また昨日の続きです。
自分と彼女は、鍵と鍵穴の間柄。あれから幾星霜。長い長い間、そう思い続けていたのに何故でしょう。ある日、京子は、家から不審な男と腕を組んで出て来たのです。守は自分を責めました。あれほど注意していたというのに、京子を守れず、悪党の手に渡してしまったのです。守は、愛に殉ずる覚悟で、携帯していたナイフを取り出しました。そして、最初に自害してしまったら、京子がどれほど悲しむだろうかと思いやり、取りあえず彼女に飛び掛かって、何度も何度も刺しました。次に守は自分の喉に刃を向けましたが、いつのまにかやって来た警官たちに取り押さえられてしまいました。返り血を浴びて真っ赤に染まったまま、彼は、ふと顔を上げて、あ、そっか、ようやく解った、と呟きました。マモちゃんの鍵は、子供部屋の鍵だったんだ。間違っちゃった。
『100万回殺したいハニー、スティート ダーリン』
あの人から『100万回生きたねこ』という絵本をプレゼントされたんだよ、と自慢したら、女ともだちの真紀は、途端に意地悪な目つきになって言うのだった。で、まさか、それ読んで、あいつの前で泣いて見せたんじゃないでしょうね。私に、あの絵本をくれた男は美樹生といって、皆に、ミックと呼ばれていた。え? ミュージシャンかって? 全然、違う。ただのホストだ。いや、ただの、なんて付けたらホストに失礼だ、と彼を知る女たちは言う。一流どころのホストと彼には雲泥の差があるのだそうだ。ただ女をたらし込んで、日々の糧を得ている。私は、ホステス。キャバクラで働くには、少しばかりとうが立って来たので、ちょっとだけ場末のクラブに降りて来た。源氏名は、ビアンカ。ミック・ジャガーの奥さんだった人の名前だと言って、彼が付けた。ミックとビアンカって、何だか古い感じがするし、シド アンド ナンシーみたいなクールなイメージもない。そう告げたら、ぶたれた。下手すっと、おれが美樹生だからミッキーとミニーとか呼ばれかねないからな、と彼がぶるっと身震いしたので頷いた。美樹生は、私が絵本のページをめくる間、ずっと側にいた。そして、食い入るような目つきで私を見詰めていた……と思う。私は、ねこの世界に入りこんで行き、彼は、ねこの世界の終わりで待ちかまえていた。やがて、私がそこに行き着いて、はらはらと涙を落としながら本を閉じて顔を上げた時、よくやった! とでも言いた気な表情の彼がいた。私、どうやら合格したらしい。おれの女、と言われて抱き締められた。「みんな、あの手この手を使って、どうにかして、おれに取り入ろうと思うのな。この本で泣くか泣かないかで心の綺麗さをテストする」「ミックは、泣いたの?」「めちゃ泣きだよ! でも、ビアンカなんて名前は、ちょっと、嫌。」と、そこで殴られたのが、すべての始まりだった。何の、かのというと真紀が吐き捨てるように口にした「運のつき」の始まり。美樹生は、私に、よく手を上げた。でも彼が悪いと一方的に責めることは出来ない。きっかけは、たいていの場合、私が彼をなじったことに端を発していたから。問題は、ここ。『100万回生きたねこ』を読まされて、泣いた、あるいは泣いて見せた女が、ものすごく多かったということなのだ。彼は、そのたんびに、いとも簡単にほだされてしまったという訳。美樹生は、いつも、ふらりとやって来る。なかなか来なかったことに対する不平などを申し立てていたら、あーっ、うっせえ女! といううんざりした声と共に突き飛ばされ、壁にぶち当たって崩れ落ちるのが関の山。さすがに店では、そこまでやらないけど、他の人に見つからないようにソファの背もたれで隠れた腰のあたりの肉をぎりぎりとつねる。だから、ドレスに覆われた私の皮膚のあちこちには痣がある。そんな暴力男とはさっさと別れちゃいなよ、と真紀は言うけれども、彼女は全然解っちゃいないなって思う。確かに美樹生は、時々、私を痛めつける。でも、それは、その後で私を極楽に連れて行ってくれるためなのだ。前に、たったひとりの身内であった母が死んだ時、私は打ちひしがれた。美樹生は、背中をさすってくれた。そして、何度も何度もこう言った。「そんなに愛してたんなら、母ちゃんは死んでも、ビアンカの愛は死なないよ。死んだら、母ちゃんは母ちゃんのままじゃないんだよ。幸せな空気とかになるんだよ!」以来、私は、幸せな瞬間にだけ深呼吸をするようになった。母を取り込んでいたのだ。幸か不幸か、彼のせいで、私の語彙は着々と増えて行くのである。この間は、愁嘆場という言葉を覚えた。新しく店に入った女の子が、美樹生と私の深い仲を知らずに、彼とやったと吹聴したのだ。やった、だって! 何という下品な言い方だろう。しかもたいしたことなかった、なんて言い放った。(また明日へ続きます……)
→Nature Life(
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投稿者: サイト(Nature Life )の作者
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