2019/8/31  0:02

おいら、ルクルス!嫌なこと、難しいことって。  

おいら、ルクルス!

自分の未来を切り開きたかったら、好きなことや楽なことばかりに偏っていてはいけないよ。
嫌なことにも難しいことにも自ら取り組まなきゃいけない時ってあるんだよ。

例えば、入試のことだけど、自分の希望する学校に入りたかったら、それなりに勉強しなきゃいけないよ。
希望の会社に入りたかったら、嫌でも勉強しなきゃいけないよ。
料理や裁縫などの技術を身に付けたかったら、最初は単調な練習から始めなきゃいけないよ。
ピアノだってつまらない「ハノン」から始めたり、声楽だって歌う前に発声を身に付けなきゃいけないよ。
つまらなくて嫌だと思ったって続けなきゃいけないし、難しいことがあったって乗り越えなきゃいけないよ。
嫌だ、難しいなんて言っていたら、何もできなくなっちゃうよ。
成長がそこで止まってしまうよ。

考え方を変えてみたらいいんだよ。
嫌なことって、楽しいことの始まりなんだよ。
難しいことにぶつかるって、そんな難しいことを克服しようとするのって、新しい楽しみを見つけるための道なんだよ。

おいら、我に七難八苦を与えよとまでは思わないけど、楽なことばかり選んでたら飽きてしまうな気がするんだよ。


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2019/8/30  0:04

わしゃ、ボナ二世じゃ〜!他人に迷惑をかけないようにって。  

わしゃ、ボナヴェントゥーラ、略してボナじゃ〜!

他人に迷惑をかけるのではと恐れてばかりいたら、何もできなくなっちまうのぉ。
じゃが、他人に迷惑をかけるのは構わないなんて思ってしまったら、わがままな子供と同じじゃよ。
他人に迷惑をかけないようにとは、依存から脱して自立する方法の一つではないかと、わし、思うんじゃ。

自分の好きなこと、自分の自由ばかり追求していたら、エゴイストと言われても仕方ないじゃろう。
世の中は、自分一人のものじゃないんじゃよ。
他人と共存しなきゃいけないんじゃ。
そのためにも、他人にも自由を追求したいという気持ちがあるということを知らなければ、いけないんじゃ。
どうしたら互いにぶつからずに生きていけるかを考えるのが、大人と言うものじゃないかのぉ。
互いの自立性を尊重するために、相手に迷惑をかけないようにと自分のエゴイズムを封じるのが、大人のやり方じゃないかのぉ。

自分が楽しければそれでいいんだというのは、他人に依存することになるんじゃよ。
他人の楽しさは自分の楽しさと違うということを知らなければいけないんじゃよ。
他人に迷惑をかけてもどうでもいいんだ、自分さえよければいいんだという大人の顔をした子供が最近増えているようで、わし、苦々しく思っているんじゃがのぉ。


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2019/8/29  2:01

俺、ウィンウィン二世!納骨雑感 その5。  

俺、ウィンウィン!

日本人って、とかく死者を美化しがちじゃないかな。
死んだ人を悪く言ってはいけないと思い込んでいる人って、多いんじゃないかな。
これは、死んだら全ての人が神になるという神道の教えから来ているものかもしれない。
死者の祟りを恐れるという日本独自の発想かもしれない。祟りって言葉は、外国語に訳するのは難しいんだよな。

うちのお母さん、自分の親を美化しないように気をつけているんだが、どうも親の良いことばかり思い出してしまいがちだと言ってるんだ。
うちのお母さん、自分の母親をかつては憎んで怒っていたけど、その感情を通り過ぎた後、恩讐の彼方に母親の良さだけが残ったのかもしれないな。

過去のことを良いものとばかりする人っているけど、それが悪感情を乗り越えた結果だったら構わないだろう。
だが、過去は良かったと言うことで現在目の前にあるものを否定する人もいるんだよな。
これって、世の中の変化についていけない人の自己正当化のようなものではないだろうか。

さて、うちのお母さん、自分の母親の納骨をすませた後、骨だけになった自分の母親を過去のものと捉えようとしている。
で、その過去の上に新たな自分の人生を築いていかなければいけないと考えている。
母親から伝えられた悪いものがあったらそれを手放し、改めていかなければいけないと考えている。
これが、過去を未来に生かすことではないだろうか。

アウシュヴィッツの骨も自分の母親の骨も、一つは同じことを語っているんだ。
死者を美化するよりも、死者から学ぶことが必要だと、俺達に語っているんじゃないかな。


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2019/8/28  0:00

ぼく、ティトゥス二世!納骨雑感 その4。  

ぼく、ティトゥス!

うちのお母さんは、母親と離れて住んでいたんだ。
何かあると実家に帰ることはあったけど、週に最低一度は電話で話をしていたけど、お互いに自分の生活を持っていたんだ。
だから、うちのお母さんは母親が死んだ後もなかなか喪失感を感じることができなかったんだよね。
だから、母親の死後も、今度は電話でこんな話を教えようなんてふと思うことが多かったんだって。
で、そのたびに、母親が死んだことを思い出す羽目になったんだって。
一年以上経った今、うちのお母さんは、ようやく母親の死を実感しているのかもしれないね。

でも、うちのお母さんは、自分の母親と仲が良かったわけじゃないんだ。
ずっと自分の母親を憎んでいたんだ。
その憎しみの原因を探り当てた後、50歳を過ぎてから、ようやく母親を認めることができるようになったんだ。
母親の母乳にステロイドが大量に含まれていたために、母親が毒を飲ませて自分を殺そうとしていると生後一日目に刷り込まれたのが、母親を憎む原因だったんだ。
ステロイドの副作用がよく知られていない時代に起きた今では医療ミスと言われるようなことが原因で、うちのお母さんはずっと母親と不仲だったんだ。

どんな親でも、親というものは子供にとって大きな存在なんだよね。
良い親でも、毒親でも、子供は親に認められて、親に愛されたいという気持ちを抱いて大きくなっていくんだよね。
子供の頃親に愛され、認められ、受け入れられた人は、自分自身を認めることができるように育つけど、親に拒絶された人は、心の中に大きな虚しさを抱いたまま大人になってしまうんだよね。

うちのお母さんの心の中には、母親に拒絶されたという虚しさがいまだに残っているよ。
だけど、それは現実なんだ。
虚しさを完全に埋めることなく母親が死んでしまったということも、現実なんだ。
このように一人残されてしまったという孤独感も、現実なんだ。
現実って、生きていく基盤になるから、認めなければいけないものじゃないのかな。
そんなことを考えながら、うちのお母さんは母親の骨箱が墓の中に入れられるのを眺めていたんだって。

ところで、墓地って、死者を弔ったり、死者を追悼する場所だよね。
だけど、そこは、生きていた人達が死んでしまった、過去の存在になってしまったという現実を生者に突きつける場所でもあるんじゃないかな。
過去の人達を基盤として今の自分が生きているという現実も突きつけてくる場所じゃないかな。

うちのお母さんは、若い頃、パリのペール・ラシェーズ墓地によく行ったんだって。
この墓地はとても古く、広いんだ。
有名人が多数葬られているので、観光地にもなっているよ。
そこに赴くと、パリやフランスの歴史が垣間見えてくるんだって。

今、うちのお母さんの心の中には、一つの墓地があるんだって。
自分の肉親だけではなく、お世話になった方々の墓、人だけではなく過去になってしまった大切なものの墓が、心の中に広がっているんだって。
その墓地に自分が飲み込まれた時が自分の死の時ではないかと、うちのお母さんは、考え始めているんだって。

時間って、この世で生きているもの達にとっては、過去から未来に向けて流れているよね。
この流れは、不可逆的なんだ。
このように時間を眺めると、無常観に苛まれるかもしれないよね。
だけど、ぼく、思うんだ。
この時間は、持続なんだ。
永遠に続いていくダイナミズムなんだ。
そして、ぼく達生き物は、時間という躍動感の中で、生まれ、死んでいくんだ。
寿命という時間の制限を持っていたって、ぼく達の生って、躍動感そのものじゃないのかな。


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2019/8/27  0:00

僕、ツィポール!納骨雑感 その3。  

僕、ツィポール!

うちのお母さんの母親の納骨には、フランス人の神父さんが来てくれたんだ。
そして、その後の食事会にも来てくれたんだ。
うちのお母さんもうちのお父さんもある程度フランス語が話せるので、その神父さんが日本語で伝えにくい事や日本語では分かりにくい事は、フランス語や場合によっては英語やドイツ語、ちょっとばかりヘブライ語を交えて話していたんだ。
その食事会にいらしてくださった他の方々は外国語は不得意なので、うちのお母さんやお父さんは通訳の役割もすることになったんだ。
で、その時うちのお母さんは、通訳って自分を主張しちゃいけないんだってことに、はっと気づいたそうなんだ。
通訳って、他の人達がコミニケーションを取るための道具にならなきゃいけないって気づいたんだって。
他の人達を生かすための道具の一つが通訳じゃないのかな。

自分ばかり主張している人っているよね。
だけど、それじゃ、他の人とのつながりは希薄になるんじゃないのかな。

うちのお母さんの母親は、ずっと小学校の教員をしていたんだ。
小学校の教員って、子供が大人になるためのベースを作る仕事じゃないのかな。
自分を主張するよりも、子供達のための縁の下の力持ちになる仕事じゃないのかな。
子供達の未来を考え、その土台になる役割を担う仕事じゃないのかな。

うちのお母さんの母親は、もし生まれ変わってももう一度教員になりたいと言っていたんだ。
美術の教育の全国大会で授業するために徹夜が続いたことがあっても、いろんなトラブルがあっても、本当に仕事を楽しんでいたんだ。
美術の教員として何度か表彰されたことがあったそうだけど、それよりも生徒が表彰される時の方が嬉しい顔をしていたようなんだ。
子供達の土台になることを楽しんでいたのかもしれないね。

うちのお母さんは、カトリック信者だから、生きていたときの清算がいずれは神の前でなされるだろうと信じているんだ。
だけど、いつか神に慰められるよりも、自分の後に来る世代の土台になれたら、見えない敷石の一枚になれたらと、最近よく考えているみたいだよ。


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2019/8/26  0:00

俺、ウィンウィン二世!納骨雑感 その2。  

俺、ウィンウィン!

うちのお母さんは先月の27日に、去年帰天した自分の母親の納骨を函館で行ったんだ。
参列者は、うちのお母さん、お父さん、カトリックの神父さんを含めて9名。
88歳で亡くなったうちのお母さんの母親の友人、知人は、歩くのがおぼつかなくなっていたり、鬼籍に入っていたりで、本当に親しい方だけが集まってくれたんだ。
納骨の後にフランス料理を食べに行ったけど、なかなか良いなごやかというか楽しい会だったのではと、うちのお母さんは考えているんだ。
もちろん死んだ母親も満足していると確信しているんだ。

ところで、葬式や納骨には、宗教がつきものだよな。
うちのお母さん、お父さん、うちのお母さんの両親は、カトリックなんだ。
キリスト教では亡くなった日を天国での誕生日と考えるから、お花も明るい色を使ったりするんだよな。
仏教では、主に白い菊の花を用いるのと対照的かもしれないな。
だけど、函館の市営墓地の墓には、洗礼名付きのうちのお母さんの親とともに、うちのお母さんの父方の叔母と祖母が戒名付きで入っているんだ。
キリスト教と仏教が一緒になっているんだよな。

人間の間では、宗教が違うと、何らかの違和感や対立が生じたりするのかもしれない。
だけど、俺、思うんだけど、それって、人間のエゴイズムじゃないのかな。
自分の宗教が一番だと勝ち負けをつけたがるエゴイズムじゃないのかな。
人間の手から離れた、神のような存在のレベルでは、どんな宗教であろうと、問題ではないんじゃないかな。
いかに良く生きたか、つまり、いかに自分のエゴイズムから離れて生きることができたかが、あの世で問われるんじゃないのかな。
人間って、幼児期は自己中心的に生きることで個体の保存を狙うけど、大きくなるにつれて種の保存のためにエゴイズムを離れていくんだよな。
エゴイズムをどれだけ離れたかが、その人の成長を示すことになるんじゃないのかな。

俺、自分のエゴイズムから離れ、正しく生きたいと願う人を救う宗教なら、宗教の違いにこだわることはないんじゃないかと考えている。
この世のいざこざをあの世に持ち込むことは不要じゃないかと、俺、考えているんだ。


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2019/8/25  1:20

あたし、アンジェリュス!納骨雑感 その1。  

あたし、アンジェリュス!アンジュ!

先月の27日、うちのお母さんは、去年帰天した自分の母親の納骨をしたの。
函館では骨壷ではなく、白木の箱に直接骨を入れるんだけど、埋葬直前に箱の中を覗いて骨に触れてみると、なかなかしっかりしていたの。
写真では伝わりにくいでしょうけどね。
同じ年齢の人と比較すると骨密度204%だと母親は自慢していたけど、それも尤もかなとうなづいてしまったの。
膝の軟骨はすり減ってゼロ状態だったけど、骨の方は強かったのよね。

母親の骨を眺めながら、うちのお母さんは、ナチスの絶滅収容所で見た骨を思い出していたの。

ナチスの収容所には、二種類あるの。
労働によって囚人を死に至らしめる強制収容所とユダヤ人という種の絶滅を目的とする絶滅収容所があるの。
アウシュヴィッツと一言で言っても、アウシュヴィッツには二つあるの。
他人の身代わりとなったことで有名なコルベ神父のいたのはアウシュヴィッツ1、ユダヤ人絶滅を目的としたアウシュヴィッツ2はビルケナウと呼ばれているの。
この二つは徒歩で行ける距離だけど、別々のものなの。
で、強制収容所はドイツ国内にも、オーストリア、ポーランド、フランスなどにも沢山あったけど、絶滅収容所は人目を忍んでか、ポーランドに6つあっただけなの。アウシュヴィッツ、現地の言葉ではオシヴィエンチムをはじめとして、ベウジェッツ、ソビブール、マイダネク、トレブリンカ、ヘウムノの6つなの。

うちのお母さんは、母親やうちのお父さん、母親の妹と一緒に何度か絶滅収容所に赴いたことがあるけど、そこで亡くなった人達の骨と今手にしている骨箱に入った母親の骨とを思わず比較していたの。
苦しみや飢餓、銃殺などで亡くなった人達の骨と、一応娘に手を握られながら死んだ自分の母親の骨には何も違いがない、どちらも空の手で生まれ、無名の忘却の中に入っていったのだと、ふと思ったの。
この世でどう生きても、何かに執着しても、いずれは忘却の彼方に赴いてしまうの。

それなら、今をどう生きたらいいのかと、骨壷の中の骨は、うちのお母さんに大きな問いを投げかけてきたんですって。
楽しい楽しいとばかり楽しみを追いかけても一生、我慢ばかりしていても一生、人並みにと他人と自分を比べることばっかりしても一生。
生まれてから死ぬまでの時間って、限りがあるの。
それならよく生きるべきではないか、自分で理性的に正しいと判断できる生き方をしたらどうかと、うちのお母さんは考えているの。

これは、答えのない問題。
一生考え続けなければいけない問題。

死ぬまでに答えにたどり着けるかどうかわからないけど、この問題は母親からの大きな遺産じゃないかと、うちのお母さんは考えているの。


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