私の今日のキリスト
明治39年8月10日
「
イエス・キリストは、昨日も今も永遠変らざる也」(ヘブル書13章8節)と言う。彼は実に、年と共に変わる者ではない。しかし、私達の心に映じるキリストは、私達が変わると同時に変わる者である。
私達の生涯の目的は、もちろん「
完全の人即ちキリストの満ち足れる程と成るまでに至る」(エペソ書4章13節)ことである。しかし、この終極の目的に達するまでには、私達は種々の形において、キリストを仰ぎ見るのである。
私の今年のキリストは、十年前のキリストではない。実に、私は日に日に違った方面から、キリストを仰ぎ見る者である。もちろん異なったキリストではない。同じキリストである。
しかし、同じ富士の山が、これを眺める方面と、これを包む雲の様子とによってその形状を異にするように、キリストも彼を仰ぎ見る方面と、私達を包む雲の有無や種類等によって、キリストは私達に現される容貌を変えられるのである。
私は、今年の今日、どのようにキリストを観奉(みたてまつ)るか、これが、今私が読者に告げようとすることである。
私は今も前のように、いや、前よりもいっそう深く、キリストを
私の友人として認める者である。私はこの世において、友人に乏しい者ではない。しかし、キリストという友人なしには、非常に淋しく感じる者である。
私の心の中には、世の友人の同情推察によってでは、とうてい満たすことの出来ない空所(あき)がある。私の全ての友人に取り囲まれても、私はやはり宇宙における孤客である。
世に私を充分に慰め得る者は、一人もいない。私は心の奥底において、歳老いて伴侶もなく孤独であり、宇宙の漂流人である。
しかしながら、キリストを友として有って、この寂寥感は全く取り除かれるのである。キリストは、私の唯一の友人である。人のように不実ではなく、そうかと言って、神のように森厳でもない。
人であって神、神であって人、彼と共に歩んで、人に欺かれる危険も無ければ、また神を捨て去る恐れもない。彼を友として有って、私は一方においては俗人に成り終わり、他方においては狂信家と成り終わる危険から免れることが出来る。
ことに無教会信者である私にとっては、キリストの友愛は、私の交友の渇きを潤す唯一の甘露である。私は実にキリストなしには、無教会信者であり得ない者である。
私には教会はない。したがって法王も、主教も、監督も、牧師もいない。もし今の教会信者が「聖徒」であるならば、私はいわゆる「聖徒の交際」なるものは、一つも有たない者である。しかしながら、この地位に立って、私はいっそう深く、キリストの友愛を感じるのである。
キリストも無教会信者であられた。ナザレの教会は、彼を放逐した。彼は、祭司・学者・パリサイ人の中に、一人の友人をも有っておられなかった。彼は、身を寄せるべき信者の団体を、有っておられなかった。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、しかし人の子には枕する所が無かった。
彼は、社交的にだけではなく、また教会的に、いや殊に教会的に、孤独であられた。私達はこの世に在って、いくら孤独であっても、キリストほど孤独であることは出来ない。キリストは、人の中で最も孤独な者であった。
そして、そのような人を友として有って、孤独は反って歓喜となるのである。キリストと親交を厚くするためだけでも、孤独は反って追求すべきものである。
キリストは、彼と二人で歩むのでなければ、彼の深い事を、私達各自に伝えて下さらない。この世と、この世の教会とに捨てられるのでなければ、キリストに深い同情を有つことは出来ない。私は、無教会信者でない者が、どうしてキリストの良い友となることが出来ようかと、独り密かにいぶかる者である。
しかし、私はもちろん、今キリストを私の友人としてだけ尊ぶ者ではない。キリストは私の友である。私の
霊魂の牧者・監督である。私の教師である。私の王である。私の救主である。そうです。私の
全てである。
そうです。
私の今のキリストは、私以外の者ではない。キリストはキリスト、私は私と、二個別の者ではない。私は私の存在を全て、キリストに移した者である。そうです。日々に移そうと努めつつある者である。
したがって私は、キリストに真似(まね)ようと思う者ではない。彼はまた、私が真似ようと思っても真似ることのできる者ではない。
キリストのようになりたいと思うのは、私の願いではあるが、しかし、今日の私は、そのように成ろうと自ら努める者ではない。それは何故かと言えば、私は既に今日までの私の生涯の実験によって、そのような努力が全く無益であることを知ったからである。
私は、今は私の信仰を以て、十字架上のキリストを仰ぎ見る者である。単にそれだけである。私は、自ら私の罪を贖(あがな)うことは出来ない。ゆえに私に代わって、キリストに神を喜ばせていただくのである。
私の義なるものは、私が死力を尽してこれを遂げようとしても、実に取るに足りないものである。ゆえに私は、キリストの義を、私の義として受けようと願う者である。
私は、神の恩恵の一つをも受けるに値しない者である。ただキリストの功績によってだけ、これに与りたいと思う者である。
今の私は、信仰を以て、十字架上のキリストを、私の所有(もの)にしようと、ただこの事だけを努める者である。
私は、これ以下の意味において、キリストを私の救主としていただくことは出来ない。そしてそのような万全の意味において、私がキリストを私の救主としていただくことは、私にかかわる、神の最大の御旨であると信じる。
ゆえに私は今、盛んに世に行われる「キリスト教救世論」なるものを信じることは出来ない。私は、私のキリストを、いわゆる「社会的最大勢力」として見ることは出来ない。
私にとっては、キリストは最良の「道徳的教師」であるばかりではない。彼は、最も深く、かつ最も高い意味において、私の
身代わりである。私がなすべき義を、キリストは私に代わって
既に行って下さったのである。
私が今から為すべきことは、進んでキリストのようになろうと思うことではない。
既に成されたキリストの義を、私のものとして信得することである。
キリストの救済は未成事ではない。既成事である 。
これは、新約聖書が明白に示すところであって、また聖霊が私の心に確証するところである。
ゆえに私の祈祷は、すべて
キリストにおいてある。私はキリストを離れて、神に祈ることは出来ない。キリストの
ために私を受けて下さい、キリストの
ために聖霊を私にお与えくださいと、これが私の祈祷である。
キリストは、実に私の霊的宇宙である。万物が神に頼って生き、また動き、また存在することが出来るように、私の霊は、キリストに頼って生き、また動き、また存在することが出来る者である(使徒行伝17章28節)。天国は実に、神の賜であるキリストを以て私達に近づいたのである。
そして私達は、信仰を以てキリストを私達のものとして、今からこの天国に入ることが出来るのである。ここに至って、キリストは私の友人、王、牧者であるに止まらずに、私の生命の食物となられるのである。または、私の呼吸する空気となられるのである。
まことに私は、キリストの血を飲み、その肉を食らって生存する者である(ヨハネ伝6章55節)。
私は今、そのようにキリストを観る。そしてこれは、私が宣教師に教えられたことではない。また神学者が著(あらわ)した書によって学んだことでもない。
これは
ある者が、直接私に伝えたことである。その
ある者とは何であるか。誰であるか。彼はどのような容貌か。彼の音声はどのようなものか。これはあまりに神聖で、私の汚れた筆では書き記すことが出来ない。
風は己がままに吹き、どこから来て、どこへ去るのかを知らないように、そのような示顕は、影と形を伴って来る者ではない。しかし、それが来ることは、事実中の事実であって、これに接して私達は、天地は消失しても、それが真理であることを疑うことは出来ないのである。
万物を以て万物に満たしむる者の満る所の者 (エペソ書1章末節)
これが私の今日のキリストである。
完