21日の一般質問(平和都市宣言に関する質問)で、小泉の靖国参拝問題や中山文科相発言を批判し、自治体の平和政策の重要さを訴えた部分が、保守系の議員からも執行部からも好評でした。
日を置いてからも、合併で新しく議員になられた方々からも「いやあんたはよく勉強している」「政治立場は違うが、本当に素晴らしい」とか言われて、まあお世辞半分かとは思いますが、嬉しくなりました。
例によって「笑い」も取りながら、旧来の「左翼」的論調とも一線を画し、地域の歴史や日本の武将も取り上げ、また、周辺諸国の行き過ぎた「反日」政治利用も批判しつつ、主体的な政策判断を求めるもの。
以下、好評部分を転載します。同僚議員実名は伏せました。
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北朝鮮による拉致問題や核開発問題に対処する鍵のひとつは、北朝鮮に経済的・政治的に強い影響力を持っている中国、さらに北朝鮮と同民族でもある韓国との関係と言える。ところが、小泉政権は、強引な戦争で国際社会から度々非難されるアメリカの言うことばかり聞き、大切な周辺諸国とうまくやろうという姿勢が見えない。
小泉首相が参拝しようとしている靖国神社は、1869年に東京招魂社として設立されて以来、祀られているのは戦争で亡くなった軍人とその関係者。ところが軍人や兵士でも全て祀られているわけではない。
たとえば幕末から明治にかけて闘われた維新戦争では、祀られているのは「官軍」の兵士のみである。昨日●●議員が「地元の歴史を大切に」ということで触れられた「米百俵」の長岡藩、その長岡藩の、愛する郷土と人を守ろうと官軍と闘った河井継之介はじめ長岡藩の兵士たちは、祀られていない。この越後や東北地域の兵士たちは、官軍とは対立したにせよ、間違いなく近代日本の発展の礎となったのだが、祀られてはいないのである。
その一方、靖国神社は、日本軍に徴用された朝鮮や台湾の兵士を、その宗教や遺族の意向を無視してまでも、「天皇の赤子」として祀ってきた。これも、海外の兵士たちを天皇の軍隊として精神的な面からも組織し、アジア地域に日本帝国を拡大するためにも必要だったことだからだ。
過日、総務委員会で先輩の○○議員とこの件で議論して、○○議員の御父上が戦争で亡くなり、遺族として靖国に特別の思いがあることをあらためて知った。戦後生まれの私は、その悲しみと深い思いを、心から理解したいと思う。
しかし、靖国のような方法ではなく、戦争の悲しみを共有し、戦争によって命を失った先人を敵味方や兵士民間の区別無く深く追悼する習慣は、沖縄県の平和の礎の例だけでなく、実は歴史上、日本でも世界でも多くの先例がある。たとえば、平重盛、足利尊氏、北条氏時などは、戦死した敵味方の兵士を共に供養し、弔った。元寇や秀吉の朝鮮出兵で死んだモンゴルや朝鮮の兵士は、日本の寺院で祀られている。ヨーロッパにも、古い時代から、敵味方の死者をともに弔うという追悼の伝統がある。
こうした歴史的伝統とは一線を画し、天皇のために闘った兵士だけを祀る事に何かしらの意味があるとすれば、死者を犠牲者としてではなく、「名誉ある戦死」として国家的に「顕彰」し、自国民を「鼓舞する」ことしかありえない。実際、靖国神社は敗戦までそのような形で軍と一体の関係にあった。
だからこそ靖国参拝は、実は、A級戦犯合祀・分祀云々の狭い問題ではない。明確な戦意高揚の装置になってきたがゆえに、そこを公式に参拝することが、仮に小泉首相の真意が別なところにあったとしても、政治的・軍事的な意味を持つ行動として受け取られ猛反発を食らうのは、いわば当然のことである。
そうした問題も理解せず、ただ「個人の信条」を前面に押し出し、歴史の重みや国家の利益を省みない幼稚な論理を譲らない小泉氏は、日本の責任者としての自覚を欠いていると言わなければならない。
また、中山文部科学大臣の発言にも驚いた。同じナカヤマで遺憾である。中山大臣は、「従軍慰安婦」は「当時使われていなかった造語」である、したがっていわゆる「従軍慰安婦」問題を教科書で記述すること自体が誤りであるかのように論点をすり替えている。
「当時使われていなかった」言葉を使用することは、間違いなのか。では「縄文式土器」とか「前方後円墳」とかはどうなるのか。アウストラロピテクス、ピテカントロプス、北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人、クロマニヨン人、エジプト文明、インダス文明、黄河文明、縄文時代、弥生時代、江戸時代、等々。みんな当時使われていなかった言葉だ。
これらを全部教科書から消し去ったら、ほとんど真白な教科書になってしまう。
こういう荒唐無稽なことを真面目で主張する文部大臣を抱える日本の教育の将来も、●●議員とはまた別の意味で、私も本当に心配にならざるを得ない。
一方、日本の立場に対する中国や韓国の反発や反日感情の高まりについても、ある意味当然なところもあるとはいえ、一部の行き過ぎた反日教育が背景にあるのも間違いないと私も思う。しかし、「自分の都合の悪いことは隠して、相手ばかり非難する」と言って中国や韓国の反日教育を批判している人達は、自分の胸にも手に当てる必要がある。日本の国の歴史に誇りがもてるように、多少都合の悪いことは目をつぶれという主張は、あの反日教育・反日暴動と実は表裏一体、鏡の関係でもあるからだ。
こうして、双方の一部の無理解や極端な主張により、それが国家同士の緊張を高めてしまっている中で、だからこそ自治体や民間ベースでの理解・交流や協調関係、緊張緩和が重要だ。
1995年、私はまだ紛争下の旧ユーゴのクロアチアを訪問、セルビアからのロケット弾攻撃を間近に受け、地下シェルターに避難したりした。しかしそういう時でも、対立する国の民間のNGOは、互いに連絡を取り合い、双方の民族主義的な運動の高まりに警鐘を鳴らし続け、多くの犠牲者を実際に救援しサポートし続けてきた。
また、昨日の本会議質問で「(平和宣言が)国策に反する」云々という話もあったが、度々紹介しているように、先の大戦末期の新潟県の畠田知事が、米軍の新潟への原爆投下計画に対し、45年8月10日、内務省の方針に逆らって新潟市民の疎開を決断したことなど、賞賛されこそすれ、国策に逆らったからといって非難される話ではない。沖縄県は、政権与党が支持する現知事の下であっても、県民の安全のため、国の安保政策に対し、堂々物を申している。また、核兵器の開発や臨界前実験を繰り返す超大国アメリカ政府のその足下で、全米の都市で構成される「全米市長会議」は、世界平和市長会議の「緊急行動」を支持する決議を採択した。
軍国主義時代ならいざ知らず、民主主義や地方分権の進む今日にあって、国策もまた市民や地域の観点から常に対象化され、検証されなければならないことは、当然のことだ。
もちろん、形骸化してしまった平和宣言も少なくなく、これまでの宣言への批判ももっともなところがあるが、だからこそ実効性のある宣言を創るべきだ。そういう意味でも、この宣言が単に形式的なものではなく、有効なものとして機能するよう願う立場から質問したい。
(以下略)

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