昨日の続きです。
(母は)しょっちゅう、何かに怯(おび)えているような素振りを見せた。かと思うと、驚くほどふてぶてしい態度で他人に接し、そして、すぐ後で、そうしてしまった自分の振る舞いを気に病むのである。(中略)
第三章
〈母・琴音〉
執拗にくり返される父の暴力に、歯が割れてしまうほど食い縛って耐えていた母。その姿をただ呆然と見詰めるしかなかった私は、あまりにつらくなると、パン屋で店番をしていた信次郎さんの許に駆け込んだ。(中略)
あんな惨めな母を毎日のように目の当たりにしなくてはならないのなら、いっそ母親なんかいない方が良い、と思っていた。(中略)
しかし、信次郎さんは、パン屋にはならなかった。それどころか、ある日、私が相手をしてもらおうと店を訪れたらいなくなっていた。(中略)
(ある日、琴音と兄がいる前で父は発作を起こし、助けを求めたが、琴音は兄ともに父を見殺しにした。)
〈小さき者たち〉
ふーう、ふーうという苦し気な萌音の呼吸は止(や)むことがありません。桃太は、やっとの思いで彼女の側まで行き、床に落ちていた厚目の紙を団扇(うちわ)代わりにしてあおいでやりました。(中略)
〈娘・蓮音〉
「どーして、こんなにも、あの女に似ているんだ」
「まーったく、やることなすこと、あいつにそっくりだな」
「結局、おまえは、母親とおんなじなんだよ」
獄中で、くり返し甦るのは、父の隆史が放ったこういった言葉の数々である。蓮音は、母の琴音が家を出てしまってから、日常的にこの種の言い回しでなじられて来た。(中略)
蓮音に、まずいことをしているな、という自覚があった頃、責任を果たせてないとはいえ、まだかろうじて母親でいられた。それが、あの一日を境にして変わる。たった一日。子供たちのいるマンションに帰らなくてはいけない時刻に、男が言ったのだ。
「まだ、いいじゃん」
その言葉で、一瞬、自分のすべての動きが止まったのを、今なら、はっきりと思い出せる。(中略)
「今日は泊まってけよ」
男の誘いに、おずおずと頷いた。頷いてしまった。何故だろう。たいして好きでもない男だったのに。(中略)
若い女が手っ取り早くキャッシュを手にするなら水商売か風俗に限る、というのは常識だ。子供二人を養わなくてはならない蓮音に選択の余地はなく、風俗店を渡り歩くことになり、やがて、寮の完備した池袋の「マ・シェリ」に辿り着いた。(中略)
第四章
〈母・琴音〉
娘の蓮音が育児放棄をして、二人の子供を死なせてしまった時、その事件を取材しに来た記者にこう言われた。
「あなたも、娘を捨てて出て行ったんじゃないですか?」
「虐待は親から子に連鎖すると言いますからね」(中略)
あの日から五年。信次郎さんと私は、ひっそりと田舎町の片隅で喫茶店を営んで来た。(中略)
「これからは、このノブちゃんが付いているからな。琴音は、何も心配しなくてもいい。おれが、琴音のこと、ちゃーんと見守って、大事にしてやるからな」
そんなことを大人の男から言われた経験はなかった。生まれて初めての心強さが、私の背筋に芯を入れたようだった。(中略)
〈小さき者たち〉
れーじょーちょ、れーじょーちょ、と萌音がうわ言のように呟いています。冷蔵庫のことです。そこには、冷たいジュースやアイスクリームなどが入っている。と彼女は今でも思っているのです。(中略)
〈娘・蓮音〉
(中略)
がんばれば何とかなる、という父の教えは、やがて、がんばってもどうにもならない、という諦めに変化した。そうなってからの蓮音は、どんどん自暴自棄となり、それでも、がんばってつらい顔は見せなかったから、周囲には、明るい投げやりさを獲得したように映った。ある種の男たちが、そのたたずまいに劣情を刺激されるようになるのは時間の問題だった。(中略)
第五章
〈母・琴音〉
(中略)でも、信次郎さんの前で、まるで、セラピーを受けているかのように、私は、恥ずかし気(げ)もなく、愚かな物言いで心の内をさらけ出す。昔、精神科病院に通った頃とは、大きな違いだ。(中略)
(母が連れてきた伸夫に琴音は言った。)
「ノブちゃん、寂しかったら、いつも琴音に言って。私が慰めてやるよ」
「本当かい? 優しいなあ。琴音がそんなふうに言ってくれると、ノブちゃん、また泣けて来ちゃうよ」
「駄目駄目。泣かない泣かない。ノブちゃん、大人なんだから。男なんだから」
人生で一番得意で、一番、愚かしい選択をした瞬間だった。(中略)
(また明日へ続きます……)
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