全集第35巻P20〜
(日記No.270 1926年(大正15年・昭和元年) 66歳)
2月17日(水) 晴
聖書を研究すると歳が若くなる。この世の事に関係すると年を取る。国家、社会、教会、いずれも面倒な問題である。一方に良ければ他方に悪い。公平であれば四方から攻撃される。
殊に議論するのが厭だ。しかし悪い事は悪いと言わざるを得ない。ここにおいてか止むを得ず議論になるのである。いずれにしろ成るべく静かにして置いてもらいたい。私的に私を使おうとせずに、真理と人類とのために私の残る生涯を送り得るように注意してもらいたい。
2月18日(木) 曇
イザヤ書第8章を研究した。偉人イザヤに引かれざるを得ない。ただ日本訳は余りに微弱で、預言者の大信仰を伝えるのに甚だ不適当であることを遺憾とする。
2月19日(金) 曇
市内九段向山堂内英文雑誌インテリジェンサー社へ、校正のために行った。牛込停車場に降り、富士見町を通って九段坂まで、往復共に歩いて、今昔の感に堪えなかった。40年の昔に還ったような気持ちがした。
自分はまだ生きているのであると思った。しかし神と真理と人類とのためである。恐れるに足りない。「
汝の齢(よわい)に順(したが)ひて汝に力を与ふ」と主は言われた。頗(すこぶ)る良い雑誌が出来そうである。
2月20日(土) 半晴
梅日和であった。講堂において柏木女子青年会の第1回集会を開いた。来会者50人余り、東京女子大、女講師、女子英学塾、学習院、仏英和等の諸学校が代表されて、甚だ盛会であった。
塚本はコリント前書13章を、私はブライアント作「水鳥に寄す」の英詩を講じた。女子青年の知識欲が旺盛であることに驚いた。
2月21日(日) 晴
朝4時半、赤ん坊の泣き声に起こされ、母と祖母とを助けて、彼女の不平を癒してやった。国を救うのも赤ん坊を宥(なだ)めるのも、その根本の精神においては同一であることが分かった。
◎ 朝は「神の子の苦難」と題し、キリストの十字架の死について語った。語るのが最も困難な題目である。故に説教をせずに、ただマタイ伝とルカ伝とヨハネ伝の記事を読んだ。一同は強い感に打たれた。実に神の子の死の状(さま)である。
神々しいとは実にこの事を言うのである。十字架の前に全ての高ぶりを棄て、平伏せざるを得ない。
午後は詩篇第127篇第1節により、「信仰と建築」と題して語った。信仰のない東京人に復興は困難なゆえんを述べた。最も充実した一日であった。
2月22日(月) 曇
疲労の月曜日である。赤ん坊の子守役を務めて疲労を癒した。
2月23日(火) 雨
ジョージ・アダム・スミス(
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Adam_Smith )のイザヤ書講解に第28章の解釈を読んで、今更ながら感に打たれた。
オリバー・クロムウェルが預言者イザヤの最も好い解釈者であるという著者の意見に満腔の賛成を表せざるを得なかった。
何と言ってもスミスは近代稀に見る旧約聖書学者である。彼はエヴルトの後を受けて、最も深く預言者の心を探った人であると思う。スミスは反オーソドックスであるなどと評する人は、彼の心の深い所に宿ったキリストの霊を見出せない者であると思う。
私も今日まで彼を了解出来ずに、彼を誤解した者の一人であったことを、ここに告白する。今日再び彼の第28章の解釈を読んで、これに英文を以て記入して言った、Thanks to George Adam Smith in the name of Thomas Carlyle (トマス・カイライルに代って、ここにジョージ・アダム・スミスに感謝する)と。
結婚問題や、その他のこの世の問題を持込まれて困らせられる今日このごろ、このような壮大な思想に接して、暗い貧弱な日本に在りながら、明るい天の聖者の国に在るかのように感じる。
2月24日(水) 曇
計画を立てて働かなければならないが、計画を立てても、成功する計画は滅多にない。事情や境遇(等しく神の命と見てよかろう)に余儀なくされてする事だけが成功するように見える。
私たちは偵察を放って神の聖意(みこころ)を探りつつ進むのである。人生は油断
(「予断」か……旅人)を許さない。だからと言って、運命を作ろうとしてはならない。「急がずに、休まずに」である。
2月25日(木) 晴
英国の有名な聖書研究雑誌「エキスポジトル」の廃刊を聞いて、驚きかつ悲しんだ。廃刊の理由は「維持困難」に在ると言う。しかしながら、英国のようなキリスト教国において、このような有力な宗教雑誌が、維持困難の故に廃刊するとは、日本にいる私たちにはとうてい解し得ない。
その主な理由は、その最後の主筆であったドクトル・モファットの福音的信仰の欠乏において在るのではあるまいか。私たちは倒れても、福音的欠乏の結果として倒れたくない。
成功失敗は問題ではないが、信仰の冷却は重大問題である。願う、神の恩恵により、研究誌が最後まで十字架贖罪の信仰の維持者として、その使命を全うすることを。
2月26日(金) 晴
今日もまた、ある田舎の若い婦人で、信仰を起した者の結婚問題を持込まれ、その処分に窮した。彼等に対し深い同情なしにいられない。
今日の日本においては、キリスト教の信仰がないだけでなく、普通の法律観念さえない。日本人の大多数は未だ人権を重んじるべきことをさえ知らない。
より高い生涯に入ろうとする若い婦人たちに対し、同情を懐く者はほとんど無い。
村長も小学校長も、彼等の味方となってやらない。実に憐れな社会状態である。私としては、彼等を全能者の聖手(みて)に委ねまつるほかに、彼等を助ける途(みち)を知らない。実に辛い事である。今日までに幾度もあった例である。日本における伝道の困難はこの辺にある。
2月27日(土) 曇
孫娘のために御雛様が飾られた。罪のない美しい習慣である。ただその中に偶像的分子があるのに困る。また飲酒の習慣を標榜する器具が在るのに苦しむ。つきつめれば偶像的飲酒国の習慣である。万事がその汚染を蒙らざるを得ない。困ったものである。
◎ 大正14年の我が国の対外収支計算なる者を見ると、支出は6億9百万円で、収入は4億7百万円である。しかも支出の中に外債利払い及び償還金の1億5千万円があり、収入の中に外債の1億3千2百万円がある。即ち新たに外債を起して、旧外債の利子を払ったのである。
まことに憐れむべき身代である。もしこれが大帝国の身代ではなくて、一個人の家計であるとすれば、身代限り
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E4%BB%A3%E9%99%90 )は目前に迫っているのであって、心細い次第である。
しかも日本人の中にそのような危険な状態に在る者が、沢山いる。即ち新たに借金して旧い借金の利子を払っている者が沢山いる。これでは国も亡びれば家も亡ぶ。ところが滅亡を恐れて謹慎する者はなくて、みな目前の安楽を漁(あさ)ってその日その日を送っている。
このままで行けば日本国の経済的破滅は確実である。実に恐ろしい事である。しかしそのように警告しても真面目に耳を傾けて聴く者は一人もいない。困ったものである。
2月28日(日) 晴
午前は200人、午後は170〜180人の来会者があった。午前はマタイ伝27章45節以下の「エリエリラマサバクタニ」の御言葉について述べた。その完全な注解は詩篇第22篇であると信じるので、その篇を朗読し、これに略注を加えて説教に代えた。実に意味の深い言葉である。聖書を以て聖書を注解するより他に途がない。
午後はエレミヤ記第7章を講じた。もしエレミヤが今のキリスト教界を観るならば、同一の激烈な言葉を発するであろうと言った。
「
エホバの殿(みや)なり、エホバの殿なり、エホバの殿なり」と言った当時のユダヤ人と、「キリスト教会なり、キリスト教会なり、キリスト教会なり」と言う今日のキリスト信者とよく似ている。預言書を真面目に読んで、今日の欧米の教会ならびにいわゆるキリスト教国を許す事は出来ない。
(以下次回に続く)