今日の新聞夕刊各紙・テレビニュース各局で自民党・若林元農相の議員辞職が一斉に報じられている。
参院本会議採決で隣の席の青木議員(退席中)の投票ボタンを代りに押した、という「事件」の責任を取る形。
特に民主党は「民主主義の根幹を崩す」という趣旨で厳しく批判、自民党も辞職やむなしという対応だった。
確かに、国民の負託を受けた議員の投票を、学校の授業の「代返」のごとく、いとも楽々と代りにやってしまうという行為は、非常に重大であることは間違いない。
特に民主党界隈からは、「議会制民主主義の原理が根本から覆る」「国会の自殺行為」「歴史的な汚点」など、最大限の非難のコメントが発せられている。
だが、どうもストンとこない。
不謹慎なコメントかもしれないが、この問題は、形骸化し、馴れ合い化している日本の議会政治から思わず表面化したお間抜けなほころび程度にしか、思えないのである。
地方議会などでも、現在は「議会運営委員会」において、本会議での賛否・採決の手順等はすでに事前にすべて決定されているのが一般的だ(国会では衆参の各「議院運営委員会)。しかも、議会運営委は法制化されてしまっているので、任意機関ではなく、法的な根拠まで持ってしまっている。いわば公的な「根回し」「水面下の打ち合わせ」が公然とおこなわれ、本会議はいっそう「セレモニー」化しているのだ。
市議会議員現職時代、僕は議案や意見書に対する賛否の演説を何度もやった(おそらく、当時の新潟市議会の中で1番目)。自分で言うのも口はばったいが、保革問わず、そして市の執行部も、その内容を高く評価してくれていた。しかし、その内容がどんなに説得力があっても、それを聞いて感激したからと言って、事前の議会運営委で明らかにした議員個人の態度を変更することは原則としてできないことになっているのだ。
つまり、本会議での賛否、採決は、基本的に事前の打ち合わせ通りに、それに沿って再確認する作業、というのが現状なのである。
お互いに切磋琢磨しながら、互いの立場で相互に厳しい批判を交わしつつ、徹底的に議論し、その議論を経て賛否の立場を変更する可能性や緊張感を持った採決が行なわれるわけではない。それが現在の日本の国や地方の議会の姿なのだ。
若林氏はだからこそ、おそらく何の違和感もなく、事前の筋書き通り、いやむしろ事前の筋書きをより完璧に遂行するためにも、隣の空席だった机のボタンを「おお、これは押しておかなければ」と思いながら、実行してしまったのではないか。
そう考えると、これが手続き的にはきわめて重大な問題であるにせよ、「民主主義の根本を揺るがす」と批判できるほど、日本の民主主義のレベルは高いのか、と、問いたい気がするのは僕だけだろうか・・。もちろん、僕には今回の若林氏の行為を弁護するつもりは無いが、問われるべきはむしろ、形骸化した議会のあり方なのではないだろうか。
(ついでに言えば、ボタン投票が導入されたのも比較的最近−と言っても十年以上前だが−のこと。こういう行為が「大問題」だとするなら、本人が着席していなければ投票できないようなシステム設計にしておくことも考えておくべきではなかったのだろうか、とも思うのである。テレビ番組でよくやっている「○○の人はボタンを押して」とかのアンケートなどではないんだから)

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