(「ヨブ記(第1章〜7章)」No.5)
第4章
エリパズ語る ◎諭した者が諭される ◎不義の急速な消滅 ◎これを
獅子巣窟の離散に譬える ◎夜更けの異象とその教訓
1. 時にテマン人エリパズ答えて曰く、
2. 人もし汝にむかひて言詞(ことば)を出(いだ)さば汝これを厭(いと)ふや。
然(さり)ながら誰か言(いわ)で忍ぶことを得んや。
3. さきに汝は衆多(おおく)の人を誨(おし)へ諭(さと)せり。
垂(たれ)たる手をば強くせり。
4. 言をもて躓者(つまずくもの)をば扶(たす)け起せり。
弱りたる膝を強くせり。
5. 然るに今この事汝に臨めば、汝悶(もだ)え、
この事汝に加はれば、汝怖惑(おじまど)う。
6. 神を畏(かしこ)むこと、是なんぢの信頼(たより)ならずや。
道を全うすること、是なんぢの望ならずや。
7. 請(こ)ふ想ひ見よ、誰か罪なくして亡びし者あらん。
義(ただし)き者の絶(たた)れし事いづくに在りや。
8. 我の観る所によれば、不義を耕(たが)へし、
悪を播(ま)く者は、その穫(か)る所も亦是(かく)のごとし。
9. 彼等は神の気吹(いぶき)によりて滅び、
その鼻の息によりて消(きえ)うす。
10. 獅子の吼(ほえ)、猛(たけ)き獅子の声ともに止み、
少(わか)き獅子の牙折れ、
11. 大獅子(おおじし)獲物なくして亡び、
牝獅子離散す。
12. 前(さき)に言(ことば)の密(ひそか)に我に臨めるあり。
我その細声(ささやき)を耳にするを得たり、
13. 即ち人の熟睡(うまい)する頃、
我夜の異象(まぼろし)によりて想ひ煩(わずら)ひをりける時、
14. 身に恐懼(おそれ)を催して戦慄(おのの)きたり。
我は骨節(ほねぶし)ことごとく振(ふる)ひたり。
15. 時に霊あり、我面(わがかお)の前を過たり。
我が身の毛よだちたり。
16. その物たちとまれり。然れど我はその形を見分つこと能(あた)はざりき。
唯或る象(かたち)の我が目の前に立てるあり。
時に我しづかなる声を聞けり。云(いわ)く、
17. 人いかで神の前に正義(ただし)からんや。
人いかでその造主(つくりぬし)の前に潔(きよ)からんや。
18. 彼はその僕さへに恃(たの)みたまはず。
その使者(つかい)をも足(たら)ぬ者と見做(みな)したまふ。
19. 況(いわん)や土の家に住(すみ)をりて塵を基(もとい)とし、
蜉蝣(かげろう)のごとく亡ぶる者をや。
20. 是は朝より夕までの間に亡び、
かへりみる者なくして、永く失逝(うせさ)る。
21. その魂の緒あに絶(たえ)ざらんや。
皆悟ること無(なく)して死(しに)うす。
辞 解
(2)「厭ふや」 耐えるか。艱難の時に反駁する言葉を聞くのは難しい。ゆえにエリパズは、予めヨブの忍耐を喚起しておくのである。
◎(3)「垂れたる手」 失望落胆のしるしである。
◎(6)信頼とは他でもない。神を畏れることである。希望とは他でもない。神の道を守ることである。実際的信仰は、この他にはない。
◎(8)人は、その蒔くものを刈る。(マタイ伝7章16節)。
◎(9)「気吹」「鼻の息」砂漠から来る熱風が、野の草を枯らすように、神の憤怒は悪人を滅ぼす(イザヤ書40章7節参考)。
◎(10〜11)「獅子」、「猛き獅子」、「少き獅子」、「大獅子」、「牝獅子」 洞穴に巣窟を作る獅子の一団を言う。雌雄あり、老若あり、そしてある日変災に遭遇すれば、彼等といえども四散せざるを得ない。
古代にあって、獅子が未だ多く人家の近くに棲息していた頃は、その常性、習慣などは、人がよく究めていたようである。本書ならびに詩篇において、多く獅子について述べているのは、これが当時の人の日常の話題だったからに違いない。
◎(12〜21)これをエリパズの幽霊談と称し、世界文学に有名である。ある人は言った。シェークスピアのマクベス劇における幽霊も、これほど凄くはないと。
◎(13)「夜の異象」 夢魔であろう。
◎(15)「霊」 幽霊である。形があって無いような者。
◎(16)「或る象」 奇異なある者。物か霊か私は知らない。しかし声は「或者」から出てきた。
◎(18)「僕」「使者」 天使である。神に直接仕える者。肉である人間以上の者である。
◎(21)「その魂の緒あに絶えざらんや」 蜉蝣のような人間が失せない理由があるか(?)、原文の意味は不明で、解し難い。
意 解
◎ 言うのを好まない。しかし、言わざるを得ない。言えば友の心を痛める恐れがある。しかし、言わなければ、彼は癒えないであろう。苦しんでいる友に対する私達の義務は難しい。よくこれを果たすためには、神の特別な指導を要する。(2)
◎ 諭すのは易しいが、諭されるのは難しい。諭す時の快楽、諭される時の苦痛、そしてヨブは今、諭される者の地位に立った。慈善家で、慰める者であった彼が、この地位に立ったことの苦しさよ。これまた彼に取って、確かに一つの試練であったのである。
よく慰める者は、よく慰められる者ではない。ヨブは信仰によって人を勧めた。そして今は同じ信仰によって、自己を勧めることが出来なかった。艱難が私達の信仰に及ぼす結果は、そうである。私達は、平生私達の信仰についても、誇ってはならない。(2〜6)
◎ エリパズは、半ば人生を解して、半ばこれを解しなかった。罪なしに亡んだ者がいなかったわけではない。また、正しくても絶たれた者がいる。これを無しと断言し、これを有りと確信するのは、人生の半解と言わざるを得ない。
実に、義人が絶たれたことがある。しかし彼が死を通して唱導した正義が絶たれたことはない。
実に、義人がこの虚偽の世において絶たれたことがある。しかし、彼は永久に絶たれたのではない。義人は死んで活きる。これは、キリストが私達に教えられたことである。
エリパズは未だキリストを知らない。ゆえに未だ、この事を解しなかった。またエリパズのようにキリストを知らない者の人生の解し方は、概ねみなそのようなものである。 (7)
◎ エリパズの義人観は、半ば誤っていた。しかし、彼の悪人観は、的を射ていた。悪人は不義を耕し、悪を蒔いて、そしてこれを刈り取る。
それは急速に亡びる。あたかも虚木(うろのき)が倒れる如くである。繁茂したと見ている間に倒れる。神の憤怒の息吹に会えば、彼等は熱風に触れた野の青草のように枯れる。
獅子が巣窟の中で吼えれば、羊や山羊の類は、その声を聞いて戦慄する。そして、獅子族の猛威が続いて、千万年に及ぶであろうと言う。
しかし見よ、神が一撃をその上に加えれば、洞穴に猛獣は絶え、その一族は悉く離散する。その牙は折れ、その声は途絶え、雌雄は別れ、老若は路頭に迷う。……叢林(そうりん)の獅子族がそうである。罪界の豪族がそうである。
彼等が安泰に見えるのは、ほんのしばしの間である。あるいは二十年、あるいは三十年、ながくても百年に満たない。そして彼等は一朝にして滅ぶ。そして後世の人は、彼等の跡を尋ねて言う。彼等一族の子孫は何処にいるかと。 (8〜11)
◎ 細い声は、深い静粛のうちにおいてだけ聞くことが出来るであろう。預言者エリヤは、「
静かなる細微(ほそ)き声」を聞こうとして、ホレブ山の寂寞に赴(おもむ)かざるを得なかった(列王記19章12節)。
エリパズもまた、これを夜更けて万物粛々として声をひそめる時に聞いた。異象は前にあり、夜色(やしょく:夜の気配)凄然としていた。恐怖が全身を襲い、感能過敏を極める時に、彼は平凡のように聞こえて、しかも真理中の真理であるこの事を聞いた。
即ち、「
人いかでか神の前に潔からんや」と。世が騒々しいので、私達は日々にこの声を聞いても、これを心に留めない。常に自分を清浄だと思い、蜉蝣のような者であることを悟らない。
しかし、時にあるいは山頂に立って青空と独り相対する時、あるいは洋面に浮かんで独り波に揺られる時、私達は私達の微小さを甚だしく感じ、実に自分は空間の一点、大洋の一滴であり、私は神の前に何物であろうかと思う。
エリパズもまたかつてそのような経験によって、神の大に対する彼の小と、その聖に対する彼の不浄とを悟ったのであろう。彼は今この実験を開陳(かいちん)して、ヨブを教えようとする。その思想の壮大さ、その言辞の美、それは文界の珠玉と称すべきである。 (12〜21)
(以下次回に続く)