今回は、教育問題も絡めつつ、ケンカについて書いていきたい。暴力的なことが嫌いな人は読まないで下さい。
皆さんはケンカとはどういうものだと思っているだろうか。goo辞書で引いてみると慣用句に、
――に被(かぶ)る笠(かさ)はなし 喧嘩はいつ身にふりかかってくるかわからず、それを防ぐ手段はない。
――のそば杖(づえ) 〔喧嘩を見ていて、ふり回す杖で打たれることから〕他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
――は降(ふ)り物 いつどこで喧嘩になるかわからない。
まさに日本と中国と韓国の関係のようです。なあなあの平和主義では駄目なことは昔の人の慣用句で解ります。ケンカとは理不尽に私たちに襲いかかってくる可能性があるものです。そして、対応できる準備も必要なのです。個人の生活だけでなく、国としてもそれを怠ってはいけません。
さて、昔のエントリーで喧嘩の仕方をエントリーしていますが、皆さんは命のかかったケンカをしたことがありますか。実は、私は、結果的に命がけになったことが私はあります。相手のゴルフクラブで複雑骨折で3ヶ月の病院送りにされました。当たり所では私はこの世にはいません。まあ、そのケンカの詳細を語るつもりはありませんが、私は苦境にたったときは一度は無くなった命と思って開き直れます。この経験は、私にとっては生きる上での糧にはなりました。
何でこんなことを書いてるかと言えば、最近お花畑のブログを読んでいると平和だの話し合いなどの脳天気な言葉のオンパレードです。そして、そんな奴らを育てた日教組などのアホ教師にヘドが出てきてしまうので、ガス抜きに書き綴るんです。
昔、男は拳で語るといった人がいましたが、長い友人とは拳で語り合っていることが多いです。学生時代の未熟なときには、言葉だけでは分かり合えないこともあります。それは表面の言葉だけではお互いが解らないというか信頼し合えないと感じるのです。そう、大人でありませんから心のすれ違いや不満などがストレートに出てくるのです。それは行き着くところまでいかないと解らない不器用さがあると思います。
だから、私の親友とは拳でのコミュニケーションから本当の親友となっています。ここまでで、ケンカを薦めているようですがそうではありません。本当の友人とはイヤなことも言えて、ケンカするほど本音で語ることが出来る人間でなくてはならないと思うからです。

0