(「預言者ハバククの声」No.2)
ハバクク書第二章
預言者は言う。私の心に大きな疑問がある。私はその解説を求めても得ない。私は知者からこの解説を聞こうとしたが、彼は私の疑問を解くことができない。私はまた、これを古哲の書に探っても、残念ながらそれは私の蒙を啓くことができない。これが人生の最大問題だからである。
何故に強い悪人は栄えて、弱い善人は衰えるのか。何故に仁義を省みない国は興って、朴直勤勉な民は亡びるのか。
見よ、貪婪で飽くことのない世の富家と称する者が、壮大な屋敷を築いて富裕を誇る様を。見よ、富強の他には何も求めない国が、戦車を連ねて世界に雄飛する様を。これが人生の最大疑問である。誰が私に光明を供して、私の心中のこの疑団を氷解してくれるのか。
我れ我が観望台(ものみだい)に立ち、戍楼(やぐら)に我が身を置かん。而
して我れ天上を仰て、その我に何と宣まふ乎を見、我が疑問に対して其
何と答へ給ふ乎を我れ自ら見ん、 (2章1節)
懐疑の果てに、彼は自己を顧みて言う。私は私の疑問を懐いて、祈祷の台に昇り、そこで直ちに上天の黙示に与ろうと。
預言者は、人生の物見る者である。彼は人が未だ悟らない時に悟り、未だ目覚めない時に目覚める。彼が観望台の上に立つのは、番兵が櫓(やぐら)に立つようなものである。彼はそこに立って、新天地の到来を予知し、これを民衆に告げて彼等を導く。
預言者が時々彼の観望台に昇らなければ、世には天からの光明は絶えて、民は常闇の街(ちまた)に迷うであろう。
その時エホバは、預言者に答えて言われる。
我れ黙示を汝に伝ふ。之を書記(かきしる)して板の上に明白にえりつけ、
奔(はし)りながらも之を読むべからしめよ。此黙示は、時を定めて到る。
速かに到るべし。偽(いつわり)ならず。若し到ること遅くば、忍んで待つ
べし。必ず臨むべし。渋滞(とどこお)りはせじ。其黙示とは是なり。即ち
高ぶる者の心は其衷に在りて平(たいら)かならず、
然れども義者は信仰に由りて生活(いき)む。 (2〜4節)
神の黙示は簡単で深い。これを大書して板に刻めば、走っている兵卒でも容易にこれを読むことができるであろう。あるいはこれを心の肉に印すれば、座りながら、これを自分の銘とすることが出来るであろう。
この黙示は、時を定めて必ず到るであろう。それが到来するのは、私達が予想するよりも速やかであるかも知れない。これに偽りはない。なぜならこれは神の黙示であって、造化の原理だからである。
もしその到来を遅いと思う者がいるなら、それは到来を待ち望む者の忍耐が足りないことによる。神の黙示は必ず成就する。その到来に遅滞はない。
その黙示とは何か。他でもない。「
高ぶる者に平康あるなし。神を信ずるの義者のみ永久に存せん」と言われていることである。
人はあるいは言うであろう。これは平凡な理である。神の黙示として取るに足りない、と。しかし、これは未だ人世の事実を知らない者の言葉である。世は概ね、高ぶる者の平康を信じて、義者の安全を信じないのである。
「高ぶる者」とは誰か。原語の意味は、「膨張(ふくれ)る者」である。即ち、
実なしに、外に膨張する者という意味である。天爵なしに人爵に誇る者、天が賦与していない富を得て、自らを富者だと信じる者である。
これらはみな、浮虚の徒であって、「膨張れる者」即ち「高ぶる者」である。ところが蒙昧な世は、彼等を指して言う。「幸運なるかな、彼等よ、彼等は栄えて子々孫々、万代に至らん」と。
彼等は国の強弱を、その兵力の強弱によって量り、人の真価を、その人の財産の多少によって定める。彼等は本当の平安は、義者の信仰にあることを知らない。ゆえに兵を増して国を守ろうとし、富を積んで家を興そうとする。
国民の最大多数の人生観なるものは、これ以外に出ることはない。ゆえに神は、預言者に託して、大義を再び世に伝えさせて、言われる。
義者は信仰に由りて生活(いき)ん
と。信仰は、神の不変の正義を信じることである。腕力が時に正義を圧することがあっても、義者は腕力を信じないで、神の正義を信じるので、暴力を揮う者の暫(しば)しの成功を見ても迷わない。
また貪婪な者が時に功を奏し、残虐が時に財を積むことがあっても、義者は神の公義を信じているので、悪者の繁栄を聞いても驚かない。
「
義者は信仰に由りて生活く」、ゆえに彼は、世の褒貶(ほうへん)の波に漂わず、その栄枯の夢に欺かれない。かの「心に高ぶる者」とは誰か。
彼は酒に耽ける者なり。邪曲(よこしま)なる者なり。驕傲者(ほこるもの)
にして、安慰なき者なり。故に彼は其情欲を墓の如くに、又死の如くに
闊(ひろ)くし、自から足ることを知らずして、万国を集(つど)へて己に
帰せしめ、万民を聚(あつ)めて己に就かしむ。 (5節)
覇者とは誰か。財奴とは誰か。うちに頼るべきものがないので、外に膨張して身の空乏を覆うとする者ではないか。彼が酒に耽るのは、彼が不安の苦痛を忘れたいと思うからである。彼が誇るのは、彼が小さな存在であることを隠すためである。
彼が欲心を墓のように広くして、万国と万民とを呑もうとするのは、彼が彼の心底に存する無限の空乏を全世界で満たそうとするからである。
彼は心に神を有しない。ゆえに彼には重みがなく、慰安がなく、満足がない。それで彼は宇宙を呑んで、泡沫のような彼の身に、少しでも重量を加えようとする。彼が弱国を併呑して世界の覇者となろうとするのも、このためである。彼が貧者の田園を併合して、世に闊歩しようとするのも、このためである。
神を信じる義者の眼から見て、覇者と財奴のように憐れむべき者はいないと。
この黙示に接して、預言者の疑団は、朝陽の前に横たわる雲霧のように消え去り、深思は変じて放歌となり、彼は今は掠奪を被った弱国と弱者とに代わって、ここに数篇の風刺の歌を作り、暴虐の国と君と人とを嘲って言う。
風刺歌第一
己に属せざる物を積累(つみかさ)ぬる者は禍なるかな。
斯くて汝は何れの時にまで及ばんと欲(おも)ふや。
嗟(あゝ)、負債を己が身に累ぬる者よ、
汝より之を要求(もと)むる者興らざらんや。
汝を悩ます者出でざらんや。
汝は彼等に掠(かす)められざらんや。
汝衆多(おおく)の民を掠めたり。
残余の民は汝を掠めん。
汝が人の血を流し、地を荒らし、
邑と其住人(すめるひと)とを掠めし故に因て。
(6〜8節)
「復讐の法」は、人の道ではなくても、天が自ら悪人を罰される時の道である。
掠めた者は掠められる。それが強国であるか寵臣であるかにかかわらず。
◎ 不義を行うことは、自分の身に負債を重ねることである。そのような者はいつか、何人かによって、その返済を要求されるであろう。
カルデヤもアッシリヤもローマも、この要求に会った。英国もロシアもまた、これに会うであろう。如何なる国も如何なる人も、この天則の支配の外に立つことは出来ない。感謝すべきである。
預言者はまた彼の信仰から出た責罵嘲弄の歌を続けて言う。
風刺歌第二
災禍(わざわい)の手を免れんがために高処(たかきところ)に巣を構へ、
己(おのれ)の家に不義の利を取る者は禍なるかな。
汝は利益を計りて返て己が家に恥辱(はじ)を来らせ、
衆多(おおく)の民を滅して自から罪を取れり。
(9、10節)
不義の利を取りながら、災禍が自分の身に及ばないように配慮して、塀を堅くし、楼を築き、それで自分は安全だと信じる。しかし彼等は、自己に利益を計って、反ってその家に恥辱と滅亡とを積み上げたのである。
人の目から見て、彼等は幸福である。成功である。しかし神と彼を信じる者との目から見て、彼等は不幸である。大失敗である。破壊は既にその門前に迫っている。
風刺歌第三
血を以て邑(まち)を建て、悪を以て城を築く者は禍なるかな、
諸民(もろもろのたみ)は火のために労し、諸族(もろもろのやから)は
空事(むなしきこと)のために疲かる。
是れ万軍のエホバより出るにあらずや。
然れどもエホバの栄光を認むるの知識は地上に充ち、
宛然(えんぜん)水の海底を掩ふが如くなるに至らん。
(12〜14節)
世の残虐の主は、諸民を使役し、諸族を徴発し、その血によって町を建て、威圧によって城を築く。しかし彼等の経営は、エホバの憤怒に触れて、火で焼かれて終に空乏に帰するものであることを彼等は知らない。
悪人の事業が失敗に終わるのは、エホバの御心から出たことである。エホバには、一つの聖なる目的がある。彼は終にその正義の王国を地上に建設されるであろう。
その時
エホバの栄光を認める知識は、全地に充ちて、さながら水が海底を覆うような状態になるであろう。その時には、醜いものを留める余地は、全地にない。彼等と彼等の事業とは、煙と化して、地上から絶たれるであろう。
(以下次回に続く)