おめでとうMETRO20周年!!
えー、京都のCLUB METROが今年の11月でオープン20周年を迎えるそうでございます。
大変めでたい!そして20年経ったのかーと感慨深い気持ちになりますね。
もう東京に来てから6年になるんだけど、それでも未だに僕が京都の人みたいに未だに言われたりするのも京都での生活が濃厚だったから、でありましょう。そしてその濃厚さはほとんどMETROとともにありました。
大型レコードチェーン店の中の滋賀県大津の配属になり、大津に住むのもなんだよなあ、と思って京都に住み、当時CDをリリースし出したMONDO GROSSOやKYOTO JAZZ MASSIVEのイベントを見に行ったことがMETROとの出会いでしたかね。それまでクラブというものに何らかの偏見(まーなんていいますか、いわゆる今の言葉で言うと『
リア充』(笑)みたいなものを感じていたんですなあ、クラブに行く人に)を持っていたりもしてたんですが、何度か行くうちにそんなことも思わなくなりましたね。それはMETROがクラブであってクラブでない、もっと大きな括りで何かをしようとしている場所だったから、ということもあります。
そのうちひょんなことからDJとしてMETROと関わるようになって。何度かイベントに出してもらってからいきなり80年代の曲をかけるイベントをやろう、ということになって、DJとして誘われたんですなあ。それが今でも続いているCLUB80'sの始まり。
当時、80年代ブームなんてきてなくて、80年代のヒット曲が最もダサい、と言われていた時代。そのリスクで遊んじゃえ!というイベントだったんですよ、80's。ダサさを極める、というイベント(笑)。しかしそれがあんなにお客さんがきたんだもんなあ(最盛期平日で200人以上集客しておりました)。
そのCLUB 80'Sと平行して小西康陽さんやFANTASTIC PLASTIC MACHINE田中さんのイベントにも出してもらえるようになって。だんだん世の中がブレイクビーツやハッピーなダンスグルーヴを欲するようになっていたんですね。僕もそういったロッキンブレイクやハッピーなダンスビートを好んで買っていた時期でした。ほんとに楽しかったなあ、あの時期のDJイベント。お客さんもオシャレで華やかで。
そんなDJとしてMETROに出入りしながら、METROでライヴイベントもやらせていただきました。90年代後半、京都の若手ミュージシャンと出会い、その活動の場所のひとつとしてMETROでイベントをさせていただいて。
くるりの初めてのワンマンは京都METROだし、キセルもつじあやのちゃんも活動の最初期、METROでライヴをしました。ママスタジヲもチェインズも、その他たくさんのミュージシャンがMETROのステージを踏んでいます。あまり自分では使わない言葉ですが、当時言われていた「京都系」というムーブメントのライヴハウスとしての本拠地が拾得、磔磔、そしてMETROの3つだったと僕は認識しております。
僕はお客さんとして見に行っていましたが、いわゆるエレクトロニカや音響、ダブ、そういったものにもMETROは積極的に場所を開放し、綿々と続く京都アンダーグラウンドシーンを継ぐ場所としてもMETROは機能していると思います。
僕が去った後もたくさんのライヴイベントが行われており、METROはクラブであって単なるクラブじゃない、ライヴもできる場所として現在も認知されていることでしょう。
そして現在では講座や上映会など音楽から離れたイベントも行われていますよね。
幅広い何かを表現できる場所なんですよ、METROは。クラブであってやっぱりいわゆるクラブから逸脱してる場所なんですなあ。
とまあ長々と書いておりますが、本当にMETROがあったから僕はたくさんのことを学び、出会い、今こうなっている、と(笑)。一度僕は当時のレコード店の転勤で東京に住んだことがありますが、わずか半年でその会社を辞めてふたたび京都に戻ってきた理由のひとつが「METROで遣り残したことがいっぱいあるから」だったのです。これホント。
もし昔に戻ることが出来るならどの時代に戻りたい?なんて話をしたりすることがあるなら間違いなく僕は23歳のMETROに行き始めた頃の京都に戻りたい、というでしょう。
twitterでOUR HOURの松村君が書いていましたが、「ある時期のメトロはここが世界の最新だろうなと思ったし事実そうだったと思う。」という意見に僕は深く頷くのですが、同時にいやいや、まだいけるんじゃねえの?京都、とも思うのです。だから、METROにはまだまだ丸太町に在ってもらわなくては困る。まだたった20年でしょうよ(笑)。
だからね、林君、まだ甘いよ。まだまだラメ服着てもらわないと困るんだわ(笑)。
これからもMETRO、末永く続きますように!

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