見解:技術委員会座長 鈴木賢治氏「声明」は無内容で弁明になっていない
2013.2.27 (
2.28加筆(本文中赤字部分))
新潟市議 中山均
(研究者の一人として)
柏崎刈羽原発の安全性を審議する新潟県の技術委員会座長の鈴木賢治氏(新潟大学)が、電力業界から研究費を受け取っていた問題で、県民からの批判に対し、「声明」なるものを2月19日に発表しました。
(各委員の自己申告内容は
こちら)
この「声明」なるもの、無内容で弁明になっていません。
まず、内容を紹介します。
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報道関係 各位
技術委員会の在り方について
1.民主的運営の原則
多様な意見を持つ構成員が同じテーブルに着いて議論することは、民主的運営の原則です。そのため、技術委員会は原子力発電に関係する所属や意見などに係わらず、専門家で構成されるべきです。原子力発電に対する特定の意見や立場の委員を排除することは民主的運営の原則に反します。
2.科学的議論の原則
個人や組織の利益から離れて客観的に事物を議論することが科学の立場です。本技術委員会においても、特定の価値観や組織の立場を離れ、科学的議論をすることが原則となります。
3.外部資金について
委員の共同研究、寄付金などの外部資金は、大学法人と相手法人との契約により大学が資金を受け入れ管理するものであり、社会的に問題はありません(契約書の例)。報道機関においては、「委員が研究費を受け取る」などの誤解を招くことのないようにお願いします。
独法化以降、大学運営交付金の毎年2%削減が続いており、経常経費により教育・研究は限界に来ています。大学における研究は、補助金、共同研究などの外部資金を必要としない大学運営が保証されて、大学の自治と学問の自由が発揮されます。何よりも大学の経常経費の充実が望まれます。
4.原子力研究の広い共同の重要性
人間の福祉と平和に貢献することが科学の使命であり、その達成のために、広く共同することも現代社会では不可欠です。大学、産業界にとらわれず互いの力を共同し、効果的に研究を進めることも必要です。科学の研究の最前線は、まさに総力戦でもあります。もし原子力関係機関が広く大学研究者と共同することを妨げられるならば、ますます狭い範囲に閉ざされ、「原子力村」を助長することになります。
共同研究において問題になるのは、その内容です。大学において戦争や軍事に加担することはあってはなりません。例えば、新潟大学では非核平和宣言を制定し「戦争や軍事を目的とする研究を拒否するために、軍事関係機関やそれに所属する者との共同研究及びそれらからの研究資金の受け入れは行なわず、またその機関に所属する者の教育は行ないません」と平和を守ることを誓っています。
平成25年2月19日
技術委員会座長 鈴木賢治
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一読して、全体的に議論にならないようなことを書いていて、何ら「弁明」になっていません。
以下、論じたいと思います。
1.「研究費は個人でもらっていない」論について
まず、この声明のかなりの分量を費やして書かれている「研究費は大学が管理していて、個人でもらっているわけではない」という部分。
大学や研究機関に籍を置いていた者として、これには失笑を禁じ得ません。こんなことは当たり前のことで、「研究費を自分のポケットに直接入れて遊興費に費やすようなことは無い」というレベルの物で、何も言ったことにはなりません。
あまりにもくだらない弁明ですが、鈴木氏がこれだけの分量を割いているので、あえてこちらも書いておきます。
この種の外部資金研究費は大学が適正に管理しています。これは当然です。しかし、実際の研究費の使途は、鈴木氏側の研究計画と意向に基づき、そして一定額以下ならば鈴木氏側の指定する相手方から物品や役務が提供されることになります(一定額以上の場合、入札なども行なわれる)。つまり、鈴木氏の意思に関係なく研究費が使われるようなことは、ないのです。
鈴木氏の言い分は、クレジットカードで自分の買い物をしながら、「これは私個人が買ったものではない。銀行と信販会社と購入先の会社で適正にお金は管理されている」と言っているようなもので、お金の口座間の流れを説明しているだけで、今回の議論の中では全く何の意味もありません。名前を挙げられた新潟大学の方もとんだことに巻き込まれて迷惑な話でしょう(苦笑)。
こんなことに弁明のかなりの分量を費やすこと自体、(意図的にかどうか)県民からの批判の本質を理解していないことを表わしています。
2.本質的な問題
次に、そもそも論として、県民がこの間指摘してきたのは、資金の流ればかりではありません。鈴木氏が「
日本保全学会」の理事であるという点などです。
この「保全学会」は、なんだかよくわかりにくい名前ですが、「産業設備の長寿命化」を掲げ、「まず原子力産業を取り上げ」ている、とのことです。理事には「産業界(すなわち現在は原子力業界も)」委員が多数籍を置いています(→
こちら参照)。
そしてこの学会は、福島原発事故の徹底検証も終わらない今から、東京電力の過酷事故対策をすでに「妥当であると判断」と結論づけています。さらに、去る1月29日には、「
新安全基準骨子(案)に対する規制委員会殿への確認」とする文書を公表し、規制委員会に対し、事実上「甘い基準にせよ」という内容の文書を提言しています。
こうした活動を行なっている学会の理事が、「中立・公正」であるべき、そして県民の命と財産を守るということが使命である県が設置する技術委員会の座長として適格なのか、大きな疑問です。この本質論に、「声明」は一言も答えていません(意図的にはぐらかしているのか)。
3.新潟県側には「利益相反」事項をどのように扱うのか、全く指針も哲学も無く、座長には問題意識も無い
この技術委員会委員の「自己申告」は、昨年6月の県議会の指摘に基づき、今回初めて調査・公開されました。
しかし、鈴木氏自身も共同研究や外部資金のことを言うなら本来よくわかっているはずですが、近年、研究機関や各種審議会での「利益相反」(資金提供が公正な判断をゆがめたり、その懸念が生じたりする状態。広義には、その可能性を含む事項)事項のマネージメントは重要な課題になっています。
それは、研究や審議委員会の議論が企業や利益団体の論理に影響されないようにするためです。通常、この種の審議会や委員会の場合や共同研究を開始する場合には、その時点で利益相反の可能性のある事項について自己申告(過去の研究費受託や寄付金なっども含め)し、そしてそれが公開されるのが一般的です。
その意味では、県の技術委員会はそのような体制になっていなかった。過去の研究費や寄付金も、今回の調査対象となっておらず、系統的には明らかにされていません。まず、過去の経緯も含めて申告・公開されるべきです。
また、利益相反事項の公開は、議論のバックグランドを明らかにするためということが大きな目的ですが、それだけでなく、この情報に基づき、具体的なマネージメントがなされるべきです。
例えば、
1月25日付の毎日新聞記事で紹介されているように、「厚生労働省薬事・食品衛生審議会の利益相反対策ルールでは、医薬品の承認審査の際、審査委員がその薬の製造・販売企業や競合企業から年50万円以上の寄付などを受けていれば議決に加われず、500万円を超えると審議そのものに加われない。」といったルール(参考
→厚労省資料)作りも必要です。
自己申告させてそれを公開し、そのままにして、県当局が言うように「資金提供が全てだめなら委員になるような人がいない」だけでは、情報の申告や公開の意味がありません。この申告内容を受けて、県当局、県知事と県民がどう判断するのか、ということをきちんと議論すべきで、「全てだめ」なのか「全てだめなら委員になる人がいない」という議論に切り縮めているだけでは、空中戦のままです。
福島原発事故を調査した国会事故調は、原発に関するこれまでの規制機関が被規制側の「虜」になっていて、これが福島原発事故の背景にあったことを指摘しています。新潟県の技術委員会は、その意味でも他の一般的な審議機関よりもいっそう厳しいルールが求められます。しかも座長ですから、他の委員よりもさらに厳しくすべきです(責任あるポストの利益相反ルールを一般ポストのそれより厳しくするのも、研究機関等では一般的)。
さらに、今回の自己申告・公開の対象は「委員になってからの資金」ですが、そもそも、委員になってからもなお、当該業界団体から資金を得るということ自体、規定のあるなしに関わらず、不適切です。品位や見識の問題で、少なくとも座長にふさわしくない人と断言すべきです。
座長や委員就任以降のこのような資金提供は、本来、何らかの規制があるべきです。座長になってからもあからさまな目的を持った事実上の業界団体から提供を受けて、調査指示があるまでこっそりだまっている、ということ自体、研究者としても座長としても適格性を欠く、と強く指摘せざるを得ません。
4.「共同研究において問題となるのは、その内容」か?
鈴木氏は、この声明の最後に「共同研究において問題になるのは、その内容です。大学において戦争や軍事に加担することはあってはなりません。」と述べ、軍事目的の研究を持ち出して、自分や大学はそういうことにはかかわらないのだ、と言っています。
これも問題のすり替えです。「その内容」が「問題となるかどうか」はもちろんきちんと評価判断されるべきです。が、その前に、「内容」を判断する客観的基準が明確ではないため、あらかじめ、議論や研究がゆがめられないように情報を明確化させる、というのが現在の各種研究機関などで常識となっている利益相反マネージメントの基本です。
その基本をないがしろにしておいて、「研究の内容」などと言うのも、言い訳にもなっていないと言わざるを得ません。

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