2006/11/26

歓喜の歌に想うこと  日記

気がつけば11月はずっとblogを更新できずにいました。
その間にもいろいろと書き込みを頂き有難うございました。
私の演奏活動について、気にかけてくださる方々がいらっしゃることを本当に有難く思います。
「第九」は、12月9日に館林、10日に伊勢崎でも歌う予定です。
http://homepage3.nifty.com/tatebayashi_daiku/

ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章、バリトンのO Freunde, nicht diese Töne! で歌い始める「歓喜の歌」は、これまで何百回と歌ってきた、私の歌手人生の中で、一番数多く歌った曲になるのでしょうが、何度歌っても毎回、新鮮な想いがするものです。

一緒に舞台に立つ合唱団の方々の活き活きとした歌声、かけがえのない人生のひとつひとつが、その歌声に凝縮しているようで、私自身、沢山のエネルギーを貰って、何か新しい希望が湧いてくるような気がするのです。
1824年に初演された「第九」は、その後も第二次世界大戦の傷跡から復興する人々を勇気付け、1990年10月の東西ドイ再統一の前年のクリスマスには、東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、当時のソビエト連邦の6ヶ国の有志による混成オーケストラでも演奏されました。“Freude”(歓喜)は“Freiheit”(自由)をもたらす。世界はそんな予感に満ちていました。
けれどもその後も同時多発テロなど、悲惨な事件は後を絶ちません。
それでも万人が喜びや自由や友愛の中で暮らせる日を諦めない願いや意志とともに、「歓喜の歌」が歌い継がれてゆける世の中であってほしいと思います。
そうした智慧や力が私たちひとりひとりの内にあることを、この曲は思い出させてくれるのです。

多田羅さんの羅は「羅針盤」の「羅」と書くのですね。と時々言われます。
もうすぐ12月。過ぎてゆく年と新しい年の間で、自分にとっての音楽や人生の羅針盤について、この時期はやはりより多く考えたくなる季節なのかもしれません。

久しぶりにアランの『幸福論』を開いてみました。
Alain  PROPOS SUR LE BONHEUR (1928年)
アランは言います。
「幸福になるのは、いつだってむづかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えなければならないし、乗り越えられない出来事や手に負えない不幸も必ずある。
悲しみは毒のようなもので、悲しみが居心地のよいときもあろう。見物したり批判している方が楽かもしれない。だがそれでよかったとはいえまい。
誰もが皆、本当は生きることを求めている。死ぬことではないのだ。だから生きている人々を探している。自分に「これでよし」と言える人達、喜びを顔に出している人達を探している。各人が灰の上で泣き真似をする代わりに、自分を活かし、それぞれの薪を火にくべたら、人間の社会は何と明るく素晴らしいものになるだろうか」と。



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