よく人に「フカミさんは忙しいのにCD聴いたりレコード聴いたりしてますね」とか言われるが、TV全く見なければできます。オレ、ほとんどTV見ないんです。ドラマとかサッパリ。有名な女優さんとか男優さんとか知りません、実は。よほど有名じゃないと知りません。TVで見るのはニュースぐらい。朝のワイドショーを準備しながら見てて、あと日曜昼に再放送してる「なんでも鑑定団」くらいですよ、見てるのは。
で、この間会社に行こうと国立競技場駅を出てトボトボ歩いてたらTVの撮影をしてまして、フーン、と思ってチラ見したらそんなTV見ないオレでも「おお、この人はなんとなく知ってるわ」という女優さんがいらっしゃって、でも名前が思い出せなくて、スタッフの人が「医龍」の台本持っててはじめて、ああ、ドラマ医龍に出てる人なんだー、とわかった次第です。それでも名前わかりません。HPで調べてみりゃすぐわかるけど、あんまり興味が無いので、ね。
で、パソコンしながらCDとかレコードは聴く、と。でもさすがにDVDはねえ、時間とられるよね。だから買ってもなかなか見れずに溜まってるんだな、DVDが。
日曜の昼、ようやく「ノー・ディレクション・ホーム」を見終わりました。ボブディランの66年までを追ったドキュメンタリーですな。いやー、これは秀逸。ホントによくできてる。最初は貴重映像とかに目が奪われるんだけども、話にはまっていったらそんな映像も添え物でしかない。ディランの歴史をある程度知ってても知らなくても興味がちょっとでもあったなら、きっとストーリーに釘付けになることでしょうなあ。
フォークムーブメントの中心として脚光を浴びていくディランだけど、大学に行くまでフォークなんてほとんど聴いてなくて、影響は受けつつも自己表現としてフォークを当時選んだだけなのね。だから65年以降エレクトリックに転じ、大ブーイングを浴びても、元々フォークに一生身をゆだねる気がさらさらない(思ってもいない)だろうから「ちょ、ちょっと、ブーイングされてもさあ」みたいな気持ちなんだな。したたかな吟遊詩人、シンガーソングライター、それがディラン。みうらじゅんは「ロックである」というけれど、ロックですらない。
今ディランはセットリストを(ある程度は決め曲があるにせよ)気ままに変えて歌うライヴを行ってますが、これが「フェアウェル」という名の下に行われているその理由がこのDVDを見るとよくわかる。アルバムを作り、そのプロモツアーを行う、といったルーティンじゃなくて、自分の曲を好きな時に好きなスタイルで歌うことしかしたくないのでしょう。それをもう残りの人生ではやっていきますよ、と。それがノーディレクションホームと歌う男の最終的な家探しの方法なんだろうね。
元々そうしたかったが、世間はなんらかのレッテルをつけないと取り上げにくいし、安心できないわけで。そんな安心できない市井の人々がこの作品の後半でゾロゾロ出てきてみっともない姿を晒す。エレクトリックに転じたディランを偉そうに批判した人達は一体今どうしてるんだろうね。
ウッドストックでもワイト島でもこういったみっともない人たちがいっぱい出てくるね。こういったシーンを「そういう時代だった」みたいな書き方で過去のものにしてる論評がよくあるけれども、そうなのかなあ。
いや、形は変わってるとはいえ、本質はこの時代も今もなんら変わってないんじゃないの?人を批判するけど、間違っていても謝ることができない人たち。要求はするけど、それで発生する義務を果たそうとしない人たち。いや、僕もそういう発言をして赤面したことも多いけれども、こういうシーンを見るたびに、「言えばいいってもんじゃないよなー」とか「発言には気をつけないとアカンわなー」とか思うよ、ウン。
言えばいいってもんじゃない。書けばいいってもんじゃないよね、ホント。
ディランは言いたいように言って、書きたいように書いたけど、その代償としてドでかい義務を背負うことになる。時代背景も今に比べてずっとハードだけれども、その時代背景の重要なひとつとしてディランは取り上げられてしまったわけで。並の人間なら精神衰弱になってしまいそうなあれこれをゲットファッキンラウド!と叫びつつしたたかに乗り越えていく。本当の時代の寵児というのは精神的に強くないとやっていけないものだよなあ。物語の後半はそんなことをぼんやり思いつつ。
3時間半弱楽しみつつ見終わりました、ノー・ディレクション・ホーム。
今日は久々ちょいとゆっくりできてていい感じ。さて、風呂に入って残りの時間読書でもしますかな。

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