わった。右は戦時中流布されたドイツが、死体を煮て人油を採ったと言う宣伝が、英国カーテリス将軍の告白によって真赤な偽となった様に、戦時の宣伝が無価値であること。
その他ベルギーに於けるドイツの暴行に就て虚説が一般に流布されたようなことに氏が愛想をつかしているからである。(ナウエン21日発帝信)。
戦時中の英米人の虚偽宣伝は明白な事であって、今に至ってこれを憤るのはそもそも遅い。ところが我が国においても、キリスト教会の先導者までが、これ等の明白な虚偽を信じ、全ての事においてドイツを貶(おとし)め、デモクラシーの英米を謳歌したのは、今に至って見て、見苦しい次第である。
英米もまた他のいわゆるキリスト教国と同じく、国としては他国を教える資格を失った者である。自己の反対者について虚偽を宣伝し、これを斃す技術に至っては、世界中で英米人に勝る者は多分あるまい。
そして日本のキリスト信者までが、この望ましくない技術を英米人から既に学んでしまったことは、憂えてもなお余りがある。
虚偽宣伝に最も巧みなキリスト教国民……ああ神よ、あなたは何時までそのような事を許されるのですか!
1月24日(日) 晴
朝はマタイ伝26章57〜68節等に依り、「祭司の前に立ったキリスト」について話した。題目が偉大なのに対して、私の精神状態がこれに添っていなかったので、甚だ不満足な講演であった。
午後は青年100人余りの集会であって、マタイ伝13章38節「畑はこの世界なり」について語った。キリスト教は世界的宗教なので、世界的精神を以てこれに対するのでなければ、その了解は不可能であることについて述べた。
フナやメダカは池で成長するが、サバやカツオは大洋でなければ生存することが出来ない。そのように、ある宗教は一国内にその繁栄を遂げることが出来るが、キリスト教はこれを世界的に取り扱わなければ、その了解感化を望むことは出来ないと述べた。
私にとっても、甚だ気持ち好い講演であった。まことに世界人に成らなければキリスト教は解らず、またキリスト教に依らなければ、本当の世界人を造ることは出来ない。世界を相手にして働かなければ、キリスト信者と成った甲斐がない。
1月25日(月) 晴
近頃切に感じることは、65歳ぐらいで老人と思ってはならない事である。私の仕事は今から始まるのであって、今日までが準備と見るのが本当である。この点において学ぶべきは、大倉喜八郎(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E )、浅野総一郎(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%B7%8F%E4%B8%80%E9%83%8E )、渋沢栄一(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 )等の諸氏である。
彼等はこの世の人たちであるが、老いに負けない点において、敬服の他はない。金儲けのために長命する必要は少しもないが、神の御心を世に伝えるためには、百年の生命も決して長くはない。
(以下次回に続く)