キリスト教の来世観に関する明白な事実
明治38年9月10日
キリスト教は、明白に来世の存在を教える。これを教えるだけでなく、その事実を供する。この点において、キリスト教は他の宗教と全く異なる。
他の宗教は、
来世はあるべきはずであると教える。または、
必ず無くてはならないと説く。即ち来世の存在について揣摩(しま)推測を供する。ソクラテスの来世観なるものもこれである。仏教の来世観なるものも(もしあるとすれば)これに過ぎない。
即ち、来世存在に関する人間の推測と希望とを述べたまでである。その事実については、彼等は知るところがなかった。彼等は、それが確かに有るという証明を供することが出来なかった。
しかし、キリスト教はわずかに来世の存在を教えるに止まらない。キリスト教は単に、来世は無くてはならないとは言わない。キリスト教は、論理を語るよりも、むしろ事実を告げる。もし示すべき事実がなければ、論理を語らない。他のことについてもそうである。来世存在問題についてもそうである。
それでは、キリスト教が示す来世存在の事実とは何であるか。誰かが来世に往って再びこの世に帰って来て、その実在を証明したと言うのであるか。もちろんそうではない。そんな人がいるはずがない。それではキリスト教は、何によって来世の実在を私達に証明するのか。
言うまでもなく、
私達に不朽の生命即ち永生を供してである。永生を知らない者は、来世を知らない。永生を受けずには、来世を明白に望むことは出来ない。
永生とは、不死不朽の生命であって、今始まって肉体の腐死と共に死なないものである。永生とは、使徒パウロの言葉を借りて言えば、「
霊の質(かた)」(コリント後書5章5節)である。
即ち
永生の素因である霊性の前味である。神はキリストによって、私達にそのような生命を前以て味わわせられて、肉体の死後にさらに
より高い生命があることを、私達に御示しになるのである。
この前約なしには、来世のこの前兆なしには、私達はいくら来世の存在を説き聞かされても、これを信じることは出来ない。実物による証明が伴わない約束は、約束とはならない。
今から実験することの出来ない来世は、頼るに足りない来世である。
いくら聖書が来世の存在を説いても、これを証明するに足りる目前の事実がないならば、私達は如何にこれを信じようと思っても、信じることは出来ない。
信仰とは、もちろん目で見、手で触れることではない。しかしながら信仰とは、実験以外のことを信じることではない。
信仰とは、霊の実験を事実として認めることである。
そして私達は、私達が生まれながらにして有たない、新たな生命を、私達の中に実験して、永生(来世)の希望を確実な知覚の基礎の上に築くのである。
こういうわけで、キリスト教が供する来世の希望は、決して漠然とした頼りない希望ではない。
キリスト教は、人は誰も生まれながらにして不朽の者であるなどとは言わない。そう言うのは、あるいは「人情的」であるかも知れない。しかしながら、「人情的」と事実とは、全く別物である。
誰もが不朽であることは望ましいけれども、しかしながら、誰もある明白な理由なしに不朽であることは出来ない。天然の法則は無慈悲である。原因が無ければ結果はない。
血肉は、神の国を嗣(つ)ぐことはできない。これは避けることの出来ない天然の法則である。
生まれながらの人に永生はない。これは天然の事実である。
キリスト教は、永生を人類の固有性として説かない。キリスト教の明白な教示に従えば、永生は、神からの恩賜である。神の大慈悲から出た最大の恩恵である。
それでは永生とはどのようにして私達に臨むか。キリスト教は教えて言う。神の独子であるイエス・キリストを通してと。「
永生は彼にのみ存す(He only has immortality.)」(テモテ前書6章16節)。これを彼から受けなければ、受ける所はない。
「
キリスト死を滅し福音を以て生命と壊(くち)ざる事とを明らかにせり」(テモテ後書1章10節)。
「
爾曹我(キリスト)に居れ。さらば我また爾曹に居らん。枝若し葡萄樹に連ならざれば、自ら実を結ぶこと能(あた)はず。爾曹も我に連ならざれば、亦此の如くならん」(ヨハネ伝15章4節)。
生命なしには生命はない。生命だけがよく生命を生じる。これは生物学の原理である。
永生なしには永生はない。永生だけがよく永生を生じる。これはキリスト教の教義である。
「
イエス曰ひけるは、我は復活なり、生命(永生)なり。我を信ずる者は死ぬるとも生くべし」(ヨハネ伝11章25節)。
キリストを信じることなしに、即ち彼に依り頼み、彼と心霊的交通を開かずには、私達に復活もなければ永生もない。キリストを要しない来世存在は、キリスト教の立場から見れば、頼る所のない空想である。
永生を受けずに来世は無い。そして永生は、キリストにおいてだけ存する。ゆえに、永生をキリストから受けずには、私達は来世を継ぐことは出来ない。これは、明白なキリスト教の教示である。
この教示が真理であるか、誤謬であるかは、全く別問題である。しかし、それが明白にキリスト教の聖書が示している教義であることだけは、公平にこの書を研究した人の誰もが、否定できないことである。今や来世問題がやや人の注意に上った時に当たって、この事を繰返しておく必要があると思う。
完