「私の唯一の武器」他
明治38年9月10日
1.私の唯一の武器
「
万軍のエホバ宣べ給ふ。権勢(いきおい)に由らず、能力(ちから)に由らず、我霊に由るなり」(ゼカリヤ書4章6節)と。
政権によらず、武力によらず、ただ神の霊による。教会によらず、神学によらず、ただ聖霊による。私の武器は、ただこれだけである。私はこれによって自分に勝ち、世に勝ち、終に死に勝とうと思う。
2.光明の一閃(いっせん)
私は時には、幽暗の中に彷徨する。私は、この学者に依り、またかの学者に頼る。私は自分に問うて言う。世に果して真理なるものはあるかと。そうして私の意見なるものは、全くなくなる。
時に私は、波の上に浮かぶ小舟のように、何物をも信じることが出来て、何物をも信じることが出来ない。時に光明が天から私の幽暗を照らす。私はこれに接して、疑雲一時に晴れる。私はキリストを呼んで、私の真理であると言う。私は盤石の上に立って、動揺しなくなる。
3.私の信頼
私は、私が弱いことを、歎く必要はない。神はその霊によって、私を強くされる(ヘブル書11章34節)。私は、私の愚を悲しむ必要はない。神はその霊によって、私を賢くされる(ヤコブ書1章5節)。
私は、私の不信を憂える必要はない。神はその霊によって、私の信を増して下さる(ルカ伝17章5節)。神は私を外から助けて下さり、また、内から助けて下さる。神はその霊によって、私を義者仁人勇者として下さる。
4.意志の刷新
境遇の改善ではない。意志の刷新である。前者は人もよくこれを為すことが出来るであろう。後者は、神以外にはこれを為すことが出来ない。「
主エホバ曰ひ給ふ。我は新しき心と新しき霊魂を起すべし」(エゼキエル書18章31節)。
私は、私の心が新たに造られることを要する。そして神は、キリストに在って、聖霊によって、この奇跡を私の内に行われる。
5.善心の恩賜
善い境遇の中にあって、善い人になるのではない。善い心をいただいて、善い人に成るのである。人は善い心を造れない。ゆえに、ひとえに善い境遇を作って、善い人に成ろうと計る。社会主義もこれを作り、キリスト教会もこれに努める。
しかし、それは無益な業である。バベルの塔を築いて、天に昇ろうとするようなものだ。私達はその愚に倣うことなく、直ちに神に至り、彼から直ちに善心の賜物を受けるべきである。
6.平和克復の困難
平和を破ることは易しい。平和を回復することは難しい。愚者も容易にこれを破ることが出来る。賢者も容易にこれを回復出来ない。平和が貴いのは、その回復の難しさにある。衆愚の声に聴いて、みだりにこれを破り、怨恨を千載に残す者は、何と禍なことか。
7.主戦論者の論理
世界人道のために平和の回復を要するということならば、始めから平和を破らない方が良い。既にこれを破っていながら、人道のために、その回復を急ぐと言う。戦争は果して善事であるか。それなら何故これを永久に続けないのか。
それなのに、人道の声に聴いて、その中止を計ると言う。これは、戦争が悪事であることを認めているからではないか。人道のためにこれを止めると言う。主戦論者の論理は、とうてい私には会得出来るものではない。
8.教育と平和
戦うことに巧みで、和するに拙(つたな)い者、これが今日の愛国者であろう。彼等は憎むことを知って、愛することを知らない。戦場に斃(たお)れる他に、国を守る途を知らない。
愛は、武器に優る国防の具である。人を愛する者でなければ、永久の平和を結ぶことは出来ない。愛国を、敵愾(てきがい)の精神とだけ解した国民は、戦場で敵を破ることは出来るであろうが、宴席で敵と和する術(すべ)を知らない。
常に修養すべきは、実に人を愛する精神である。
9.愛の順序
第一に神を愛すべし。第二に世界と人類とを愛すべし。第三に国と国民とを愛すべし。第四に自分と家族とを愛すべし。愛をこの順序にしたがって施せば、私は全ての人と、平和を結ぶことが出来、私の事業は栄え、私の心は、常に平安であろう。
しかし、この順序を転倒すれば、私はカインのようになって、人はみな、私の敵となって、私はまた人の敵となるであろう。
10.孤児の敵
一方では孤児の養育を唱え、一方では戦争の利益を言う。そして一方では孤児を助けながら、一方では盛んに孤児を作る。笑止千万とは、主戦論者の孤児救済事業である。彼等は孤児の敵である。その友ではない。
11.禁酒と戦争
神の聖書に従って、禁酒を唱導し、新聞記者の論説に拠って、戦争を主張する。酒を飲むのは悪いことだと言いながら、人を殺すことを肯定する。そのように言って、彼等は自分を怪しまない。教会もまた彼等を咎めない。高潔な無神論者が、今日のキリスト教会を偽善者の団体と目するのはもっともである。
12.キリスト信者の本性
キリストを「信」じる者ではない。キリストに在って有る者である。即ちキリストの中に自分を失って、彼を自分に代わって自分の自我にする者である。キリスト信者(クリスチャン)とは、そのような者である。
キリスト自身が彼において現れ、彼に在って働く者である。彼は意志の本城をキリストに開放し、今はその捕虜となって動く者である。神の捕虜である。恥辱の身である。しかし、無上の栄光の身である。
13.キリスト信者の善行
キリスト教は、その信者に善を為せとは言わない。善を為す者と成れと言う。あるいは善を為す者となることを、神に祈り求めよと言う。
善を為さない者は、キリスト信者ではない。好んで善を為す者でなければ、キリスト信者ではない。善行が自然性と成った者でなければ、キリスト信者ではない。そしてキリストの霊が宿る所となって、私達はそのような者と成ることが出来るのである。
14.神人合体の事実
神はキリストに在って人に臨み、人はキリストに在って神に近づく。神人合体は、今や詩人の夢想ではない。
人はキリストに由らずには、神に至ることが出来ない。神はキリストにおいてだけ、自分を現わされた。キリストは、天と地との接触点である。神と人との間に立つ仲保者である。キリストは途である。罪の人が聖(きよ)い神に至る途である。彼に在って、私達は、神の子供となることが出来るのである。天に居られる私達の父が完全であるように、私達も完全になることが出来るのである。
完