2007/8/27

製作費  映画

 順調に(?)進行中の『ロン・ハワード論』、『グリンチ』の章を推敲していて、偶然知ったのだけど、なんとなんと『ラッシュ・アワー3』の製作費が映画史上第6位の巨額さなのだ。額にして、実に1億8千万ドル。

 で、『ラッシュ・アワー3』の上にあるのが、上から『スパイダーマン3』、『キングコング』(P・J版。もちろん)、『スーパーマン・リターンズ』、『スパイダーマン2』、そして『タイタニック』。いまや、『タイタニック』の上に4本もあるのか・・・。ちなみに『ラッシュ・アワー3』と同額6位に『ナルニア国物語』。

 思うところはいろいろあるが、ともあれまあ、どれもそれだけの金はかかっているだろうなと、少なくとも納得できる作品ばかり。しかし、『ラッシュ・アワー3』のいったいどこに、それほどの巨額予算がかかるのだろうか。
 
 これはもうまったくわからない。ブレッド・ラトナーがギャラを1000万ドルにしろとか、ワガママを言ったと聞くが、それにしても『スパイダーマン』や『タイタニック』に伍する金がかかるわけはないだろう。謎だ・・・。

 ちなみに、これも偶然わかったのだが、『エピソード1〜3』の製作費が、3本ともきっかり1億1500万ドルの同額。これはすごい。ジョージ・ルーカスの管理能力がいかに秀でているかということだ。
 しかも「1」の利益を再投資して「2」、「3」で、さらに製作費をつり上げていくという『スパイダーマン』や『カリブ』のようなムダなインフレーションも慎重に避けているところも、さすがのビジネスマンぶりである。
 きっと、こうあるべきなんだろうな。


なお、夏休みをいただいてます。
8月28日〜9月1日までは更新をお休みいたします。

2007/8/26

柄谷行人  

 朝日の書評覧に久々登場、柄谷行人。取り上げるは小林敏明『廣松渉―近代の超克』(講談社)。講談社が最近はじめて、ちょっと気になっている「再発見 日本の哲学」シリーズの一冊。

 短い書評なのに、実に明瞭で見通しのいい文章で感動する。柄谷さんは何とも手際よく、こんなふうにポイントをまとめてくれている。

 「著者は、「近代の超克」はたんなる近代の批判ではない、という。それは、前近代的な場にある者が、一方で、近代を志向しつつ、さらに、他国で実現された近代を批判するという二重の課題を追求することだ。一言でいえば、後進国のインテリに特有の思考である」と。
 それはちょうど、先進国イギリスに対する超克を行おうとした、ヘーゲルの立ち位置と重なり、だからこそヘーゲルは廣松、そして西田に甚大な影響を与えたのだとする。

 そして、本書の価値はそこにとどまらず、後進国日本が世界の辺境にあったことのみならず、廣松と西田が日本の中でも辺境にあったこと、その二重のねじれが彼らの「奇妙な文体」を形成しているという観点。
 とてもおもしろく興味深い。

 ここからは私見だが、「日本の哲学」は畢竟、「やれやれ「日本」をさてどうしたらいいんだろうか」という、まあちっぽけなものだ。
 そして、そのちっぽけな「日本」の中での「近代」のスケールというものをとらえ損ねていることが、戦前戦中戦後の日本の度し難さなのではないだろうか。

2007/8/25

『シッコ』,『レミー』,『ラッシュ・アワー3』  映画

マイケル・ムーア『シッコ』
 マイケル・ムーアに対して異論は多いのだろうが、この人の仕事は大切だ。「映画」サイドからさえ批判があるようだが意味はある。
 ムーアのスタンスは、ごく素朴である。芝居がかってはいるが、「合衆国のどこが、世界でいちばん自由で、優れていて、最強で、最良なの? この現状で?」ということで、アメリカの医療制度に目を向けた今回は、そうしたアプローチがとても効果的だ。

 政府に異を唱えること=非国民。全国民共通の公的サービスの完備=共産主義。という、アメリカ人のこの超短絡的な発想の幼稚さは、いったい何なのだろうか。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』に引き続き、今回も「川ひとつ向こう」の、国民皆保険を実現したカナダの制度を紹介し、続いてイギリス、フランス、ついにはキューバまで。またアメリカ人が大嫌いな国ばかりを選んでいるところがニクイ。

 となると、ムーアが日本の医療制度を取材対象外にした点は、要注意だ。ムーアの本能は、きっと米国の属国である日本の医療制度はいずれアメリカ化すると睨んだのだろうから。(もちろん偶然にすぎないわけだが)

ブラッド・バード『レミーのおいしいレストラン』
 まぎれもなくピクサー最高傑作。
 ところでこの映画、まるでロン・ハワードが作ったようだと、何度も思いながら見る。 華麗な室内での移動撮影。下から上、上から下への垂直性に富んだカメラワーク。家族の絆を軸にしたメッセージ性。アホな兄貴とできのいい弟。水に落ちる主人公たち。多彩なキャラクターの集団劇としての構成。名誉回復の物語であること・・・。
 とにかく、それは最良の物語であるということだ。

 レミーが「手(前足)を汚し」ながら地下水道を駆け回り、昇って昇って昇って、飛び出たところが、ガーンと広がるエッフェル塔を遠くにのぞんだパリの大俯瞰。
 私はこうしたイメージに何しろ弱い。涙が洪水のようにあふれ出て、せっかくの画面がまたしても見えなくなる。

 ここでのエッフェル塔は、遠くに見える、いつでも視界の中にあるべきシンボルである。レミーはどの場所に来ても、エッフェル塔の位置を確認して目を細める。「ぼくはここにいる」。自らの存在証明として、これほどすばらしい表現って、ちょっとない。

ブレッド・ラトナー『ラッシュ・アワー3』
 それに引き換え、この映画には畏れも慎みもないので、同じパリを舞台にしていても、平気でエッフェル塔を使って、ネズミのようにちょこまかしたアクションをやってしまう。
 すべて行き当たりばったりに話を作っているとしか思えないので、すごくバカにされているように感じる。製作側が完全に安全パイだと思って、なめきっているのだ。不快だ。

 クリス・タッカーがすっかり太ってしまったのはどうでもいいが、どうもジャッキー・チェンがすっかりアクションをできなくなっているように見えるのは、本当に残念なことである。カット割ってるし。
 おそらく高齢化が原因だ。場から場へ飛び移るときも、いちいち足場やグリップを確認しているようなのでスピード感がない。本来のジャッキー・チェンなら、こんなこと絶対になかった。何の躊躇もなく飛び、跳ね、走った(だから時にはコケた)。
 むしろ敵役・真田広之の方がはるかにキレのいい疾走とジャンプを見せてくれる。
 つくづく痛恨なことだが、今のジャッキー刑事では、護衛してもらっても、まったく安心できない。本当に守りきれるのか心配だ。

2007/8/24

コリン・マッケイブ『ゴダール伝』  

コリン・マッケイブ『ゴダール伝』(堀潤之・訳 みすず書房)読了。
 ゴダールの本格的な評伝。それだけでもう大変な価値がある。従って、ほとんど一息に読む。
 ただ「伝記」としての体裁は、ベック/トゥビアナの大著『フランソワ・トリュフォー』(原書房)のほうがよほどそれらしく、それと同じ意味での伝記を期待するなら、やや裏切られることになる。

 マッケイブの本は、「ゴダール」というよりは、むしろ彼をめぐる周囲の時代環境の執筆に、かなり注力したものだ。
 だからたとえば、最もゴダールが先鋭的だった時代、すなわち60年代を記述するのに、マルクス・レーニン主義から、マオイズムが当時のパリでどのように受容されたか、特にラカンをめぐる精神分析の風土を交えて、アルチュセールを中心とした時代の気分を活写していく。
 そうした構成は、たとえばゴダールの生い立ち、特にフランスでも名だたるプロテスタント家計という来歴を知るに当たって、フランスにおける宗教環境と共に詳細に説明してくれている。
 そのため、「大ブルジョワ」としてのゴダール家(正確には母方のモノー家)の巨大さが、がっちり把握できる。
 けれど、ゴダールがそれらをどのように受け止め、どのように活動したかという点は、
必ずしも明快に語られていないので、折りに触れて「ゴダール」が読書から遠ざかってしまう節もある。

 そうした意味で、ゴダール物語ともいうべき「伝記」の楽しみはほとんど皆無で、いささか読むのに骨が折れるが、それは、読む側がゴダールの実作品を想起しながら内容を再構成する必要があるからだ。
 何しろ、ゴダール作品が一面的な鑑賞を許さない以上、その評伝が一面的な解釈を示すわけにはいかないのも当然なのだ。そこは十分、心しなければいけない書物ではある。

 その効用もある。ガイドラインとしては非常に有益な示唆を与えてくれるからだ。
たとえば、
 「1963年以後、ゴダールにとっての主要な思想家は、もはやバザンでなく、ブレヒトである。というのも、ブレヒトこそが、形式に対するますますの認識と現在の観客の不在を、将来の政治的変革へと結びつけることで、モダニズムと大衆性を統合するという不可能なことを試みているからだ」(P.277)

 といった指摘が、トリュフォーとの訣別とも結びつけられるのだけれど、なるほどトリュフォーとゴダールの間に具体的に何があったか、ということを新聞記事的に書くアプローチ以外に、このように教えられると、確かに何か腑に落ちる気がしないではない。
 そして、おそらくゴダールはヌーヴェルヴァーグの中で、もっともテレビという媒体を活用した人物だ(必ずしも「映画」、「フィルム」というフォーマットに対する偏狭なこだわりはない)。
 そのことの思想的背景もつかめようというものではないだろうか。その意味では、本書は実作品との往復関係を要求する書物でもあるだろう。

 だがまあ、そうとはいっても、明らかに前夜セックスしまくったことが、ありありとわかる顔で現場に出てきたハンナ・シグラの顔を、何とか照明でごまかそうと、あれこれ工夫するラウール・クタールに、ゴダールは「一晩中やっていたんだ―顔のしわをみんなにみせてやればいい」とでかい声で言い放ち、それをやめさせたという。その結果、『パッション』のあの見事な横顔が撮られた、などという話を読むとわくわくさせられるではないか。
 また、『軽蔑』の撮影で、おそらくはバルドーのご機嫌をとるために、なんと逆立ちしてみせるゴダールの現場写真など、ほとんど絶句させられる。そんなエピソードの紹介がもっともっとあったらな、というのが正直なところだ。
 『映画史』の製作にあたって、著作権クリア(ごまかし?)のために、どんな手段を使ったのかといった小ネタも、もっと詳細を・・・と、これは本音でそう思う。
 
 ただどちらにせよ、今後ゴダール作品の鑑賞における座右の書とすべき必読書であることは、間違いない。

2007/8/23

髪をおろす女は不幸になる  映画

 驚いた。eiga.comに掲載されたジャ・ジャンクーのインタビューを読んでいたら、
インタビュアーの「あなたの映画のヒロイン、チャオ・タオは小津安二郎映画のヒロインのように、額を出していますね。(後略)」という質問に対する、ジャ・ジャンクーの返事はこうだ。

「ええ。小津映画の大ファンですが、髪を下ろすと、女性は不幸になりますから(笑)」

 やっぱりというか、当然というべきなのだが、さすがにジャ・ジャンクーは御大の『監督・小津安二郎』を読んでいる。なお、このインタビュー採録者も、「(笑)」と入れているところがまた小癪なところだ。
 以下は、御大の『監督・小津安二郎』(筑摩書房 増補改訂版の方)からの引用。

「実際、小津のあらゆる女優たちのヘアー・スタイルは、髪でひたいを隠さないという特徴を持っている。髪でひたいの隠れる例外的な女優は『東京暮色』の有馬稲子と『早春』の岸恵子だが、前者が自殺し、後者が誘惑する役を演じているのは決して偶然ではないだろう。」(P.135)

 この一文は小津のイマジナリーラインについて論じた段の一節だが、その前後とは直接的には関係ない指摘である。
 それなのに、これほど映画的に刺激的な一節が挿入されているのが、この本のおそろしいところであるが、そこにきっちりと反応しているジャ・ジャンクーもさすがである。

2007/8/22

ワルキューレ  映画

 まずタイトルがズバぬけていい。『ワルキューレ』。ワーグナーの楽劇でなく、トム・クルーズ/ブライアン・シンガーの撮影中の新作である。

 ことの当初から、ドイツ国防省でのロケを(サイエントロジー信仰を理由に)拒否されたり、クルーズさん演じる人物の遺族に苦い顔をされたりと、あまりいいことのなかった、この映画のドイツロケだけど、報道によると、今度はアクションシーンの撮影で負傷者を出してしまったとか。

 どうも、『M:i:3』以後というべきなのか、ケイティとの婚約以後というべきなのか、原因と時期は定かではないけれど、クルーズさんの運勢がよろしくない。

 とはいえ、相変わらず監督選びの眼力の冴えはダントツ。『Xメン』とか撮っている程度のブライアン・シンガーなど、主演作の演出家として選びはしなかったろうが、あのすばらしい『スーパーマン・リターンズ』をモノにした後のシンガーを抜擢するあたり、つくづくすごい。

 今のアメリカ映画で誰がいちばん腕のいい監督かというのは、トム・クルーズが次回作に誰を選ぶかということでわかるというものだ。

 そして、『ワルキューレ』の後に控えるのが、ロバート・レッドフォード監督作品というのだから、これまた唸らされる。

 『モンタナの風に抱かれて』や『バガー・ヴァンスの伝説』はともかく、『普通の人々』、『ミラグロ』、『クイズショー』と、レッドフォード監督は、もちろん「何か」を持っている人だし。
 これはもうどちらも傑作まちがいなしではないか。これだけ確実な仕事をやっていれば、また運も上昇するだろう。

2007/8/21

定点としての守護神  音楽

 前日、カラヤン/ウィーン/フレーニの『蝶々夫人』をうっかりオルタネイティブと書いてしまったのだけれど、話が逆だったのと、もうひとつ言葉が不適切だったように思うので、もう少し。言いたかったことは、こうした演奏がその他の解釈を許すための「定点」となるということ。

 たとえば、グールドのベートーベンが際立つのは、バックハウスの演奏があってのことだ。「レコード芸術」で名盤投票とかやると、バッハの鍵盤曲はことごとくグールドが1位になるが、それにはかねてから違和感がある。それを可能にしているのは、たとえばリヒターがいるからだ。

 アーノンクールのモーツアルトが、それなりの評価を受けられるのは、カール・ベームがきっちりとスタンダードを残してくれているからだし、でなければそもそも古楽演奏(大嫌いなんだが)というものは、メインストリームの演奏として出てこれないはずなのだ。

 ゴダールを、ゴダール単体で評価するなんてことはあり得なくって、グリフィス、フォード、ホークス、ヒッチコック、ウオルシュなどの「定点」があって、初めてそのすごさを測定できるはずだ。

 だからといって、グールドやアーノンクール、もちろんゴダールが二番手であるという意味では断じてないことは、どうか読み取っていただきたいし、異論もあろうとは思う。
ただ、時代を画する偉大な解釈・表現というものは、偉大なる「定点」に守られているのだという意識は絶対に必要なのだと思う。

 別に誰かに何かを言われたわけじゃないけど、カラヤン/ウィーン/フレーニを聴いたり、ヒッチコックのDVDを見たりすると、どうしてもそんなことを考えてしまう。

2007/8/20

蝶々夫人  音楽

 名盤の誉れ高すぎる、カラヤン/ウィーン・フィルの『蝶々夫人』のCDはLONDONから出ているわけだけど、DVDのはDGから。どちらも1974年の演奏。
 で、ピンカートンがパヴァロッティからドミンゴにスイッチ。ひけをとらぬ二人だから、これはどちらでもOK。

 しかし「ある晴れた日に」の絶唱は、完全に『風と共に去りぬ』だ。タラの土地に立ち上がり、明日への決意に満ち満ちたスカーレット・オハラそのもの。奇跡的なまでの朗唱に、煽りに煽るオーケストラ。こうなってくると、DVDの画面が邪魔で邪魔でしかたがなくなってくる(実際、あまりにもトンチンカンな画面演出なので、途中から音だけで聴く)。

 順番は前後するが、初夜のおそれを歌う「かわいがってくださいな」の、エロスそのものの二重唱。二声がからみあい、もつれあい、離れていく。プッチーニの音の作りがやっぱりものすごく、それを表現するソプラノとテノールの旋律線が上になり下になる、そのバランスの妙を下支えするオケのハーモニーは、もうこれ以上のものはあり得ない。

 その物語が狂気にむかっていくところは、これは『アデルの恋の物語』をもイメージさせるわけだけど、そうした極端な感情をこの演奏はそのままに表現する。

 演奏面でいうならば、これ以上のものはまずあり得ない。だからこそいつの日か、吉田喜重監督の『マダムバタフライ』を聴く日が来たときには、その演出手法を純粋に楽しめるわけだ。カラヤン/ウィーン/フレーニの演奏はオルタネイティブとして最上。だからこそ、他の解釈を相対的に正しく評価できる。このような決定的な一打というか、揺るぎなき完璧な演奏があるのは、本当に幸せなことだ。
 だから早くみたい! 吉田喜重版『マダムバタフライ』。

2007/8/19

ロン・ハワードとキャプラの『群集』  映画

 『ロン・ハワード論』の第17章。『エッセイ2 〜 マスコミ、あるいはキャプラの『群集』をめぐって』を脱稿!

http://members.aol.com/Studyronhoward/chapter17.htm

 なかなか急ピッチ。作品論を書くのはほんとに命を削る思いだけど、こういうシンプルなエッセイを書くのはらくちんだね。気が楽だし。もう何年も前に書きっぱなしにしてあったのを少し直すだけだし。休む間もなく『グリンチ』の章へ。

2007/8/18

ジャ・ジャンクー『長江哀歌』  映画

 三峡ダムをテーマにしている点については、リ・イーファン&イェン・ユイの忘れがたいドキュメンタリー『水没の前に』に通じる。しかし、『長江哀歌』は、この『水没の前に』の二人の監督を助監督に迎えているのだそうだ。それはすごい。

 この2本を並べて思わされるのは、最高最良のドキュメンタリーは限りなくフィクションに近づくし、最高最良のフィクションは限りなくドキュメンタリーに近づくということだ。

 『長江哀歌』の、おそろしいまでに運命的に作りこまれた、精緻な脚本はそれだけで驚嘆するが、その物語の背景となる、やがて水没しようとするこの地の、これが同じ地球の、同じアジアの土地なのだろうかと思わされる絶景に、生々しい現実味を与えている。

 主人公の男が、妻(と娘)を取り戻すため、金になるが危険な炭鉱の仕事を始める決意を仲間に語るときの、「乾杯」シーンに噴出する真実感はただごとではない。この域に達したのは、あえて言うが、映画史上ではロベルト・ロッセリーニただ1人ではないか?

 1970年生まれという若さで、人間の真実を掘り当ててしまったような、ジャ・ジャンクーの成熟度が半端じゃない。30歳半ばといえば、たとえば侯考賢でいうなら、まだ『川の流れに草は青々』などの、青春歌謡映画を作っている段階だ。神童とはまさに彼のことか。



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