3/25-26、福島の南相馬市と郡山市を訪問し、各地を見て回り話を伺いました。
まずは1日目の報告記です。
メンバーは、先日保守系会派を離脱して無所属となった栗原議員、それからH君という若い男性。
H君は福島の子どもたちの保養プロジェクトなどで自分のできることはないかと職場を辞め、県外から故郷の新潟へ戻って最近いろいろな活動に関わり始めたばかりの有望な若者。野球部出身で明るく、体も心もしっかりした青年でした。
福島県は会津・中通り・浜通りと呼ばれる地域に分かれていて、郡山や福島などは中通り、最初の日の目的地の南相馬市は浜通り。この間は山で境されていて高速道を福島西インターで降りてから南相馬まで行くのがくねくねした細い山道(これが国道!)、すごく大変(運転してくれた栗原議員に感謝・・・と書いてくれと言われたので加筆しておきました

)。事故当時、南相馬の南方向は原発へ近づくルートだったため、まだ寒い時期の中、多くの人がこのルートを逆に中通り方向へ向かったのかと思うと、大変な行程だったのだと実感しました。
ルートは途中飯館村を通過。町並みはしっかりしていますが、放射線量が高く、あちこち除染作業が続けられていました。町の中に閉鎖したままの郵便局もあります。
↑(飯館村)ロープが張られ、閉鎖した郵便局。平日の昼間で、建物は何も壊れていないのに人けがなく、とても違和感がある風景でした。
新潟から5時間近くかかって南相馬市市役所へ到着、復興企画部の職員さんから現状と課題を伺いました。
↑説明してくれた職員さんは杉並区からの派遣。国を介さず自治体同士の連携で、複数の自治体から計30名ほどが支援に来ているとのこと。
被害の状況と復興計画の説明を受けました。
復興へ向けた土地利用計画の関係で、所有関係の整理(亡くなっている人の相続、行方不明者の土地の扱いなど)が難しく、なかなか計画が進まない現状も伺いました。
土地利用のめどが立たないと、廃材や瓦礫の仮置き場も確保できず、そうすると倒壊家屋の解体も進まない、ということになります。
市内の仮設住宅に住む家庭も多く、集団移転や災害雇用住宅の建設などはまだ時間を要するとのこと。除染もまだ進んでいない場所があります。
震災と原発事故後、南相馬市の0歳から4歳までの70%が市外へ流出、その親世代の半数以上ほどがいなくなっている状態で、市としては単なる帰還ではなく、住み続ける魅力を創っていくための事業を考えて行きたいとのこと。
復興に要する国からの交付金は縮小されたり、政権の時々の方針で右往左往している状態とのことでした。自民党政権になって比較的やりやすくはなったと言っていました。
また、南相馬市は3町が合併してできた市で、当初原発から20km圏だったところが旧小高町の小高地区と重なっていて、この地域の市民は皆さんが地域外または市外・県外へ避難されています(下の地図の南相馬市の下3分の1くらいの黄緑色の地域)。
この黄緑色の地域は線量が低くなってきたために、昨年4月、警戒区域の指定から解除され、「避難指示解除準備区域」とされました。しかしインフラの復旧も進んでおらず、震災から2年、区域解除から1年が経とうとしていますが津波被害の回復も進んでいません。
下は、小高地区海岸部の道路から農耕田地域に流れた自家用車です。震災直後には各地でこうした風景をよく見かけましたが、2年後でもこの状態です。
壊れた家も手つかずのままです。撤去した廃材の置き場の確保も困っているようです。↓
海岸部地域を見て回った後、小高地区の街中に入りました。「避難指示解除準備区域」のため、立ち入りは可能ですが住民の寝泊まりは禁じられたままです。報道では何件か店の営業を再開したところがあると聞いていましたが、見て回った限り、NPOの皆さんがおそらく掃除などのボランティアをやっている他は、開いている店は見つけられませんでした。
途中、公園のスピーカーから5時の時報をかねた音楽が流れました(後で調べたら市の曲で、時報を兼ねて市内の防災無線に一斉に流れるようです)が、人のいない地域にさびしく響き渡り、悲しい思いがしました。
下は、町内の郵便ポストです。↓ 口はガムテープでふさがれています。
小高駅の駐輪場。誰もいない街の中に、整然と並んだ自転車たち。↓

事故からほぼ2年間、この状態のままにいたことになります。
地震の揺れを考えれば、当時は倒れ、その後どなたかが並べてくれたのかもしれませんが、多くの市民の皆さんの日常の時間の流れが突然断裂し、各地に散っていった生活や御苦労に、想いを馳せないではいられません。
原発事故が無ければ、地震以外のこのような甚大な被害や苦労は無かった−3.11以後何度も口にし、また聞いてきたことではありますが、あらためてリアルな現場から重ねて実感する思いです。
次に小高区を出て、隣の地域にある大甕小学校を訪問。同行した栗原議員がPTA会長をしている小合小学と親交があり、校長先生を表敬訪問し、子どもたちの状況などを伺いました。児童数は減った(現在は事故前の半数程度)ものの、今年度は通常の学校行事を平常通りおこなえたとのことです。
この日は夕方まで滞在して郡山に向かい、新潟へ妻子が避難されているKさんと落ち合い、われわれ三人とKさんとで居酒屋で一杯やりながら、被災地の生活の現状などをじっくり伺いました。Kさんも毎週新潟と往復していましたがこの前の土日は郡山に滞在し、タイヤ交換などふだんやれなかった雑務をこなしたそうです。
現地を直接見たりお話しを聞いたりすることはやはり大切なことだと実感しました。

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