ある野球ブログを読んでいて勝負へのこだわりについて考えてみた。そのブログで、メジャーの2軍と日本の2軍の勝負へのこだわりを比較していた。それによると、メジャーでは、2軍といえども優勝に対して貪欲であり、日本では一軍への育成機関との要素が大きいというものである。そのため、日本の場合あまり2軍から1軍へ育成が上手くいってないらしい。それは真剣勝負が足りないかららしい。大学や社会人のほうが勝負に貪欲な分プロとして育つらしい。(野村監督の本からの話を引用している)
実は、ここ10年ぐらいくらいだろうか。オリンピックの度にむかつく選手のコメントがある。「楽しみたいです」とかその手のコメントだ。
「お国のため」なんて言ったら、軍国主義、右翼とか言われてサヨクメディアに叩かれるのでそこまで言えとは言わないけど、せめて「日本代表として恥ずかしくない試合をしたい」とか「代表として精一杯頑張ります。」とか代表としての心意気が欲しいのである。「個人的にオリンピックを楽しみたい」なんて台詞は、円谷選手の自殺とかあったから、プレッシャーとかで個人を追いつめるのは良くないとのメディア操作なのか、サヨク教育の成果なのか知らないが情けないコメントである。
私は、高校時代に弓道部に所属していた。そこで、チーム対抗戦では、5人4本づつ射って当たった総合計で競う試合が多かった。(他にも大会毎に試合形式はある)
私自身は、5番目つまり最後に射る番手を任されていた。試合では様々な駆け引きなどはあるのだが、弓道とはよく言ったもので最後は精神戦の様相を帯びてくるのである。心の動きが体に移り、矢が外れたり当たったり。
いまでも、試合を思い出して胃が痛くなるときがある。県大会の決勝トーナメント戦で的中15対14で負けていて、自分の最後の一本が当てて、再勝負(5人が一本づつ射て、サドンデスの勝負)になるかそのまま負けるかの場面である。試合を見つめる監督後輩、観衆の悲壮感さえ漂う応援ムード。監督から願いを込めた「一本」のかけ声。(大事な場面でここ一本は決めろという意味の気合いのかけ声)
一年間の努力が自分の射にかかっているのである。微妙に震える躰のまま、ゆっくりと打つ体制に移っていく。不思議なものでここからは日々の練習の反復のまま弓をひいいていく。弓を引き終わり、射るまでの時間が長く感じる。気持ちを整えて左手の矢を解き放ち、右腕を的に押し込むように射る。心地よい音とともに矢が的に突き刺さる。応援団から「よし」声と拍手が起こる。安堵とともに身支度を整え一度控えに戻る。そして、射詰(五人が一本ずつ射って合計の当たりで勝敗を決める)で勝利したとき、そのプレッシャーさえ心地よく感じるのだ。
でも、試合のときは、達人でない私でも射る動作を始めるとプレッシャーは感じなかった。(スランプのときは射ることに迷いはよくあったけど)無心という言葉があるが、私にしてもそこまでの境地ではないけれど、練習によって憶えた型を躰がおぼえていて、不思議と色々と考えず、射るという気持ちのみであった。
ただ、弓道を極めるのでなく、競技として勝つという気持ちを持っていたので、楽しむとかの逃げの気持ちを持っているものに気持ちをコントロールすることは出来ないと思っていたし、今でもそう思う。様々な団体スポーツでもそうだろうけど仲間と長くプレーしたいと思うなら勝ち続けるしかないのである。そして、勝ついうことは負けた人間の思いも背負うところもあると思う。
ちなみの私は、個人戦では直ぐに負けていた。どうも個人戦では、モチベーションが高くなかったようなのだ。
最近の軟弱なコメントの出すスポーツ選手には、失望感が大きいのだ。「日の丸のための頑張ります。」というカッコイイコメントを出すアスリートの出現を心待ちにするのである。いつから、プレッシャーばりばりの頑張りますのコメントが格好悪いみたいな風潮になったんだろう。
人気blogランキングへ、ポチッと押して下さいお願いします

0