(「預言者ハバククの声」No.3)
(「ハバクク書第二章」後半から)
風刺歌第四
其隣人に酒を勧め、
己が悪意を和(まじ)へて之に酔はしめ、
其陋態(ろうたい)を見て喜ぶ者は禍なるかな。
汝は栄誉(ほまれ)に飽かずして羞恥(はじ)に飽けり。
汝もまた酔ふて陋態を露(あら)はせよ。
エホバの右の手の杯、汝に巡(めぐ)り来るべし。
汝は汚なき物を吐て栄誉を掩はん。
レバノンに為せし汝の強暴は、汝に報い来り、
其獣類の殲滅(せんめつ)は、汝を懼(おそ)れしめん。
汝が人の血を流し、地を荒らし、
邑と其住人とを掠めし故を以て。
(15〜17節)
残虐な人は、それが国王であるか富豪であるかにかかわらず、悪魔である。酒は、彼が農民翻弄の時に用いる唯一の玩具である。酒なしには、彼は民を欺けない。
彼は好意と称して、実は悪意を酒杯に混和して、これを人に勧める。そして彼等がこれを飲んで、酔って醜態をあらわすのを見て、甚だ喜ぶ。彼はこうして恥の上に恥を重ねて、栄誉に飽かずに恥に飽いた。
しかし、酒で人を誘った者は、酒で滅ぶ。彼の得意時代の祝杯は、失意時代のやけ酒となって終わる。「エホバの右の手の杯」は、憤怒の杯である。かの誘惑者は、ついにこれを飲まざるを得なくなるであろう。
これを飲んで酔い、酔って豚のように、自分が食ったものを吐いて、彼の身に残った些少の栄誉を覆うであろう。彼は戯れにレバノンの香柏を倒し、天然の美を損なって、楽しんだ。またその獣を殲滅(せんめつ)して、功を誇った。ゆえに彼はまた、山林乱伐と動物虐待のためにも罰せられるであろう。
風刺歌第五
彫刻師の刻(きざみ)たる彫像は、何の益にあらずや。
鋳像(しゅぞう)及び虚を告ぐる者は、
之を作りし者の依り頼む所たるも、
何の益あらんや。彼等は語(ものい)はぬ偶像にあらむや、
木にむかひて興(お)きませと言ひ、
語(ものい)はぬ石に向ひて起ち給へと云ふ者は禍なるかな。
是れ豈に教誨(おしえ)をなさんや。
是れは金銀を着せたる者にして、
気息(いき)其中にあるなし。
然りと雖(いえど)もエホバは其聖殿に在(ましま)せり。
全地は其前に静粛(しずか)にすべし。
(18〜20節)
偶像を卑しめて、エホバの神を崇めた言辞である。預言者当時の偶像は、全てこのようなものだったのであろう。
しかし、偶像とは、必ずしも金銀木石で作った物だけを言うのではない。
全て神でない者でありながら、神の特性を帰せられた者は偶像である。富も偶像となることが出来、功名も偶像となることができる。
カルデヤ王ネブカドネザルは、自分は人であるのに、神であると称して、民の崇敬を求めたので、自ら偶像となって、エホバの憤怒を身に招いた。
ローマでは帝王崇拝が行われて、生きた偶像が世に現れた。しかし偶像は偶像であって、神ではない。彼の身は金色燦爛としていても、彼は朽ちるべき罪の人であって、神ではない。
威力は人を神とすることは出来ない。人がこれを拝するか拝しないかは、私達が関するところではない。
神は一である。彼はその聖殿に在す。彼は聖徒の心に宿られる。また地を足台となし、天をその座位(みくら)とされる。世界の人はその前に端座して、彼だけを神として、崇め奉るべし。
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何と大きな信仰の歌であることか。私達はこれを聞いて大いに喜ぶ。なぜなら、これは神の言葉であり、事実となって速やかに世に現れるからである。
(以上、12月17日)
ハバクク書第三章
預言者は、人生に関する大疑惑を懐いて、彼の祈祷台に昇った。そしてそこで神からの解答を得て、歓喜のあまり、彼は嘲笑を以て世に対した。彼は富者の愚を笑った。権者の陋
(ろう:心や見識が狭い。また、心が狭く、卑しい。)を憐れんだ。
彼は神の公義が必ず世に行われることを知って、富貴が決して恐れるに足りないことを知った。彼は冷静に世の変動を正視することが出来るようになった。
しかし預言者は感情の人である。彼が独りで祈祷台の上に立ち、神と共にいて世を見おろしていた間は、神の怒りが世に臨むのを見て喜んでいたが、しかし再び凡界に降って来て、身を世俗社会に置くに及んで、彼は世の風雲を冷静に見ようとしても出来ず、皆と共に恐れ、世と共に憂えるようになった。
哲学的静思は今は人情的恐れに変わり、彼は神の裁判に接しつつある彼の同国人に代わって、神に一篇の祈祷の歌を奉げざるを得なくなった。「シギョノテの譜に合わせて歌った預言者ハバククの歌」(第3章1節)なるものが、即ちこれである。その楽譜がどのようなものであったかは、今日これを知る手段がない。
エホバよ、我れ汝の宣(のたま)ふ所を聞て懼(おそ)る。
エホバよ、此諸(もろもろ)の年の間に
汝の聖業(みわざ)を活動(はたら)かせ給へ。
此諸の年の間に汝の聖業を顕現(あらは)し給へ。
汝の震怒(いかり)の時にも憐憫(あはれみ)を忘れ給ふ勿れ。
(第3章2節)
神の裁判は近づいた。私はこれを聞いて懼れる。しかし神よ、この無意味なように見える今の時に当たって(「諸の年」の意味はおそらくこれであろう)、あなたの御業を活動させてください。
人はみな、宇宙に神はいないと言い、万物はみな物質の法則に従うものであると称して、時事の変動の中に一定の意志が働いていることを認めないので、ここに再び昔のように、あなたの不思議な偉業を現して、天に神が在ることを、人類に知らせて下さい。
しかしあなたが、地上にあなたの裁判を行われる時に、悪人に対するあなたの憤怒によって、無辜の良民に対するあなたの憐憫を忘れないで下さい。悪を憎まれる熱心のあまり、悪と共に善を滅ぼさないで下さい。
3節 神、テマンより来り、聖者(きよきもの)パランの山より臨み給ふ。
4節 其栄光諸方を蔽(おお)い、其讃美、世界に偏(あまね)し。
其光輝(かがやき)は日の如く、光線其側(かたわら)より出づ。
彼処はその権能の隠るゝ所なり。
5節 疫病(えきびょう)其前に行き、熱病其足下より出づ。
6節 彼れ立ちて地震い、環視(みまわ)して万国戦慄(おのの)く。
永久(とこしへ)の山は崩れ、常磐(ときわ)の丘は陥いる。
是れ昔より彼の取り給ふ道なり。
7節 我観るにクシャンの天幕は艱難(なやみ)に罹り、
ミデヤンの地の帷幕(いまく)は震ふ。
8節 エホバよ、汝は馬を駆り、勝利の車に乗り給ふ。
是れ丘に向ひ怒り給ふなるか、
河に向ひて汝の忿怒(いかり)を発し給ふなるか。
或は海に向ひて汝の憤怒(いきどおり)を洩し給ふなるか。
9節 汝の弓は全く嚢(ふくろ)を出たり、……………………
汝は地を裂きて河となし給ふ、
10節 山々汝を見て震ふ。
洪水溢れ渉り、深淵声を出して其手を高く挙ぐ。
11節 汝の奔(はし)る矢の光の為に、汝の電光(いなびかり)
の如く閃(ひらめ)く鎗(やり)のために、
日月その住処(すみどころ)に立止まる。
12節 汝は憤りて地を行巡り、怒りて国民を踏みつけ給ふ。
13節 汝は汝の民を救はんとて出来(いできた)り、
汝の受膏者(あぶらうけるもの)を
救はんとて臨み給ふ。
汝は悪者(あしきもの)の家の頭を砕き、
其石礎(いしずえ)を頸(うなじ)まで露はし給へり。
14節 汝は汝の鎗を以て、其勇者の首(かしら)を刺し給へり。
彼等は我等を砕かんとて大風の如く来れり。
彼等は貧者(まずしきもの)を密かに呑滅すを以て楽とす。
15節 汝は汝の馬に乗りて海を通り給へり。
大海ために泡立(あわだて)り。
(3〜15節)
神は来られた。地を裁くために臨まれた。彼は、ユダヤ国の南方、テマン、パランの砂漠の地に起こる旋風のように来られた。砂塵は揚がって雲をなし、雷霆が時としてこれに伴う(3節)。
その栄光は諸方を覆い、その讃美は世界中にあまねく広がる。しかも
その形像を現されない。ただ、
その権能が風雲の中に隠れていることを知る(4節)。
◎ 彼が世の罪悪を憤って地に臨まれると、疫病はその前に行き、熱病はその足下に出る。陣営に在って瘴熱(しょうねつ)で死ぬ者は幾千人、露営で疫病に斃(たお)れる者は幾万人。
剣で斬られて死ぬだけでなく、疾病に斃れる。天然は人類の敵となって、同胞相屠る者を殺す(5節)。
◎ 彼が立たれると全地は震い、彼が見回されると万国は慄(おのの)く。突撃の喚声に永久の山は崩れ、剣戟(けんげき)の響きに常磐の丘は陥没する。
人は言う。これは神が怒っているのではない。人が怒っているのだと。しかし私は言う。万国の平和が破れるのは、神が人心から、平和を奪われる時であると。神を畏(おそ)れ彼を敬えば、人に寛容の心があり、宥恕の念が厚い。
神はその聖霊によって、人の心を刺しつつある。彼がその霊を取り去られる時に、良心の束縛はなくなり、人は直ちに人の敵となり、魔鬼のような者となって、戦いを宣し、砲火を交え、人々は相屠って、耐え難い心中の憤怒の焔を消そうとする。
ゆえにダビデは神に祈って言った。「汝の聖霊(きよきみたま)を我より取り給ふ勿れ」(詩篇51篇11節)と。(6節)
◎ 「是れ古昔より彼の取り給ふ道なり」。これは古昔(いにしえ)から今日に至るまで、神が国民の罪悪を罰される道である。神は、「
罰すべき者をば必ず赦すことをせず」(民数記略14章18節)。
民衆が罪を犯して、永くこれを改めなければ、神はこれを一定の方法で処罰される。「是れ古昔より彼の取り給ふ道ならずや」、
歴史は大文字で書かれた倫理書であると言う。耳があって聞く者は聴くべし。(6節)
◎ 旋風は南方に起こり、神の怒りは黒雲の中に現れる。たちまちクシャンの天幕は襲われ、ミデヤンの地の天幕は震うと。クシャンとミデヤンは、共にシナイ半島の遊牧の民である。
災禍が彼等に及ぶと言うのは、旋風が南方に起こったと言うことから連想して起こった仮想であって、必ずしも歴史的事実として見るべきではない。(7節)
◎ 第8節から15節に至るまでは、エホバを戦士に譬えて言うのである。旋風を駆使し、砂雲に乗って臨まれる神は、弓を引き、剣を揮って起たれた。そして彼が起たれたのは、彼の民を救うためである。彼に選ばれた者(受膏者)を助けるためである(13節)。貪欲な富者に呑み込まれそうな貧者を助けるためである(14節)。
擾乱の真の意味は常にここにある。公義のバランスを失った社会を、その原状に戻すためである。神は人ではない。しかし彼には烈士の義憤がある。潔士の熱情がある。
彼は無辜の良民が、永遠に踏みつけられることを許されない。彼は、怒ることが遅い。しかし、彼が怒る時には、深淵は声を出して、その手を挙げ(10節)、大海はそのために泡立つ(15節)。これはもちろん形容の言葉である。しかし、その意義を解することは難しくない。
◎ 篇中には、ところどころに難解な句がある。第9節の一部とか、第13節の「石礎を頚(うなじ)まで露はす」云々などは、今日ではそれが何を意味する言葉なのか、知ることができない。しかし、全篇の大体の意味は、誤認すべきではない。
16節 我れ聞きて腸(はらわた)を絶つ。我が唇其声に由て震う。
腐朽(くされ)、我骨に入り、我下体慄(わなな)く。
そは我れ艱難の日の来るを待てばなり。
其時には即ち此民に攻寄る者ありて之に押逼(おしせま)らん。
17節 其時には無花果樹(いちじくのき)は花咲かず、
葡萄樹(ぶどうのき)には果ならず、
橄欖樹(かんらんのき)の産は空(むなし)くなり、
田圃は食料を出さず、
圏(おり)には羊絶え、小屋には牛なかるべし。
18節 然(さ)りながら我はエホバに由りて楽み、
我が救拯(すくい)の神に由りて喜ばん。
19節 主エホバは我力なり。我が足を鹿の如くならしめ、
我をして我が高き処を歩ましめ給ふべし。
災変は到ろうとしている。擾乱は臨もうとしている。神の大いなる裁判は、国民の上に落ちて来るばかりである。私は、その前兆を見て懼れる。その預言を聞いて震える。恐怖が私の身に入って私の骨は溶けるばかりだ。震動が私の体を襲って、私の脚はわななく。
私は、私の国民の罪悪を知る。ゆえに大きな艱難の日が、必ず私達の上に来るのを知っている。私は、災変の切迫する日が遠くないことを知る。(16節)
その時には、私の果樹園は荒らされて、イチジクの樹は花咲かず、ブドウの樹は実らず、オリーブ樹から採れる香油は空しいであろう。田畑は穀物を出さず、牧場に畜類は絶えて、私は空乏に瀕するであろう。
しかし、万物が私の手から全て取り去られる時に、私にはなお頼むべき者がいる。エホバは私の歓喜である。私の救いである。私の力である。
彼が私と共におられるので、財産を失って貧に迫っても、私は失望の重荷の下に圧せられずに、私の足は軽くて鹿のようである。高い者を望み、貴い者を想って、鹿が自由に山間絶壁の高所を飛行するように、私も希望の翼に乗って、歓喜の空中に飛翔しようと。(17〜19節)
大疑惑で始まったこの書は、大満足で終わった。預言者は暗雲が、彼の国民の上に迫って来るのを観た。彼は国民のためにこれを嘆いた。
彼は来るべき災変の危害を予想して、そのために全身が朽ち果ててしまうという感覚を起こした。彼はそのために彼が蒙るべき損害を覚悟した。
しかし、彼はそのために落胆しなかった。彼はエホバの神に頼んだ。ゆえに彼は、世の
希望のない他の人のように(テサロニケ前書4章13節)歎かなかった。
彼には世が奪うことの出来ない
或る者が存在した。田園の産は彼から奪い去られることがあっても、彼の産業であるエホバの神を、彼から奪い去る者はいない。
いや、彼は災害に遭って、反って彼の福祉を認めるようになるであろう。彼の衷にある光明は、世の暗黒に遭って、ますますその輝きを増すであろう。
そうだ。災害は、罪を悔いない者に取ってだけ禍である。静かに神に頼る者は、永久の山は崩れても、常盤(ときわ)の丘は陥没しても、何も恐れることはない。
世はその時に泣き叫ぶであろう。しかし、その時私達は新しい歌を作り、「伶長(うたのかみ)をして之を琴に合はして歌はしめん」(19節)。
(以上、明治37年1月21日)
「預言者ハバククの声」完