2015/7/20

魔笛 プレトーク -2  公演情報

「魔笛」プレトーク より 続編
2015年7月16日&18日
リンツ州立劇場 ドラマトゥルク ヴォルフガング・ヘンドラー

多くの専門家達は第1幕の「弁者のシーン」で、驚かされる筋の方向転換を説明しようと試みました。私達観客は、夜の女王から最初に聞かされ たように、パミーナはザラストロによって誘拐され、加えて魔法の力を持つ「太陽の輪」さえ奪っていったとの事でしたし、タミーノは、娘を 救い出し、その母親に強大な支配権を取り戻すために選ばれた若者であると。――しかしこのシーンで全てが逆さまになります。パミーナは彼 女自身を母親から守るために保護されただけなのであり、ザラストロは、ヒステリックな女の破壊の意志に対抗して、男性の疾C諒欷郤圓箸キ て登場するのです。では、ザラストロが善人で、夜の女王は悪者なのでしょうか?

思い起こしておかなければならないのは、パミーナは、ザラストロの帝国 に属しているモノスタトスによって危うくレイプされるところでした。そして明らかに良き精霊である三人の童子は、夜の女王側の三人の侍女 達によって紹介され、タミーノをパミーナ救出への道案内をするのです。一方、夜の女王は、パミーナにザラストロを殺すよう命じさえしま す。あたかもある種のイデオロギーに凝り固まったかのようなそれぞれの登場人物を見る限り、「女性の原理」というものが、「男性の支配 権」と同じように、信用するに値しないものに見えます。

演出の宮本亜門氏と衣装の太田雅公まさとも氏は、ザラストロと夜の 女王という二人の権威者に対して、懐疑的な姿勢を表すために、ある風刺的な方法を見つけました。つまり、ザラストロの男性陣には彼らの全 身の中で特に目立つ頭に、知性の象徴としての巨大な脳のカツラをかぶせました。 夜の女王と三人の侍女達の胸には、母親達が彼らの子供達 に対して、偉大なる、しかし時に利己的な愛情を注ぎ込む、あからさまに巨大なシンボルが与えられています。
ただ考える、或いはただ感じるだけではひ とりの人間を捉えるには充分ではありません。「男と女」、「女と男」は、彼らの対立関係の中でさえ、神のごとき融和を作り出すのです。パ ミーナとパパゲーノの二重唱のなかで表現されているように「Bei Männern, welche Liebe fühlen, fehlt auch ein gutes Herze nicht. 愛を感じる男の人たち には正しい心も欠けてはいない。」

勿論、このメッセージは近代のものでもありますが、しかし元々がモー ツァルトの音楽と、シカネーダーの台本に含まれているものです。それでは、本日上演される「魔笛」の何がユニークで、今日的なのでしょう か?
もし、「善と悪」、「偽物と正しいもの」が限定的であれ重要性を失うな ら、「魔笛」物語の筋は、「良き人生」を獲得するための「ゲーム」として読むことが出来ます。
その場合、「良き人生」とは「友情のある人生」(パミーナとパパゲー ノ)であり、「愛のある人生」(タミーノとパミーナ)であり、当然「sexのある人生」(パパゲーノとパパゲーナ)であり ます。そして、全ての人間の本性はその本人の「良き人生」に対し、それなりの道を見つけ出さねばなりません。
モーツァルトのオペラを、より意味のある筋の通ったものとして私達の時 代に伝える為に、場面転換や装置の転換もズームすることさえも、私達のインターネットの世界のように、瞬時にクリックひとつで行えるコン ピューター・ゲームの世界として――Bartek Maciasバルテック・マシアス氏の作り出す、魅惑的な映像世界 を―――皆様にお目に掛けます。

―――モーツァルトは、かつての王様や女王様達がその権力を失った世界 のあとには、そのかわりとして、あらゆる面において思いやりの気持ちと愛によって生きる人々の主権による世界がやってくることを告知して います。――
今回の《魔笛》演出において、未来の宇宙空間に開かれた扉を含むサイエ ンス・フィクションという映画のジャンルから引用されている事によって、この作品の筋書きの幻想的な意味合いが、より強く意識される事と なりました。
今回の《魔笛》では、幾つかの映画の シーンからの引用が行われています。例えばStanley Kubrikスタンリー・ キューブリック又はクーブリック監督の《2001. A Space Odyssey (1968) Odyssee in space 2001年宇宙の旅》、Tim Burtonティム・バートン監督のSFコメデイー《Mars attaksマーズ・アタック!(1996)》(来襲する火星人の巨大な脳が登場する)、Ridley Scottリドリー・スコット監督のSF《Blade Runner(1982)》The Final Cut [2007] by Ridley Scott(2007)等からです。
オペラ「魔笛」が人間性の冒険の旅であり、現代の映画フィルムやインターネット 上の冒険ゲームに比して、先進性においても勝るとも劣らない、偉大な物語である事はあきらかであります。

この「冒険の旅」は、その枠組みを成す短い物語から逸脱して、より深い人間的 な、そして社会的な意味を獲得しています。《魔笛》序曲の間にも私達観客は、私達の現代日常生活中のある状況の目撃者となります。
ごく普通の家庭(父・ 母、三人の息子達、そして祖父の6人家族)が、 社会的不公正によって破壊されたと見えます。父がリストラにあって職を失ったために酒に逃避し、その妻を絶望に陥れた結果、母は家を出て 行ってしまいます。祖父が孫達に買い与えたコンピューター・ゲームのモニターには「誰でもヒーローになれる!」とメッセージが。落ちた ヒーローである父は、そのモニター内の世界に飛び込んでしまいます。そしてモーツァルトの「冒険」が始まります。オペラの中でそれぞれの 家族は、父がタミーノとして、母はパミーナとして、三人の子供達は「童子」として、祖父は弁者として登場します。そしてタミーノとパミー ナが火と水の試練を切り抜けた時、彼らの家族も同じように、新たな生活のスタートラインに立つのです。

最後に一つ指摘しておきたい事:
モーツァルトは、「男と女」の神々しい結 びつきにのみに信頼を置いていた様に一見は見えますが、単にそれだけではなく、登場人物の「身分の高い者」と「身分の低い者」との結びつ きにも信頼を置いていたのです。
それはパミーナとパパゲーノの感動的な二重唱「Bei Männern, welche Liebe fühlen, fehlt auch ein gutes Herze nicht. 愛を感じる男達には、正しい心 も欠けてはいない。」の中に現れているように、「男と女」「精神と教養」「本能と感情」それらが一体となって完璧な理想の人間像を産み出すのだと彼は考えていたので はないでしょうか。 そして全ての物語の内側の登場人物達は ――物語の外側の登場人物も同様に-―― ひとつの経験を分かち合うのです。 つまり「命は、愛によって癒 される事が出来る」とういう経験を。クリックすると元のサイズで表示します
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