2007/10/31

赤川次郎  音楽

 朝日新聞の夕刊には、毎週水曜日に赤川次郎がオペラについてのエッセイを連載していて、これまで赤川次郎の文章は1行も読んだことがなかったので、まるで知らなかったけれど、かなり妥当、真っ当なことを書いていてとても面白い。

 今晩の話は、近年のオペラ上演は演出家上位の時代になっているが、しかし演出家たるもの、最低限、歌唱者が歌に集中できるような環境、少なくとも安全性には注意をはらった舞台をあつらえるのが、最低限の礼儀というものではないか、という意見を述べている。

 その例として、話題になった先のベルリン国立歌劇場/バレンボイムの『トリスタンとイゾルデ』でのこと。
 舞台装置は天使だかなんだかのオブジェが置かれているだけだったらしいのだが、どうもそこに歌手がのって歌ったりするらしい。
 そこを昇るとき、歌手のひとりがどうも足をすべらせ、膝をついてしまったそうだ。なんとか歌いきったそうだが、かなり気にしていたとのこと。
 かと思うと、その上でイゾルデの死が演じられたとき、オブジェの凸凹がかなりつらかったようで、演者の身体が動いていたらしいのだ。
 そうしたことを避け、安全のために布を敷いたり、しかるべき加工をするなど、歌唱者に配慮しても演出意図を著しく妨げるものにはなるまい、というのが要旨で、実に誠にもっともだと思う。

 こういう意見はとっても貴重ではないだろうか。
 オペラ演奏の向上のために、赤川次郎のように、知名度と発信力の高い書き手が、側面から意見発信するのは大切なことだと思う。赤川次郎に対する信頼がぐっと上がった一幕。

2007/10/30

ジョン・アーヴィング  

 帰路、書店をのぞいたら、予告されていた通りジョン・アーヴィングの新作『また会う日まで』が、上下巻で新潮社から刊行されていた。

 原書から察するに予想はしていたが、それにしても分厚い。上下巻あわせると1100ページをさらに超える。

 私にとってアーヴィングといえばやはり特別な名前である。この人の小説はいつでも、決して取り返しのつかない何かが、決定的に失われてしまった後の、空虚な哀しみが描かれている。
 そして、それが失われてしまった後に振り返って、なお一層かがやきを放つ、失われる前の輝かしき日々。けれど、それは本当に輝かしかったんだろうか。それは、それがまさに「今」であるそのときは、とても悲しくつらいものだったのではないか。
 すると、それを総じて見ると人生は全体としてどうなんだろうか。つらいんだろうか、よきものなんだろうかという疑問の、漠然とした提示ではないかと思われる。
 かなり乱暴な要約だが、私にとってのアーヴィングとは、どれもそうしたものだ。

 そして、そうした人生観は私をとても慰める。

 いずれ時がたつにつれて、私たちはいろんなあれこれを、決定的に失ってしまう。そして、そのことをいつまでも哀しんでいられるほど、暇な生活をおくっているわけではない。
 だから読むことによって、そうした哀しみを哀しみとして追体験し、自分にとってかけがえのない、さまざまなものどもを追悼させてくれる文学。それが私にとってのアーヴィングある。

 さて『また会う日まで』。このものすごい大著を、とるもとりあえず、今すぐに読み始めるべきか、正月休みの楽しみにとっておくべきか。悩ましいところである。

2007/10/29

マット・デイモン  映画

 おそれいった。今日の「SMAP×SMAP」のビストロのコーナーは、マット・デイモンだ。こうなってくると、これはかなりすごい番組なのではないか。

 話の中で、役作りのために何百時間もリサーチするからね、とデイモン君がさらりと言ったのが印象に残っていて、ここがやはりデイモン君の、というのももちろんだが、ハリウッド映画のすごいところなのではないか。やはり、このクラスのスターは、常人が想像もつかないような、途方もない努力をはらっているのだ。

 ともかく、ブラウン管に写った姿とはいえ、たいへんな好青年ぶりにもまた驚き、かつ好感を持つ。何より、目つきが賢そうでいい。

 ちなみに、最後の歌のコーナーでは、アヴリル・ラビーンがゲストで、これも少しだけ驚くが、でも目つきが泳いでいて、どう見てもラリってるような感じで、大丈夫かこの子?

 素で登場したとき、映画スターはまず間違いなく好感度たっぷりの風情で登場するのだけど、ミュージシャンとなると、ほとんどの場合かなりヤバイ様子なのはどうしてなのか(その最たる人物は、マイケル・ジャクソンか)。

 正気でないと映画は作れないけど、正気だとポップミュージックはできない、ということなんだろうか?

2007/10/28

HASYMO/YMO  音楽

 細野晴臣・高橋ユキヒロ・坂本龍一の3人がそろったらもう無敵。
 その3人が集ってシングルCDが出た。HASYMO名義で“RESCUE”YMO名義で“RYDEEN79/07”
 前夜スプリングスティーンにあられもなく興奮したのも束の間、少々遅ればせだけどようやく聴く。

 CD時代になって、こういうときに味気ないと思う。これがビニールのレコードだったら、A面とB面できれいにわかれるところだろうに。
 そういえば、ふと思い出したけど、『A面で恋をして』という歌のタイトルは、ここ10年くらいに生まれた人間には意味不明かもしれない。
 それから、『しなやかに歌って』で、「夜は33の回転扉/開ければそこには愛があふれているのに」と山口百恵が歌ったあの歌詞は、もうまったく意味がないのだろう。

 というふうに、ふとレコードのことを思い出してしまったのは、“RYDEEN79/07”がどこかアコースティックな響きで作られているからだ。
 私だけかもしれないが、YMOのアンプラグドというのは、一度は聴いてみたい夢の企画ではないだろうか。その擬似的な実現がこのアレンジではないか。
 まるで小学校の音楽室にある、鉄琴に似た音色で奏でられる主旋律に、アコースティック風のギターが伴奏をつける。

 ウィル・スミスの新作『アイ・アム・レジェンド』の予告編を見たとき、人類が絶滅してたった一人の生き残りになったスミスが、生存者を探そうとAM放送で呼びかけの発信をするくだりがあった。
 もし、人類絶滅後にYMO/HASYMOの3人が生き残って、生存者を探そうとするなら、ありあわせの楽器を使ってRYDEENを演奏し、AMでそれを流すのではないか。
 まるでそんな演奏であるかのように感じたのは、いくらなんでも突飛な連想か。

 本気で売ろうと思ったら、フルストリングスの分厚い音色で、壮大華麗にライディーンのテーマを轟かせれば簡単なのだろうと思うが、ぜんぜんそんな次元からは、かけ離れた演奏を聴かせるところが、やはり只事じゃない。

 思いっきり近未来的にソリッドな“RESCUE”と併せて聴くと、音楽を作る彼らの発想力の、宇宙的な無限さに激しく畏怖する。

2007/10/27

ブルース・スプリングスティーン  音楽

ブルース・スプリングスティーン『マジック』

 スプリングスティーンのEストリートバンドを伴った、最新アルバム。5年ぶり!

 「メジャーコード全開のストレート・アヘッドなロック・アルバム」という前評判と、驚異の世界10カ国初登場NO1という情報から、どれだけ感涙ものの歌にあふれているかと、期待ボルテージは上がりっぱなしだったが、いそいそと購入したCDを開封して、曲のラインアップを見た瞬間、その期待値は沸点に達する。

 全12曲。どの曲も演奏時間が3〜4分。この長さでもう“Born in the USA”以来、というよりは“The River”以来の傑作という予感に身が震える。

 1曲目、“Radio Nowhere”! 走りに走る! 分厚いEストリートバンドのサウンドとその音にはこの声ありと言わんばかりに疾走する、スプリングスティーンの声! 2段階に畳みかけるサビを超えたところに、分厚さの中にも今度は質量さえも伴って炸裂する、クラレンス・クレモンズの喇叭の叫び! その音が天を衝いて吹き切られ、音の残像がまだ残るところに、サビのメロディの姿をもって再び帰ってくるスプリングスティーンの歌!
万事がこの調子である。
 昔風の表現を使うならば、全12曲、どこからでもシングルカットOK! のアルバムなのだ。

 100%満足だ。いや、200%満足だが、しかし“The River”とか“Born in The USA”の夢をもう一度期待するのは、やはり間違いだと改めて感じもした。

 “The River”のレコードを擦り切れるほど聴いて、実際擦り切れてしまって、もう1セット買った頃とは、何から何まで変わってしまっている。“Born in the USA”に至っては3枚買ったのではなかったか。
 まだ未来なんか定まってなかったあの頃は、ロックに何かを託していた。アメリカ合衆国に間違いなく何かを、というよりはすべてを託していた。そして、スプリングスティーンにすべてを許していた。

“When I'm out in the streets,Oh-O-Oh-Oh,I walk the way I wanna walk!”

 の煽動に身を委ねて迷いがなかった(それにしても何と自由感の漲る歌詞だろうか)。

 その後、ダウンロードの跋扈する世界にロックに何かを託すわけにはいかないし、合衆国など言わずもがなである。
 そして、その声が強く遠くに響き渡るほどに保守陣営に利用され、その勘違いを二度と招かないためには、内省の度合いを増す他なかったスプリングスティーンに何かを委ねるのは、それはこちらが間違っている。

 そういえば、シングルカットなどという言葉も死語になって久しい。
 時代はもはや元に戻ってはくれないのである。

2007/10/26

『パーフェクト・ストレンジャー』  映画

ジェームズ・フォーリー『パーフェクト・ストレンジャー』
 
 監督ジェームズ・フォーリーは、かつてクリス・ウォーケン/ショーン・ペンが父子を演じた『ロンリー・ブラッド』や、デビッド・マメット原作の『摩天楼を夢見て』といった、すさまじい傑作を撮った、実績のある監督である。

 「ラスト7分11秒まで、真犯人は絶対にわからない」とか「あなたは絶対ダマされる」というのが宣伝コピーだが大ウソだ。よっぽどぼんやり見ていない限り、バカでも結末というか、仕掛けがわかるよう、監督はきちんとたくさんの伏線を張っている。だから、フォーリー監督のこれはかえって良心だと思う。

 「意外な結末」とやらに拘泥するあまり、思いつきでやってるようなラストを作って、じゃあこれまで見せられてきたのは何なんだよ、と思わされる映画が無数にある中、いっそ気分は決して悪くない。

 ただ、いかんせん内容が陳腐だ。
 どうも察するにネットを介したチャットの相手とか、携帯の着信メールの発信元というのが、実際のところ誰かはわからないという不安と、そこに無感覚になっている現代の病理を撃とうというのが、シナリオの肝のような気がするけれど、そんなことはいい大人なら感じていることに決まっていて、そこを鹿爪らしくドラマ化するにはあたらない。

 ハル・ベリー以外の全員が眉間に皺をよせまくって、強いストレスの中で活動しているのは伝わってくるけれど、その表面的な深刻さとドラマの深さがアンマッチと言わざるを得ない。
 結果、この作品の喜びは、ひたすらゴージャスなハル・ベリーといったところ。

2007/10/25

四方田犬彦  

四方田犬彦『人間を守る読書』(文春新書)読了。

 この著者はあまりにも大量に書物を刊行するので、一年中読まされているような気がする。
 これは様々な書物の時評的な短文を集めたもの。いつもの見識が披露されていて、とても勉強になる。

 三島の『春の雪』に関する文章は、行定勲による映画化版の劇場用パンフが初出なのだけど、肝心の映画のことには一言も触れていないところが、四方田さんの行定作品に対する評価が自ずと表れているようで面白い。
 
 その『春の雪』の別文では、「日露戦争をめぐる二人の貴顕の青年の対話から始まる」、その冒頭の文に対して、
 
 「物語の設定は1911年から13年、つまり明治が大正に改元される前後である。日本が急速な西洋風近代化をある程度まで達成し、ふっとひと息ついて、達観の姿勢をはじめて取り出した時代。」と要約し、

 「この冒頭はとてもいい。もし両対戦間のドイツの思想家ベンヤミンが生きていてもし読んだとしたら、必ず言及したであろう、複製芸術と記憶とアレゴリーの交錯するエクリチュールが、ここに体現されている。」(P.233)
と書く。
 すこぶるカッコいい読みである。こうした読み方、書き方は大好きだ。

 というわけで、著者はいちばん悪い読書は、勉強のため、仕事のために読むことであるとし、一方、理想的な読書を、それとは無関係に、好きな本だけを気の向くままに読むこと、と定義する。
 この小さな本は、その「理想的な読書」の記録。楽しく読む。

2007/10/24

マイルス・デイヴィス  音楽

 小川・平野『マイルス・デイヴィスとは誰か』を読みながら、マイルスがブルーノートに残した2枚のアルバム“Miles Davis Volume1,2”を聴いていた。

 1952年〜1954年の演奏で、この2枚でマイルスがブルーノートで録った全演奏がコンプリートになる。マイルスが、ドラッグ漬けでこてんぱんのジャンキー時代である。ちなみに私が持っているCDは、エディ・ヴァン・ゲルダーが2001年にリマスターしたバージョン。
 (なお、ブルーノートのマイルスは他に、キャノンボールがリーダーをとった“Somethin’ Else”があるので念のため)

 このブルーノート版、数あるマイルスの中でも比較的繰り返し聴いているもののひとつである。というのは、言葉の最良の意味で普通だから。
 
 これ以後の、特にモードに突入して以後の演奏は、いろいろいろいろ考えさせられてしまって。とてもじゃないが、本を読みながら聴けるような音楽じゃない。
 たとえば、“Agharta”や“Pangaea”を聴きながら読書できる人間がいるだろうか。

 けれど、ブルーノートのこの演奏は、普通にリズムに身を任せていられる。もちろん、単なるBGMというわけではなく、とうとうジャッキー・マクリーンにソロなどとらせやしない、自分ひとりで最初から最後まで吹ききってしまう“Yesterdays”みたいな、集中力の極限のようなワンマン演奏もあったりして、まったく気は抜けないのだけど、少なくとも「何かとんでもないことをやっているかもしれない」といった、ピリピリした部分がない。
 それに、同時期にプレスティジで録った、“Dig”や“Bug's Groove”と比べて、演奏に落ち着きを感じる。
 
 このブルーノートの演奏を基準にして、私なんかはCBS以後のマイルスを計測したりする。そう、文字通り「スタンダード」なのだ。

2007/10/23

小川隆夫・平野啓一郎  

小川隆夫・平野啓一郎『マイルス・デイヴィスとは誰か』(平凡新書)読了。

 好著『Talkin'』に続くコンビの、新書によるジャズについての2冊目。

 マイルス・デイヴィスを直接語るのではなく、マイルスの周辺にいた、彼と共演、あるいは彼が意識したミュージシャンなど21名を選出して、小川・平野各々が短文を寄せた1冊。
 それぞれがそれぞれの、見識と経験を生かしてそれぞれに興味深いことを書いている。

 ただ、平野によるマイケル・ジャクソン&クインシー・ジョーンズの章はさすがに甘くて、これなら私の方がはるかに面白く、参考になるものが書けるぜ、そもそも『スリラー』リリース時にたかだか7歳だった奴に、あの熱狂とムーブメントの何がわかるというのだ、とせせら笑ったのも束の間、何章か先のマーカス・ミラーの稿では、音楽は80年代にプロデューサーの時代に入り、レギュラー・メンバーを抱えてプレイすることは時代遅れになった。
 そこにマイルスは気づいており、見るがいい、だから90年代に入れば、フュージョンは時代遅れになり、ロック・グループの多くは死滅した。
 そしてその認識が、マイルスによるプロデューサー、マーカス・ミラーの抜擢であると、まったく正しい時代見識を示す。

 また、終章での対談においても、“黄金のクインテット”時代のハンコックは、アルバムを重ねるごとに、バッキングしなくなると。
 なぜかというと、その時期に作っていた複雑極まりないリズムの中に、マイルスが自分の演奏スペースを必死で探り当てようとする中、ピアノという楽器のソリッドな和音がぶつかってくるのは、邪魔であったのに違いなかろう。
 であるが故に、フェンダー・ローズのように、じわっと浸透するような音の方が障害が少なかった。それがマイルスの4ビートの解体、そしてエレクトリックへの必然であると、分析する。
 この子すごいな! 異議なし。まったくもってその通りだと思う。
 
 一方、小川さんの方は、こちらはさすがに実際のマイルスの口吻に接したことのある、年の効だけあって、それこそプリンスとマイルスの遺されなかった共演について、興味深い逸話をあれこれ披露する。
 
 たかだか新書にすぎないので、軽うい読み物にすぎないが、光る見解がたくさんある、よい本だ。

2007/10/22

切通理作『情緒論』  

切通理作『情緒論−セカイをそのまま見るということ』(春秋社)読了。

 細かい書評は別途書かなくちゃ、とヘンな義務感に駆られるので詳細はまたにするけれど、一読してそれにしても上手いな、と思う。
 「上手い」なんて言葉は失礼の極みだけど、それにしても「情緒」というキーワードから、つきつめていくと自分の「好きなもの」のばかりを取り上げて、その中のそうした部分、それを「なつかしい」、「せつない」、「不如意」、「ぬっと出る、もの」といった言葉に巧みに変奏して、全体をまとめあげる。

 切通さんの、前2冊も「失恋」、「ときめき」といった、何か心を振るわせる感情に、ピンポイントで言葉を与えてそれを浮かび上がらせたものだった。今度はそれが「情緒」というわけである。

 人は涙が出たり、ツーンとしたり、胸の奥があったかくなったり、いろいろな感情が働くけれど、多くの場合それがどんな感情なのか、よくわからなかったりする。

 たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の第弐十参話「涙」の回で、綾波レイが爆死(?)する寸前に涙がはらはらと零れ落ち、それを不思議そうに見る表情だ。
 それを誰かが綾波に「情緒」と言うのだと教えてあげればいい。その感情に名前をつける。そうすることで、自分がわかり、そしてセカイがわかるのだと思う。

 そのようにして、切通さんは人や作品や都市を観察していく。だから、たとえば下北沢再開発に対する抵抗に対して共感を寄せる。
 これは無自覚的なものを自覚的にする作業であり、自覚的になることによって、無自覚的に何かが失われていくことに、アラームが出せる。これはとても意味のある仕事だとおもう。

 なお、ハイライトは実相寺昭雄監督との対談。実相寺監督の女性観としても、これは貴重な記録。



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