さて、前の記事(
→こちら)で説明した郡山の佐藤順一氏の放射能に関する講演(
→こちら)の問題について続編です。
前記事でも触れましたが、「半減期30年」=「30年経たないと半分にならないと思」っていることを「誤解」としている事自体、そもそもも問題があります(これは誤解でも何でもない、正解)が、
そこはまあ一時的に目をつむり、今回は、この半減期の「説明」の「目的」について論じます。
佐藤氏や彼を支持する人びとは、ツイッタ―上でのやり取りで、
問題の説明を
(1)「半減期そのものの概念を説明するため」
あるいは
(2)「半減期が長い方が危険と思っている人の誤解を解くため」
に持ち出したと言っています。
よくぞ言いました。論点が明確になるというものです。
では、今回はまず、このうち(1)の「『半減期』の説明」として適切か?を考えてみましょう。
まず押さえておかなければなりませんが、「半減期」とは放射性物質だけに限った概念ではありません。
例えばある物質が化学反応に伴って一定の割合で減少して行く際、その元々の物質の濃度が半分に減少する時間を、やはり「半減期」と呼びます。
医薬品でも同様で、体内に入った場合の血中濃度が半分になる時間などを半減期と呼びます。
医薬品の半減期が「長い」場合は、それだけ血中濃度を長く維持できるので、例えば1日1回程度の投薬で薬の効果を保つことになります。
また、放射性同位元素を用いた医学検査(RI検査)では、一般に半減期の短い核種(なおかつガンマ線を放出するもの)が用いられますが、これは体内に留まり影響を与える時間を短くし、検査終了後排泄された後の管理を不要にするためです。
つまり、半減期というのは、このように環境や生体への影響の時間の長さの目安として用いられるのが一般的であり、佐藤氏の「1個1個の原子の放射線の放出しやすさやしにくさ」という捉え方だけでは、半減期の本質の理解のためには不十分なのです。
ちょうど手元の教科書に、佐藤氏や彼の支持者たちに向けて書かれたのかと思ってしまうような記述があったので紹介します。
↑多田順一郎著「わかりやすい放射線物理学」(オーム社 改訂2版)90p)
そう、まさにこの通りなのです。
「私たちにとって問題なのは、個々の原子核の確率的な時間変化ではなく、その原子核の集団が持つ統計的な値の変化」
と記述しています。
放射線物理学を学ぼうとしている学生などを対象にした教科書でもこうなのですから、放射能の影響を心配されている普通の「福島のお母さん」たちに「ひとつの原子核の確率的な変化」や「10個なら2万4千年かかって5個」などという「思考実験」(後述)とやらは、「半減期」の本質の理解のためには、本質から乖離しているばかりか、不要なのです。不十分で本質から乖離し、不要な説明を、一般社会でも学問の世界でも「不適切」と呼びます。
こういうことを踏まえた上で、さらに彼の論理展開を見てみましょう。
(以前のブログでも指摘)
===(以下佐藤氏講演録抜粋)
「半減期2万4千年のプルトニウムってどんなの?」「2万4千年経たないと福島はきれいにならないのか?」というようなことをたくさん聞かれました。
それに対して「たとえば10個のプルトニウムがあったら、2万4千年経ってやっと5個崩壊するということですから、1年くらいではほぼまちがいなく崩壊しませんよね。崩壊しないということは放射線を出さないということですから、気にしなくていいんじゃないですか?」というふうに説明すれば、ある程度「ああ、なるほど」とわかっていただけたりしますね。
===
私たちが放射能汚染と向き合う時、「セシウムが10個ありました」とか「プルトニウムが10個ありました」とかいうことが公表されるわけではありません。
ツイッタ―で僕を批判する輩の中には、腹立ち紛れに「じゃあ何億個とか何兆個とか書けばいいのかよ。科学には仮定や思考実験が大切」などと「反論」する人がいます。
はい、彼らの馬脚を表わすよいつぶやきです(笑)。
この反論の前半「じゃあ何億個とか・・」には、あえて「そうだ」と言ってあげましょう。ただし、何億個・何兆個であるか正確に書く必要はなく、半減期に見合った十分な量・数を「仮定」すれば十分です。
上記の教科書の記述で紹介したように、我々が問題にしなければならなのは、「非常に多数の原子核の集団」です。
通常、放射性物質は放射能を検出して初めて我々はそれを放射性物質だと認識することができます(自然界で一定の比率で存在している放射性同位元素はこの場合除外しましょう)。
佐藤氏が例に挙げているプルトニウムを考える場合、わずか小数点以下の桁数の放射能の量でも、「2万4千年経って10個がやっと5個になる」ほどの「安定」した原子核の集団から放射能が検出されているわけですから、そこには相当数のプルトニウム原子核が存在していることになります。
そのように考えれば、「10個なら2万4千年経ってやっと5個崩壊」などというお気楽な「思考実験」(「実験」などと呼ぶようなごたいそうな物でもなんでもない)ではなく、本当は下記のように考えることが必要となります。
彼と同様、「個数」に注目し、「10個」で考えます。ただし、放射線を放出する原子に着目した個数です。
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ここに十分に多い数のプルトニウム原子がある。
崩壊は純粋に確率的に起きるので、次の瞬間どの原子が崩壊するかはわからない。
現在の10秒あたり、この原子核の集団の中で、どれか10個だけが放射線を放出し、それが崩壊して別の核種になるとする。
半減期は2万4千年なので、この原子核の集団の中では、このあとの10秒間も、明日も明後日も、1年後も、ある瞬間の10秒間では今とは別の原子の「ほぼ10個」が放射線を出して崩壊する。
こうして当面は10秒あたり「ほぼ10個」に近い数が次々崩壊し、それに伴って元々のプルトニウム原子の数もわずかづつ減少して行く。
元々の数もこのように非常にわずかずつながら減っていくので、崩壊する数も10秒あたり最初の10個から9個・・8個・・と徐々に減っていき、
2万4千年経った時、元々のプルトニウムの数はようやく半分になり、その時に崩壊する数も、これに伴って当初の半分になるので、ようやく5個(10秒あたり)に減少していることになる。
そして次の2万4千年を経ると、元々の数がさらに半分、そしてその時10秒あたりに崩壊する数は2.5個となっている。
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ということです。
半減期が長い場合、上記で述べたように、その放射能が僅かでも検出されれば、元々の数が非常に多く存在することを意味し、そのどの原子が崩壊するかは予測がつかないため、核種によっては(その放射線のエネルギーや線種によっては)、それぞれ「1個1個」が崩壊しているかいないかに関わらず、その非常に多い原子核の集団全体を管理する必要が生じ、やっかいなことになるのです。
使用済み核燃料に含まれる半減期の長い生成物の管理をめぐって世界中で苦労しているのは、そういうためです。
「思考実験」はもちろん必要ですが、それは物事や現象の本質をわかりやすく理解するためのものでなければならず、佐藤氏の「10個が2万4千年経ってやっと5個」などという説明と、上記の「思考」の展開と、いったいどちらが「半減期」の本質と、それに伴う現実社会における課題を理解するにふさわしいか、一目瞭然です。
彼や支持者たちは「前半で半減期の概念を、後半で放射能の説明を話している。全体で理解できるのだ」などと言っています。確かに示されたスライドには「1Bqと1個は違うので注意」とか、「放射線には様々な種類がある」などというのもあります。しかし、これらの教科書的な事実は、この半減期の説明と系統的な形で結び付けられてはいません。「全体」や「後半」を読んで「前半」の不適切さが解消されたり、その後で「前半」の意義が判明する、というような構造や展開には、そもそもなっていないのです。
また、「佐藤氏は講演の中で『厳密に言えば違うんですが』とか『ちょっと極端な形で説明』と言っているのだから、問題はない」という支持者もいます。
これについても「思考実験」とやらと同様で、物事の本質をわかりやすく理解するために、厳密な細部は無視したりある程度極端な仮定は必要ですが、繰り返して指摘するように、それはあくまで本質の理解に資するということが前提です。「ちょっと極端な例えだけど」「厳密に言うと違うけど」と言えば何を言ってもいい、ということにはならないのは言うまでもない前提です。
そもそも佐藤氏の講演では、聴衆から「半減期2万4千年のプルトニウムってどんなの?」「2万4千年経たないと福島はきれいにならないのか?」と聞かれているのだから、
「例えば10個」という非現実的な、「思考実験」にもならないような前提を持ち出して「2万4千年経ってやっと5個崩壊」「気にすることは無い」と答えることは説明として不十分かつ不適切であり、誠実とは言えません。こうした質問に対しては、放出された量と予想される飛散範囲の推論やその影響として考えうること(事実としてわかっている事、議論があることを含め)を自分なりの考えも含めて答えるべき、というのが筋でしょう。
こういった問題を論じているのに、彼や彼の支持者たちは「中山は読解力が無い」(笑)、「中山のブログの方が非科学的」、「佐藤氏の真意を曲解」などと言いたい放題。具体的な反証ができない彼らの意見は、言えば言うほどその浅はかさが露わになります。
また、佐藤氏サイドは、中山の批判を「一部だけを切り出して」いると言っています。しかし彼ら自身が認めているように、ここは「半減期そのものの概念の説明」だとすれば、「一部」どころではなく、講演の文脈や佐藤氏自身の発言の趣旨から考えても最も重要な箇所なのであり、「一部」どころではありません。
それどころか、佐藤氏の「半減期」の説明こそ、半減期の本質的な問題を抜きにして、その1個1個とかせいぜい10個の原子核(まさに「一部」とはこのことだ;笑)を「取り出し」、半減期の時間の「長さ」だけを「切り出して」、「ゆっくり崩壊する」から「気にしなくていい」という「理解」に結びつけているのだから、その批判は自分たちにこそ向けられなければなりません。他人を批判する前に自分の倫理展開の稚拙さを反省すべきです。
次の記事では、もう一つ挙げられている理由
(2)「半減期が長い方が危険と思っている人の誤解を解くため」
ということも成り立たない、ということを論じたいと思います。
(ほんとはこれまでの批判で十分ですが)
※今回の一連の記事「佐藤順一氏の『半減期』問題、あらためて」
<<その1
その2(本記事)
その3>>
過去の関連記事
http://green.ap.teacup.com/nakayama/616.html
http://green.ap.teacup.com/nakayama/619.html
http://green.ap.teacup.com/nakayama/624.html

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