中島競馬場(1887年〜1907年)
札幌の歴史は中島公園の変遷をたどれば分かる。こう考えて歴史の勉強を始めてみたが早くも躓いた。皆様に読んでもらうことは諦めて更新しながら勉強を続けたいと、今では思っている。ともかく続けることにした。
初めてのスポーツ施設は中島競馬場(20年存続)である。中島公園内の園路でここだけが直線。行啓通より白鶴橋を渡りこそ中島競馬場の名残。
中島公園の資産と活用を考えるシンポジウムは、笠先生の「中島公園が有する歴史的・文化的資産」の講演から始まった。印象に残ったのは中島競馬場の話。「中島公園に競馬場があったのか」という驚きがあるからだ。
中島競馬場(1887年〜1907年)について、次のように語られている。「当時道庁の北にあった競馬場を中島に移設致したのもダンの手によるものです」。ダンとはエドウィン・ダン、開拓使に雇用され、北海道における畜産業の発展に大きく貢献した明治期のお雇い外国人。
「当時の札幌区が、東京市の造園技術長であった長岡安平に円山と中島の造園計画を、大通逍遥地には植栽設計を依頼して3つ共図面を描いております。
その時の現況図というものが残っております。これを見るとまだ競馬場があり、馬場が鴨々川を2回渡っておりますので、これが現在の白鶴橋と南14条橋になるのではと推測しています」(『ランドスケープシンポジウム2011報告書 2.第1部』より)
さっぽろ文庫『中島公園』に載っている1892年ころの中島遊園地(現中島公園)のイラストには競馬場がある。それを参考に現在の中島公園に重ねて考えてみた。
「南14条橋の位置が今と違うのではないか」
「当時は道幅が狭く、きちんと整備され道路ではなかったのです」
「今の行啓通の南に馬場があったようだね」
「橋の位置を思いっきり下げてみました。南へですね」
当時の馬になったつもりで、明治時代の馬場を今の中島公園で一回り約1kmを歩いてみることにした。
中島体育センターと藻岩山が見える位置から弥彦神社へ、右折して南14条橋、ぐるっと回って白鶴橋、自由広場の西側園路、芝生の広場をぐるっと回って文学館、そしてスタート地点に帰り一周である。
現在の中島体育センター辺りを中心とした右回りコースと推定した。文献によると、札幌の競馬場馬場は右回り、左回り、右回りと変化しているが、中島競馬場の馬場は右回りと書かれている。
弥彦神社辺りで右に回る。競馬場は1907年廃止され、その後1912年に弥彦神社が建立された。右折後、南向きコースで橋を渡る。
「直進して回る所で鴨々川にかかるので橋を架けました」
「一見して橋の向きが違うよ」
「明治時代の話です。道幅は狭いし、今の行啓通とは全く違います」
「なるほど、荷馬車が通れれば充分だからな」
「はっきりしていることは、馬場には橋が2ヶ所あったことです」
西澤果樹園(現在は護国神社がある)辺りを右回りして直線コースへ。この辺までが馬場。ここで反転し直線コースに入る。護国神社を出た位置、行啓通をわたり直線コースで札幌コンサートホール・キタラ方面へ。
中島遊園地に競馬場があったのは1907年まで、100年以上前の話。交通の主役は馬の時代。道路と橋は今とは全く違うし、競馬の役割も違う。今の行啓通辺りから直線。馬が思いっきりスピードを上げて走れるコース。
直線コースで白鶴橋を渡り、更に直進する。現在のキタラは左側に建っている。
「護国神社を出てから突き当たるまで300mくらいあります」
「それで?」
「122年前の馬場の直線コースが、ここに残っているのです」
「なるほど」
「ここに『中島競馬場跡』と記念碑を立てて下さい」
「ものを頼むなら、先ず役職と略歴を言え」
「無職、中島公園近所の住民です。15年住んでますよ」
「よ〜く分った。前向きに検討しよう。前向きにな、意味わかる?」
馬場は右に回り芝生の広場へ。左は札幌コンサートホール・キタラへの園路。ここで右に大きく回り、文学館方面にに向う。
1918年、開道50年北海道博覧会が開かれたとき、園芸館、水産館、林業及鉱業館、その他各地の展示施設などが所狭しと建った場所。1958年には北海道大博覧会が開催され、その跡地に百花園が誕生した。今は撤去されて緑のオープンスペースになり「香りの広場」と名付けられたが余り知られていない。
文学館辺りから直線コースに入り、これが最終コース。弥彦神社方面への直線コース。昔野球場やスポーツセンターがあった広場。中島体育センターを中心に右回りのコースは、これで一周。以上20分くらいで歩いてみた。

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