天童荒太さんの2019年作品『巡礼の家』を読みました。
(前略)
始まりは、むかしむかし、神様が世界を創られて、まだ間もなかった頃のこと。
うちらがいま住んでおるこの辺りには、まだ人間が住んでおらなんだ。
神様のご加護もあって、この世界に人間がどんどん増えるにつれて、いままで未開であった土地にも、生活の場を広げてゆく必要が出てきた。
この辺りは、海はおだやかじゃが、平野が少のうて、すぐに山となり、山は遠くまで連なって、森は深い。人が暮らすのに適しておるかどうか、神様が使いを出された。
空の上から、山や川を、また平野の様子を調べるために、ある雌のサギが選ばれた。(中略)
「人間がここで暮らしていけるようになるまでには、あまりに苦労が多い。苦労をしても、それを癒すものがあればよいが、それらしきものは見当たらない。神様にはあまりいい返事ができそうにない……」(中略)
(アクシデントで傷ついたサギは、そこの土地に温泉が湧いているのを知る。)
サギは神様にそのことを報告し、土地を推薦するも、「欲深い人間のよき手本となる人物を、おりにふれ、お遣わしください」と述べ、重ねて「わたしをあらためてあの土地にお遣わしください。わたしの傷を癒し、生きる力を蘇らせてくれたあの温泉のすぐそばに、小さな庵を作り、人間をはじめ、生き物たちを迎えたいのです」と願った。
「もう二度とわたしの庭には戻れないぞ。それでもよいのか」
神様がお尋ねになった。
「はい。それがわたしの役割だと思います」(中略)
……これが始まりの話。『さぎのや』の始まりじゃ。(中略)
殺した、殺してしまった。わたしは人殺しだ。(中略)
(裸足で逃げる少女・雛歩は足の裏に傷を負い、木に干してあった)手ぬぐいをそれぞれの足に二重に巻いて、強く縛った。(奥深い森に達すると、雨でぬかるんだ坂に足をすべらし、あおむけに倒れ込んだ。)
このままここで死ぬのかもしれない。いいや、それでも……と、投げやりに思った。(中略)
ふと顔に風を感じた雛歩が目を開けると、大型の鳥の姿が見えた。(中略)
不思議な心持ちで見守るうち、鳥の翼は、白い腕となり、羽の先端は、しなやかな指に変わって、少女の両肩にふれた。(中略)
「どうしたんです、こんなところで」(中略)
「帰る場所はありますか」
「え……」(中略)
少女は泣きたくなった。叫びたくなった。
だが、できたのは、わずかに首を横に振ることだけだった。(中略)
(目が覚めると、雛歩は部屋の中に敷かれた布団に寝かされ、二十歳くらいにおもえる女性が隣にいた。)
「わたしの名前は、こまき。ひらがなで、こ・ま・き。看護婦の卵。じゃあ、もう少し寝てて。まだ午前三時だから」(中略)
人の声が遠くに聞こえる。
笑っているわけではないが、明るく弾んだ声だ。一人や二人ではなく、何人もの声が行き交っている。(中略)
(そこで部屋に入ってきた三十歳前後の女性は)「わたしは、カリンと言います。欲しいものがあったら、何でも言ってくださいね」(中略)
だが、眠くてすぐに目を閉じる。(中略)
がたん、と何かが落ちたらしい音がして、目が覚める。
ファンシーケースの前にいる女性が、本を拾って机の上に戻している。
こまき、と名乗った女性が、トレーニングウェア姿で、こちらを振り向く。
「あ、ごめん。起こしちゃった」(中略)
トイレに行きたい。でも、からだがまったく動いてくれそうにない。(中略)
「わかってる。トイレでしょ?」(中略)
そのとき、ドアの外で誰かが節をつけてお経を唱えているらしい声が聞こえた。
「あ、ヒロだ。ちょうどいい。ヒロっ(中略)私の部屋に来て。お願いがあるの。昨日運ばれてきた子」
「ああ、ミトさんが助けた子?」
こまきさんにつづいて、おしゃれなスーツを着た若い男性が入ってきた。その顔を見て、雛歩は動揺し、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「足を怪我してて、まだ歩くのが難しいみたい。トイレまで運んであげてくれない?」
「いいよ」(中略)
「おれは飛ぶって字に、朗らかで飛朗(ひろ)。ヒナホってどんな字を書くの?」
「あ、鳥の雛が、歩く、です」
何も考えずに、雛歩は答えていた。でも、
「苗字は、なんて言うの」
と問われたとき、自分の犯した罪を思い出した。もしかしたら、警察から指名手配されているのかもしれない。(中略)
飛朗さんは、気にする様子もなく、廊下の突き当りを右に曲がったあと、すぐに左に折れて、二つ並んだドアの手前で足を止めた。(中略)
「あの……ここは、なんてところですか。どういう場所なんですか」
こまきさんは、楽しそうに笑みを浮かべて言った。
「あなたを助けた人に訊いてみて」
(明日へ続きます……)

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