2019/7/31  1:37

あたい、スジャータ二号!わがままな奴って。  

あたい、スジャータ!

わがままな奴の特徴って、常に自分が中心ってことさ。
自分が楽しけりゃ、自分が満足できればそれでいいのさ。
他人のことを喜ぶってことはできないのさ。

わがままな親って、子供のことを喜ぶことができないんだ。
自分が嬉しけりゃ、それでいいのさ。
遠方の子供が遊びに来ても、自分が嬉しいということだけを主張して、子供が成長したなんてことは喜びもしないのさ。
病気の子供が回復しても、自分は安心したということばかりを口にして、子供が苦しみから立ち直ったこと、子供が健康になったことを無視するのさ。

わがままな奴って、自分の感情ばかり追求するのさ。
他人にも感情があるということを知らないのさ。
他人に目を向けようとしないのさ。
世の中のもの全てが自分の感情で動くと、そうあるべきだと思っているのさ。

わがままな奴の世界は、とてもとても狭いよ。
自分中心のものの見方のせいで、自分で自分の世界を狭めていることを知らないんだよな。


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2019/7/30  0:57

僕、ジョシュエ!自分で動くんだ。  

僕、ジョシュエ!

嫌なことが起きた時、誰が悪いなんて悪者探ししていてもらちが明かないよ。
自分が悪いなんて自分を責めていても、同じようにらちが明かないよ。
湧き上がってくる感情は感情として、怒りが出てきても当然だと捉えて、その感情を横に置くんだ。
そして、どう対処したら一番いいのかを考えるんだ。

一人でイライラしていたって、焦ったって、誰かに不満を打ち明けたって、文句を言ったって、物事の解決にはつながらないんだ。

感情が強い時は、その感情を減らすことを考えるんだ。
一人で感情を減らすことができなければ、誰かに愚痴ったり腹立ちを口にすることで、感情は少し減るかもしれないよ。
落ち込んでいたら、誰かに慰めてもらうのが良いかもしれないよ。
でも、最終的には他人の手助けから離れて、自分で行動するしかないんだ。
感情を減らすと、左脳の理性的思考力を使うことができるようになるからね。

感情から離れることができたら、自分で考えて、そこにある問題、そこにある現実に立ち向かうんだ。
小さなことからでも、始めるんだ。
自分で考えて動くことが、何よりも大切だと、僕、考えているんだ。


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2019/7/29  0:00

わしゃ、ボナじゃ〜!奇跡なんじゃ。  

わしゃ、ボナじゃ〜!

当たり前のことだと思っていることって、実は奇跡なんじゃ。
ご飯を食べ、眠ることができるのが当たり前だと思っていたって、実はそれは奇跡なんじゃ。
呼吸をし、心臓が動いていることだって、奇跡なんじゃ。
生きていることだって、それ自体が奇跡なんじゃ。

生きて今ここに存在していることって、ちょっとした何かが生じたら崩れてしまうんじゃ。
何らかの事故や天災、病気などがあれば、本能的に生き続けようとする歯車が狂ってしまうんじゃ。

誰かに出会うことだって、奇跡なんじゃ。
この広い世界でその人に巡り会うことだって、奇跡なんじゃ。
一期一会だって、そのチャンスに巡り会うことは、大きな奇跡なんじゃ。

自分の身の回りに生じること、楽しい事でも嫌な事でも、それを経験し、感じることって、奇跡的なことなんじゃ。

わし、自分の猫生を考えれば考えるほど、自分が存在していることが奇跡だと、自分を超える何か大きなものを想定して、感謝したくなるんじゃ。


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2019/7/28  5:18

僕、ギズモ!分かった気になるって。  

僕、ギズモ!

誰かと話していたり、誰かとコミュニケーションを取ろうとしたりする時に、何となく相手のことが分かった気になることってあるよね。
自分の子供のことだから、自分の家族のことだから、長年付き合っている友人だからなんて思って、相手のことを分かった気になることってあるよね。
相手の気持ちが分かったような気になったり、相手の考えが分かったような気になることってあるよね。
だけど、分かった気になるって、恐ろしいことだよ。

分かった気になるって、ただの想像なんだよ。
自分の言語の範疇や自分の経験の範疇に、相手を当てはめようとしているだけなんだよ。
自分の想像できるものの中に相手を引きずり込もうとしているだけなんだよ。

どんな人だって、各々異なるんだよ。
言葉、単語の示すことだって、その人の育った場所などによって違いが出てくるんだよ。
「りんご」というもの一つ取り上げても、赤いりんごをイメージする人や青いりんごをイメージする人がいるんだよ。日本のりんごは大きくて皮が厚いけど、ヨーロッパのりんごは皮が薄くて小ぶりなんだよ。
また、経験によって、同じように見えてもその人その人で違いがあるんだ。
「疲れた」という様子でも、子供と大人では疲労の深さや疲労からの回復具合が違うんだよ。

僕、分かった気になるって、共依存の可能性を疑うんだ。
個人個人の違いを無視することだからね。
そして、分かった気になったら、相手を理解しようとする努力をそこで終えてしまうからね。

個人個人違うから、分かった気になっても、自分との違いを理解しようとする努力を怠ってはいけないと、僕、考えているんだ。


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2019/7/27  1:32

俺、ウィンウィン二世!俺、考えている。  

俺、ウィンウィン!

うちのお母さんは、今、生まれ故郷の函館にいるんだ。
今日は、去年の7月29日に帰天したうちのお母さんの母親の納骨の日なんだ。
午前9時から教会でミサがあり、その後神父さんと親しい人達数人とで墓地に行き、納骨をするんだ。
カトリックでは、死ぬ間際に「病者の塗油」という秘蹟を受けるように勧められているんだ。
だが、函館では神父さんが不足し、日曜日のミサの最中だというので手が空かず、うちのお母さんの母親の死に際しては間に合わなかった。
うちのお母さんの母親の死の一時間ほど後に、ようやく神父さんが駆けつけて来てくれ、死体に秘蹟を施してくれた。
今日は、神父さんが墓地に来てくれるので、うちのお母さんはなんとなくほっとしているようなんだ。

この一年間、うちのお母さんは、母親の臨終の姿を何度も思い浮かべている。
また、母親の死の数日後に帰天した恩師の死に顔も思い出しているんだ。

うちのお母さんの母親は、急性骨髄性白血病で、本当に急に死んだんだ。
あと数日の命だと突然病院から連絡があり、次の日どうにか飛行機の座席を抑え、東京から函館に向かったんだ。
病院に行くと、母親の?や耳たぶには、紫の斑点があった。
全身の力が抜け、ベッドの上で寝返りを打つこともできず、唯一力を込めることができる両腕で、ベッドの柵にしがみつき、鼻から酸素チューブを入れられていたんだ。
それでも呼吸が苦しいので、少しでも楽になるようにと、ベッドの柵にしがみついていたようなんだ。
うちのお母さんが病室に入ると、「なんで、あなたが帰って来たの?」と、うちのお母さんに言い、自分が死ぬことを理解しているような、していないような姿だったんだ。
それから4時間ほど、うちのお母さんは母親の手を握りながら、互いになんと言うことない話をしていたんだ。
食欲がないのかほとんど食べることのできなかった夕食の後に、かつて一緒に行ったヨーロッパの美術館の話を二人で語り合ったんだ。
パリのオランジュリー、印象派美術館の話になった時、うちのお母さんの母親は、モネの『睡蓮』の連作のことで熱弁を振るい出した。
「あなたの習ったベジノ先生の言う通り、睡蓮はキリストの復活の象徴かもしれないわ。静かに眠ったようにしていても、朝になるとポンと花が開くのよ。私は若い頃五稜郭公園の堀の睡蓮をよく見ていたけど、夜静かに眠っている睡蓮は、朝になると蘇るのよね。」
そんな話をしながら、うちのお母さんの母親は、うちのお母さんの両手を力強く握った。
まもなく死ぬだろう人間なのにこんなに力があるのかと、うちのお母さんは驚いた。
そして、うちのお母さんは病院の近くのホテルに泊まったんだ。
次の日の朝、危篤だと言う電話で病院に急ぐと、そこには前日とは打って変わった母親の姿があった。
昨日力強かったその手は冷たく、自ら動くことはなかった。
意識を失うことで、臨終の苦しみを感じずにいるのかもしれない。
腹の筋肉に力を入れて呼吸をしているのか、仰向けの姿で、胸と腹が波打つように動き、口を開き、必死で生にしがみついているような姿があった。
腹と胸の動きがだんだんゆっくりになり、不規則な動きになり、最後には口から舌を突き出して、息を吐くことの反動で酸素を吸い込もうとしているようだった。
三角に強く突き出した舌は、右半分が紫色だった。
これは、その数日前に東京で死を看取った猫と同じ状態だった。
二度目に半分紫の舌を突き出し、その舌がゆっくりと口の中に戻った時、看護婦さんがやってきた。
「心停止です。」
その三分後に医者がやって来て、心臓に軽く聴診器を当てただけで、死を宣告した。
医者も看護師も死に立ち合わず、モニターを別の部屋で見つめ、死ぬのを待っていたようだった。
死を看取るが嫌なのかと、死体に触れるのが嫌なのかと、死の判定を機械に頼っているのかとうちのお母さんは感じていた。
遺体を本人の所属していたカトリック教会に運び、死後四時間ほどで納棺したが、遺体の腹は死んだ直後より5センチほど盛り上がっていた。
脾臓や肝臓が腫れて腐敗し始めたのかと、うちのお母さんは思いながら、納棺師の動きを見つめていた。
納棺後に来てくださった人達は、「安らかな良いお顔で天国にいらしたのね。」と言ってくださったが、うちのお母さんは、筋肉が弛緩し始めただけではないかと思っていた。
その一週間も経たないうちに、うちのお母さんが東京に戻ったその日に恩師が亡くなった。
葬儀ミサの時に棺桶に横たわった恩師は、とてもいい顔をしていた。
うちのお母さんは、これが臨終の戦い、肉体が死に打ち勝とうと、生にしがみついて戦った後の死を受け入れた肉体の表情かと感じていた。
残された者達は、死者の姿に 安らぎをを求めることで自分達の安心を図っているのとかと、本音では死者の安らぎではなく、自分達の死の恐怖を打ち消そうとして安らぎを求めているのかと、うちのお母さんは考えていた。

死者を看取るのは、怖ろしいことかもしれない。
どんな人でも、生存本能に反することを眺めるのは、恐怖を刺激することではないだろうか。
で、生きているものは、生存本能に反する恐怖を刺激されないように常に行動し、自分の恐怖を隠そうとしているのではないだろうか。
泣き騒いだりすることで、自分の恐怖を忘れようとしているのではないだろうか。
うちのお母さんのように冷静な顔をしていても、それは恐怖から離れようとしているだけかもしれない。

生きている者達の行動や感情は、常に死の恐怖を忘れようと、隠そうとしているのかもしれない。
行動することで自分の生を確認し、泣いたり怒ったり笑ったりなどの感情で、恐怖から離れようとしているのかもしれない。
宗教や霊能者やスピリチュアリズムなどにすがることで、現実にあるもの、恐怖を忘れようとしているのかもしれない。

このように語っていくと、本能的な恐怖、死の恐怖を忘れようとすることは現実逃避ということになってしまうかもしれないが、俺、無意識の恐怖があるからこそ、そこに生の営みがあると考えている。
自分の生の時間の限界を無意識に感じているからこそ、生きることを表現しようとしているのではないだろうか。
で、死の恐怖を自覚したら、なおさら素晴らしい生の営みが展開されるのではないだろうか。

俺、いつか自分が死ぬことを自覚している。
で、その間に何ができるかを考えている。
とはいえ、本能的な死の恐怖が何のためにあるのか、俺にはまだ結論が出せない。
生物には無駄なものは一つもないのだから、不要なものは自然淘汰、退化していくのだから、死の恐怖は、何らかの意味を持っているのであろう。
俺、これから、このことについてずっと考えていかなければいけないような気がしている。


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2019/7/26  8:07

あたし、シュエット!自分で行動するの。  

あたし、シュエット!

自分は何がしたい、何が欲しいと自分の欲求ばかり口にしているのって、子供の態度よ。
自分で動かずに誰かが何かをしてくれるのを待っているようなものよ。
依存的な態度よ。
自分の望みが満たされないからって不満ばっかり口にしているのって、面倒なことを他人にやらせようとする専制君主のようなものよ。
他人は奴隷ではないの。
自分は無力だなんて決めつけて、面倒事から逃げているだけよ。

自分の欲求を満たすのは、自分なの。
誰かにアドバイスを求めたり、誰かに助けてもらったりしても、まず自分で行動しなければいけないの。
面倒なことや嫌なことから逃げていたら、いつまでたっても自分の望みは満たされないの。

棚ぼたを待っていたって、待ちぼうけを食うだけよ。
望みがあるなら、自分から行動するの。
自分の人生を切り拓くのは自分なの。
親に不満を抱いたって、友達に文句を言ったって、家族がどうにかしてくれるのを待っていたって、それじゃ何も始まらないの。

まず、自分で行動するのよ。
自分の人生なの、自分から始めるの。


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2019/7/25  2:06

おいら、シュアン!自分と他人の区別がついていない人って。  

おいら、シュアン!

自分と他人の区別がついていない人って、とんでもないことを言い出したりするど。

「あなたはこの家の家風に合わないから、息子と離婚すべき」、「義理の親と同居しないなんて、息子の嫁にはふさわしくない」なんて言う舅や姑は、自分と息子の区別がついていないんだど。
嫁って、舅や姑の道具じゃないんだど。息子の配偶者だど。
「お前はこの大学に入らなければいけない」、「お前は一流の企業に就職しなければいけない」なんて子供に言う親は、自分の人生と子供の人生が区別できていないんだど。
子供には職業選択の自由、自分で未来を選ぶ自由があるんだど。
家族に限らず、こうしなければいけないと他人のやり方に口を挟む人って、自分と他人の区別がついていないんだど。
自分のやり方は自分のやり方、他人のやり方は他人のやり方なんだど。
押し付けがましい人って、自分の基準を他人に押し付ける人って、自分と他人の区別がついていないんだど。

自分と他人の区別がついていない人って、自分の自由だけを主張し、他人の自由を侵害しているんだど。
こんな奴らは、自立していないんだど。
で、こんな奴らに呑まれいたら、自立できないんだど。


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