我ら夫婦がうどん人なことは何度か書いて来た。
さぬき、というある種特別なうどん文化を形作る聖地にいつか行きたいと思っている事も書いた。
しかし、ここ群馬県にも、日本三大うどんの一角を担う聖地が存在する。
人は「讃岐うどんー香川県讃岐地方」「稲庭うどんー秋田県稲川町」そして「水沢うどんー群馬県渋川市(旧伊香保町水沢地区)」この3つを日本三大うどんと呼ぶ。
水沢うどんの歴史は深い。
一応、約400年前から、水澤寺にお参りに来た人々に、この地でとれた良質の小麦粉と寺に湧き出る御神水で作ったうどんをふるまった、というのが起源、ということになっている。
ちょっとまってくれ。400年前ってことは1600年頃。江戸時代の始まりが1603年とされているから、ちょうど江戸幕府が始まった頃と重なる。
讃岐うどんは、弘法大師が伝えた、と言われている。
弘法大師、つまり空海は、804年に遣唐使として唐、つまり中国へ渡った。そこから持ち帰ったのが小麦粉でつくる「うどん」という食べ物だ、というのが一応通説になっているようだ。
水澤寺は天台宗の寺だ。つまり、最澄(さいちょう)の教えを元にしている。
子供の頃、「最澄と空海」のフレーズで覚えたのではなかったか。
調べてみると、最澄と空海は、同じ時期に遣唐使として派遣され、最澄の方が格がずっと上だった。最澄が天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されていた時、空海はまだ無名の存在であった。
空海、つまり弘法大師がうどんを持ち帰ったのなら、遣唐使で同じような環境(食)を味わった最澄も、うどんという食べ物を日本に持ち帰ったとしてもおかしくはない。
最澄の教え、つまり天台宗の寺である水澤寺に、うどんが伝わっていたとしてもおかしくはないのだ。
すると、弘法大師が伝えた讃岐うどん、最澄が伝えた流れの水沢うどん、という構図が浮かび上がる。
同じうどんでも、伝えた人が違えば、微妙に違う食べ物になるのはうなずける。
そしてこの2人が伝えてから、水沢うどんが自らが言う起源、400年前、つまり1600年頃までには、実に800年近い時が流れている。
私個人の、勝手な考察を書いたが、これは正式なものではない。あくまでも想像であるが、実に面白いではないか。
私が食べた水沢うどんは、水澤亭という店のものだった。何故13軒もあるうどんストリートの中から水澤亭を選んだか、ということだが、この店だけが、うどんのおかわり自由、つまり食べ放題をやっているからだ(笑)
水沢うどん、というのは、讃岐うどんと比べて、明らかに値段が高い。さぬきうどんが庶民の食べ物として独特の文化を形作っているとすれば、水沢うどんは明らかに高級品だ。他の歴史のある名店で食べるのが筋かもしれないが、高い値段を出して全然足らないのでは腹の虫が収まらない。なので食べ放題が出来る、というのは大変有り難い。
写真の内容で1050円。これで食べ放題なら、讃岐うどんの大を2杯食べるよりも安いのかもしれない。
肝心のお味の方は、実に美味であった。
讃岐うどんのような、あのゴムのような(と書くのも間違いなのかもしれないが)、独特のコシは無いかもしれない。
でも、コシは確かにある。コシの種類、定義が違う、としか言いようがない。
そしてつるっとしたのど越し。実に気持ちのいいのど越しなのだ。
先に書いたように、同じ食べ物を、最澄と空海、という、歴史上の人物が別々に伝え、時の流れの中で今の形になったとすれば、実に納得が行く。
天皇直属の偉い人だった最澄が伝えた水沢うどんが高級品として今に伝わり、当時まだ無名だった空海、後の弘法大師が伝えた讃岐うどんが庶民の味となった、と考えるとこれまた興味深い。
群馬の富岡製糸場跡や、六合村の養蚕農家が、世界遺産の暫定リストに乗ったという話題は記憶に新しい。
しかし、讃岐うどん、水沢うどん、双方とも、現存する貴重な「食」の遺産なのではないだろうか。

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