2007/9/30

批評の原罪と宿命  ノンセクション

 今日になっても大雨。さらに運動会は流れて、参観はかなわなくなる。いったいどういうことなのか。

 ロン・ハワード『ビューティフル・マインド』の論じ難さについて、とにかく苦労する。劇映画としての『ビューティフル・マインド』を激しく愛しつつも、「映画の表象不可能性」という議論をひとたびあてがおうとするならば、この映画は史上最悪の映画にさえなってしまうのだ。

 現実に、マッケイブ『ゴダール伝』(みすず書房)には、敵意をむき出しにした『ビューティフル・マインド』批判さえある。そして、ちょうどamazon.comから届いたストローブ/ユイレの『歴史の授業』DVDの解説を眺めながら、ほとほとため息をついたりもする。ストローブ/ユイレほど、この表象不可能性と向き合った映画作家もまたいないからだ。先だって日仏学院での、吉田喜重発言とも照らし合わせると、いっそう悩みが深まる。

 スピルバーグVSランズマンに代表される、この種の議論はどうにも解決がつかない。その未決の焦点として『ビューティフル・マインド』があり、これを論じるためには、私の力量ではどちらか一方の議論を封殺するしかない。

 封殺。この映画がさらに難儀なのは、『ビューティフル・マインド』が、ラッセル・クロウが演じるところの天才数学者、ジョン・ナッシュの「現実」の多くを封殺しているからだ。

 実際のナッシュは同性愛者であることの他、ジェニファー・コネリーが見事に演じた献身的な妻アイリス以外に愛人がいて、こともあろうに彼女の間には子どもがあり、そしてその子(と母)に対しては、人間以下のきわめて冷たい仕打ちをしていること。

 さらに、浴室で死にかけたものの、映画のラストでは立派に成長した青年として描かれたあの赤ん坊は、気の毒なことに父親と同じ精神病にかかっており、今なお過酷な闘病生活を送っているということ。ロン・ハワードがソフトに表現した夫婦の地獄は、今度は息子の代に引き継がれて、現実のナッシュ夫妻は今なお苦しんでいるのだ。

 こうした辛い現実を、映画はすべてなかったことにしている。知りさえしなければ、黙殺できるこうした事柄を、知ってしまっている以上、劇映画『ビューティフル・マインド』の価値にいくばくかの保留を与えることが、果たして正しいのか、正しくないのか。正直なところわからない。

 批評にもまた封殺・隠蔽の原罪があり、それを背負わねばならぬものなのだろうか。

2007/9/29

『俺の血は他人の血』,『二人の牝犬』  映画

 小学校の運動会だというのに、朝になってみるとまさかの大雨。完全に出鼻をくじかれる。1日が宙に浮いてしまい、久々に苦し紛れにシネマヴェーラの特集「妄執、異形の人々U」へ。

 舛田利雄『俺の血は他人の血』(1974 松竹 86分)
 とことんどうしようもない映画。筒井康隆原作で、普段は風采の上がらぬ青年(火野正平)だが、ひとたびキレると「エスクレメントォ!」の謎の叫びとともに、無敵の超人と化してヤクザの10〜20人は軽々半殺しにしてしまう。
 こいつと組んで、ひともうけしようともくろむサギ師(フランキー堺)とのペアで、黒澤の『用心棒』よろしく敵対する2つの悪徳軍団を相討ちさせて壊滅させる物語。

 アクションシーンがとにかくなめている。火野正平がぶん殴ったら、敵はワイアーアクションっぽく、宙を舞って吹っ飛ぶのだけど、ワイアーが思いっきり見えていて、隠そうとか消そうとかいう気が少しもない。何というか、申し訳なさそうでないのである。

 これがデビューとなるらしい、火野正平も、ふと気がつくと上半身裸でセクシーさを見せつけ、後にゴシップをにぎわしまくるプレイボーイぶりを知っているだけに、なんだか腹が立ってくる。フランキー堺はもともと大嫌いだ。

 ヒロインの奈美悦子は確かに、70年代的なかわいらしさが魅力的なんだが(待てよ、つい最近、相手の男をリチャードギアに似てるとか何とか言って、再婚しなかったか?)、少々お色気がたりない。いかんせん松竹映画だし。

 B級は決して嫌いじゃないけれど、こうした丁寧さを欠いた映画の累積が、結局「日本映画」の信用を確実に落としていったのだろうなあと、痛切思いながら眺める。


 渡辺祐介『二匹の牝犬』(1964年 東映 91分)
 そこへいくと、60年代はまだこうした真剣な作品があったりもする。

 赤線廃止に伴い、しかるべき女たちの多くは職を失う。売春宿の女将、沢村貞子が吐き捨てるように言う「国が何て言おうと、男のスケベと道楽はなおりゃしないよぉ」の冒頭のセリフが怖い。
 
 真っ当な結婚を夢見つつ、トルコ風呂で働いて、小銭をためる小川真由美のやつれ方がすさまじい。疲れた体でアパートに帰ってきて、とにかくベッドに体を投げ出すのだが、すぐに起き上がって服を脱ぎ、もっぺんベッドに体を投げるのが、何とも痛ましい。

 部屋に帰ってきて、まず脱いでからベッドに寝るのでなく、とにもかくにもいったんベッドに倒れこむのだ。少しぐったりしてから、そのうえで服を脱ぐという、そういった哀切感あふれる演技があると、もうその作品を愛さずにいられなくなってしまう。
 さらに切ないことには、その後でくわえ煙草で、指に唾をつけてその日に稼いだ万札を数えるのである。これが彼女の日課だ。このへんの描写はすばらしい。
 
 彼女には、トルコで働く身分を隠しつつ、結婚を夢見る証券マンの相手・杉浦直樹がいるのだが、いろいろあって転がり込んできた腹違いの妹、緑魔子が彼を寝取ってしまう。
 じらしてばかりいないで、程よいところで体を許してあげないと、とんでもないことになるという、深い深い深い教訓である。女性はその点すべからく心していただきたいが、それはともかくこれが緑魔子のデビューである。

 その結果としての、緑魔子と小川真由美の凄絶なつかみ合いの大喧嘩がクライマックス。憎悪が煮えたぎった猛烈な2人の女の殺し合い。バックには渡辺宙明のもの悲しい主題曲が切々と流れる。

 溝口『赤線地帯』や、川島『赤線玉の井 抜けられます』といった、問答無用の売春防止法がらみの名作2本とは比べるべくもないが、社会性には乏しいものの、人間のむき出しの感情をえぐったこの作品もまたよし。

 なお、私自身はひたすら緊迫しながら見ていたいくつかのシーンで、会場のそこかしこからは笑い声が聞こえてきた。笑いどころだったんだろうか・・・。修行不足である。

2007/9/28

コッポラの災難  ノンセクション

 報道によると、フランシス・コッポラのブエノスアイレスの自宅に強盗が入り、パソコンやカメラ類を奪われたという。

 PCには次回作のシナリオが入っており、コッポラはひどく落胆しているらしい。
 推測するに、そのPCは脚本のラフだけではなく、コンテや演出構想メモ、未決の挿話やら備忘なども全部入っていたのではないだろうか。

 私ごときでも気持ちは痛いほどよくわかる。PCがなくなるというのが、どれだけの大事件か。実は我が家にも10年前に強盗に入られたことがあるからだ。
 幸い金目のものなんか一切ない家なので、きっと業を煮やしたんだと思うが、よりにもよってパソコンだけ持っていかれた。被害はそれだけである。家の者が留守だったのは、不幸中の幸いだった。

 数ヵ月後、犯人グループがつかまり、盗品を押収したから確認に来いと警察から連絡があったが、私のパソコンは戻らなかった。
「換金しやすいコンピューターは、真っ先に売り飛ばされたのでしょう」、というのが警察の説明だった。

 パソコンは失われた。従って1997年以前に私が書いた文章は、活字になったもの以外は(そんなもの一体どれだけあるというのか!)一切なくなってしまった。
 よりによってバックアップデータのFDも、まとめて持って行かれたからたまらない。パソコン導入以前に書いたものも、全部データ化してしまっていたため、20代に書いた文章はすべて消滅した。思い出してもとにかく悔しい。いかにも惜しい。

 無論、コッポラが失ったものと、私が失ったものなんかでは、その価値に天文学的な差があって、比べるなどおこがましいにもほどがあるが、心の痛みくらいは共有できる。
コッポラ宅に入った犯人どもは、自分たちが盗ったものに、どれほどの価値があるのか、わかってのことだろうか? 同じ重さの金塊などより、はるかに重要なものなのだが。
コッポラのためにも、映画のためにも、ひとごととしてでなく、心から返してほしいものだと思う。

2007/9/27

『未知との遭遇』製作30周年  映画

 やっぱり体調がすぐれない。根気が続かなくってだるい。たぶん、体の中では咽喉がいちばん弱くって、そこからやられる。でも休めないという労働者の哀しい性。

 さっさと寝ればいいのに、ネット内を探索していると、ああ、またこんなニュースが。

 『未知との遭遇 製作30周年アニバーサリー・アルティメイテッド・エディション』

 DVD3枚組。とうとう、オリジナル劇場版と、「特別編」と、ファイナルカットが1セットに。

 メイキングなどの特典はこの際、無視。
 つい先日、昨今のDVDリリース状況に腹を立てたばかりだけど、この場合はしかしもうしょうがないね。ほぼ30年ぶりにオリジナル劇場版に再会できる喜び!

 12月29日。年末年始の楽しみには最高の贈り物か。

 ブルーレイ版も微妙に仕様を違えて出るようだけど、とりあえず関係なし。

 一瞬、デビュー前の習作、“Amblin”や、“Watch the Sky!”とかも収録されないかな、と期待したけれど、さすがにそれは無理みたい。

2007/9/26

「芸術新潮」9月号  美術

 もう、次の号が出てしまったので遅ればせになるけれど。

 「芸術新潮」9月号を最高に楽しむ。特集は「ニューヨーク全一冊 美術館をめぐる冒険」だ。

 マンハッタン島内だけでなく、クイーンズやブルックリン地区にも足をのばして、「ニューヨーク」の美術館をあますことなく特集している。確かにこれ1冊所有していれば、とりあえず「今」のニューヨークのアートがわかろうというものだ。

 決して知らなかった訳ではないが、35点に満たないといわれるフェルメールの作品のうち、実に8点までがニューヨークにあるのだ。しかも、それぞれ軽く歩いて移動できる距離に。
 そのうち3点はフリック・コレクションにある。その3点とも、個人の大富豪が購入した「個人像」だというこのスケールの大きさ。私自身もフリック・コレクションには行ったことがあるが、それはロココの部屋を見たかったからだ。室内びっしりロココ調で飾られ、壁には8点のブーシェの真作。これ、個人の部屋なわけである。無論、その部屋の紹介も本書にあり。

 書き出せばキリがない。MOMAやMETのような超メジャーの紹介はもちろん、巨大作品を主とするディア・ビーコンまで。前ページがカラー。キャプションや解説文も情報も専門的かつ読みやすく、レイアウトも申し分なし。紹介作品も、まったく疑問の余地なく、適切だ。あれがない、これがないといった、ないものねだりを一切感じさせない。

 巻末には芝山幹郎さんの、ニューヨークエッセイも抜け目なくあしらって、ぜいたく極まりない。

 1980円と、通常の号よりも高めの設定だが、もしも未見、未購入の向きがあったら、断固バックナンバーを買うべき、永久保存必須の1冊。

2007/9/25

『別冊映画秘法 グラインドハウス映画入門』  

 ひどい風邪。激しい咽喉の痛みと、耐え難い全身のだるさ。わずかだけど発熱。動けない。病院へ。1時間半待ち。病院に行ってかえって悪くなるような気になる。

 順番を待っている間、『別冊映画秘法 グラインドハウス入門』を読了してしまう。
 最高に面白い。特に三留まゆみさんの「図解 1970年代日本名画座作法」をおおいに楽しむ。

 ただ、グラインドハウス系の映画というのは、この三留さんの「図解」が指し示す通り、映画史的な新たな知識を得て、それをしかるべき系譜の中に位置づける、というよりは、名画座時代を知るオールドファッションなシネフィルにとっての、ノスタルジーを刺激する以上のものにはならないのかもしれないと感じる。
 
 『プラネット・アース』の時にも書いたけれど、こういう映画というのは、何百本とまとめて見て、その総体でとらえないと何の意味もなくって、今後の生まれてくる(かもしれない)映画好きがDVDとかで、気まぐれに数本観たって、ただのバカ映画だというに過ぎないのだから。本書内で町山さんも言うとおり、「99パーセントはくだらない」(P.54)んだから。

 それにしても、シルベスター・スタローンの実の息子さんが(たぶん『ロッキー5』に出てきたセージ君だよな?)、成長してただのOTAKUになっていて、現在アメリカでグラインドハウス系のビデオをリリースする、「グラインド・ハウス・リリース」なる会社の経営者になっているとは知らなかった!(P.46,P.94)

 やっとクスリをもらって、飲んで、後は終日昏々と眠り続ける。今目が覚めて、この日記をちょっと書いて、メールチェックだけして、また寝る。

2007/9/24

ベルト・モリゾ  美術

 最愛のベルト・モリゾの大展覧会『ベルト・モリゾ展』を損保ジャパン東郷青児美術館へ。これだけたくさんのモリゾを見られる幸せを噛みしめる。

 展覧会の人の多さにはほとほと嫌気がさしていて、まず足を運ぶことはないのだけど、モリゾは特別。しかし、ほとんどお客さんがいなくて、ゆっくり見れてしまったのは、どこか複雑な思い。知名度の低さを思い知る。

 詳細レビューはこちらにアップ。
http://members.aol.com/Nanba85008/morizot.htm

2007/9/23

『さらば、ベルリン』など  映画

 スティーブン・ソダーバーグ『さらば、ベルリン』
 ソダーバーグの最高傑作が登場。とにかく固唾を呑む105分。

 現代の技術で、1945年のベルリンを、オールド・ハリウッドのスタイルで撮る。こういうことをされてしまうと、タランティーノとロドリゲスのやっていることが、いかに趣味の延長(だがすばらしい)であって、映画の側道でのお祭り騒ぎにすぎないか、ということがわかる。

 これは、ナチス・ドイツとの闘いには勝つには勝ったが、もう既に「冷戦」と呼ぶ次の戦争が始まっているという、第二次大戦の触れられていそうで、触れられなかった、ポツダム宣言前夜のできごとだ。ある意味、こちらを“The Longest Day”ととらえることもできそうだ。

 それを、マイケル・カーティスを彷彿させる、ハードボイルド・メロドラマの手法を借りて、結局は欲と打算がすべてだという、戦争のはらわたの部分を物語る。
 
 どんな手法かというと、黒幕が誰なのかわからない。部屋のドアをあけると、そこに見知らぬ誰かが待っている。ドアの影には誰かがひそんでいて、何かが頭に振り下ろされる。その中心には謎の女がいて、その女は複数の男と体の関係がある。女は以前、主人公の男の情婦だった。といったところだろうか。(走る車の背景を、はめこみ画像で処理する古臭い手法も泣ける)
 オープンセットで作られた、陥落したベルリンの街並みが、とにかくすばらしい。記録映像のフッテージも絶妙にとりまぜ、画面の空気も絶妙。
 
 相変わらずクルーニーが何しろよくて、この人もアメリカ映画の水準を引き上げてくれる、かけがえのない俳優だ。

 
 ロバート・ロドリゲス『プラネット・テラーinグラインドハウス』
 さすがにこれを見せられると、「グラインドハウス」系の映画は、それ1本だけあってもなりたたないということが、よくわかった。

 こういう映画は、3本立てでまとめて観て、週代わりで毎週観て、300本くらいを消費した結果、ジャンル全体として、「いいね!」と満足すべきものなのだ。
 
 だから、タランティーノとロドリゲスが、プロダクションを持って、こうした映画を、年に50本くらい量産してくれて、『プラネット・テラー』がそのうちの1本だと言うなら、グッド! と思うのだけど、これ1本なのだから、それはただのジョークだ。
 
 なのに『デス・プルーフ』の方が、あれほどすばらしかったのは、おそらくタランティーノは、そうした限界をわかっていて、アートとして作りこんだからだ。
 それはたぶん、ゴダールを見ているタランティーノと、見ていないロドリゲスとの差として、ここで歴然としたというわけなのだと思う。


 ティム・ストーリー『ファンタスティック・フォー/銀河の危機』
 最初から最後まで、とことん満足する。ことによったら、マーベル系の映画として『スパイダーマン』より、『F4』の方が好きかもしれない。

 そして、このヴィジュアル・イメージの美しさ、かっこよさは、もはやアートの域に達するのではないか。よほど腕のいい、デザインスタッフを使っているはずだ。
 
 難点は一つだけ。泣けるくらいかっこいい、新メカのフライングカーとシルバー・サーファーのチェイスが、万里の長城あたりで繰り広げられるのだけど、夕闇もせまった夕方にしてしまった。これは、ぜひともピーカンの空でやるべきだった。ちょっとCGをケチったか。ここだけ残念!

2007/9/22

糧  映画

 朋輩・天津啓史郎さんが、関西から東京にいらしてくださる。
 夜お会いして、パスタをほおばりながら、尽きることなく続く映画談義をさせていただく。あわただしい中、お時間割いて頂き、ひどく恐縮である。

 結論はただひとつ。謙虚に真摯に映画を見ようねということだ。来年はインディ・ジョーンズの新作も、ジェームズ・キャメロンの新作も待ってるぜ。オレたちは、ゾンビに襲われようが、おすぎの非映画的な攻撃に日々さらされていようが、まだまだ死ぬわけにいかないのだ。

2007/9/21

ペンギン・カフェ・オーケストラ  音楽

 ペンギン・カフェ・オーケストラ『ベスト』(commons)を聴く。

 なんとも落ち着いた、風通しのいいサウンドがとても心地いい。
 80年代には、ずいぶん流行ったと記憶している。ペンギン人間のジャケットのレコードは、ずいぶん出回っていたし、喫茶店やらCMとかでも、ずいぶん使われていたのではないだろうか。

 実は、その当時はまったく聴こうとは思わなかった。むしろ大嫌いだった。涙のサンダー・ロードな熱さを求めてやまぬあの頃は、PCOの音楽など、どう考えてもかったるく、生ぬるい音楽だったからだ。
 この歳になって、さすがに「さあ、俺の手をとるんだ、約束の地へ今夜乗り出そうぜ」などと言うのは厳しい。そんな責任しょいきれない。

 今回、坂本龍一が中心となる新レーベルcommonsからリリースされたのをよい機会として、真面目に聴いてみると、こんなにも多彩な音のからみあいから成り立っていたか、このバンドの音楽は、と新発見。

 リズム主体とも、メロディ主体ともつかない、リズムそのものがメロディであり、メロディラインそれ自体がリズムを伴っている。そして、楽曲全体でビートを刻んでいる。
 
 夜、ひとりで静かに画集かなんかをめくりながら、妄想にふけるのに適度な音楽だ。眠くならないし、そのうえ、考えを妨げない。
 まだまだ暑いが、秋を前によい音楽にめぐりあえたなと感激する。



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