2007/11/30

とてもつまらない話題  映画

 ここ昨今のリメイクというのは、「ブーム」というわけではないと思うけど、ほんとにがっかりすることばかりで、それがハリウッドでも日本でもそうだから困る。
 
 またうんざりするようなニュースを聞いたところでは、『ベスト・キッド』のリメイク企画が進行中とか。
 ラルフ・マッチオの役をウィル・スミスの息子で、パット・モリタの役をこともあろうに、ジャッキー・チェンないしはチャウ・シンチーとか。
 
 実際に撮影されるのかどうかはわからないけれど、いろんな意味でなんだかこう、つまんなくなる。「リメイク」というのが、確実に売れるという実績ができているわけでもないだろうに。というか、失敗している確率の方が高いんじゃないか?
 
 アビルドセンつながりってことで、そのうち『ロッキー』とかもリメイクされたりするんだろうか。そのときはバージェス・メレディスの役をスタローンがやったりして(しかし、それってリメイクなのか?)。
 
 『クレイマー・クレイマー』や『カッコーの巣の上で』なんか狙い目だよな。『スティング』をジョージ・クルーニーとブラッド・ピットでやれば実にお手軽に作れそうだ。リスクもないしな!

 と、思いながらあれこれ新着情報をながめてたら、えっ? 『隠し砦の三悪人』もリメイクになるの?? え、えっ??? 樋口真嗣????

2007/11/29

『ランボー2/怒りの脱出』  映画

 やれやれと夕食を食べながら、何となくテレビをつけたら、いきなりジョン・ランボーの顔が飛び込んでくる。『ランボー2』をやっていた。
 夕方に子どもらがポケモンを見たチャンネルが、そのまま残っていたのだ。

 基本、テレビで映画は見ないけれど、ひきこまれるように見てしまう。20年ぶりだ。自慢じゃないが、私は『ランボー2』なら、最初のカットから最後のカットまで、頭の中でそのまんま映写できる。封切当時100回は観ているから、隅々まで知っている。

 テレビをつけたとき、ちょうど囚われの身になったランボーが、床下に忍んできたヒロインとアイコンタクトを交わしつつ、見事なまでに華麗な連携プレイで脱出に成功するシーンをやっていた。

 見事の一言に尽きる。ここからの脱出劇のこたえられぬスピード感。
 『ランボー2』はもちろんゴミ映画である。けれど、シルベスター・スタローンのこの見事な動きのキレが、すべてを凌駕して余りある。
 
 密林の中を、ものすごい勢いで突っ走り、湧き水に濡れたジャングルを、スライディングしながら滑りぬける。(演技にしても、この茂みを上半身裸で腰から滑っていくのは、相当な苦痛が伴うはずだ)
 
 スタローンほど走るシーンが、速く、そして美しいスターはまずいない。私は「走れない俳優は2流だ」という確固たる信念を持っているが、それは『ランボー2』を見たからだった。
 
 スタローンの走りに匹敵する現代俳優は、正確に3人だけ。トム・クルーズとキアヌ・リーブスとレオナルド・ディカプリオである。
 常日頃、私はトム・クルーズ以後に登場した俳優で認めるのは、キアヌとディカプリオの2人だけ、といってはばからないが、その理由は彼らだけが「走れる」俳優だからだ。
 ブラッド・ピットもマット・デイモンも走れない。クルーニーでさえギリギリ失格。ジョニー・デップなど論外の論外のそのまた外だ。
 
 スタローンと同世代のライバルとおぼしき、シュワルツェネッガーが走れるか。走れない。だからシュワルツェネッガーの映画は、彼の名前だけでは傑作足りえない。ジェームズ・キャメロンと組んで初めてシュワルツェネッガーは屹立するのだ。
 
 その、ジェームズ・キャメロン。どれだけ世間的に知られているのか、この『ランボー2』の脚本担当である。

 本人は、オレのシナリオはスタローンにすっかり書き換えられてしまったとぼやいているが、それでも『ランボー2』のスピード感は、まぎれもなくジェームズ・キャメロンの息がかかっていることによるはずだ。
 ことに、ヒロインを殺されたランボーが怒りのゲリラと化してからは、ラストまでまったく気をそらさず、ものすごいテンションで引っ張っていく。

 そして、舞台が密林の中の孤独なゲリラ戦から、やがて居住区の大量破壊へ。そして大渓谷での決戦を経て、ついにはヘリコプターによる空中戦という、どんどん戦いの空間が拡大、パノラマ化していくという、この見事な作劇構造は、これは絶対にスタローンのものじゃない。もう間違いなくジェームズ・キャメロンそのもののやり口である。

 ブレイクしたタイミングの微妙なズレのために、シルベスター・スタローンをジェームズ・キャメロンが演出することはかなわなかった。
 けれど、『ランボー2/怒りの脱出』はあり得たかもしれない、スタローン/キャメロンのタッグをかいま見ることのできる、貴重な貴重な作品である。
 そしてあえて言うが、血沸き肉躍る、空前のアクション大作の名作である。

2007/11/28

並木透  映画

 この21日に、金子正且さんが亡くなっていたことを知る。86歳。金子さんは、小津の『小早川』や成瀬の『乱れ雲』のプロデューサーというよりは、私なんかにとっては、銀座並木座の取締役として、とてもお世話になった思いがある。

 これまで見た日本映画の95%は並木座でのことだし、何より上映プログラムの一口コラムでのペンネーム「並木透」と聞けば、忘れていた何かをぱーっと思い出す人も多いのではないだろうか。

 残念だ、というにはあまりにも存在として遠い方だけど、小津も溝口も成瀬も黒澤も木下も、全部並木座で勉強させてもらったということを考えると、ご冥福を祈るのみである。

1年に一回必ずかかる、こうした巨匠たちの特集上映は必ず通ったものだった。おかげで、『秋日和』も『驟雨』も『残菊物語』も『野良犬』も、何度も見たのでいまさら超満員(?)の恵比寿や新宿などでの特集に(しかも高い)ガツガツしなくてもいい。
(そういえば横山博人の『純』を見たのも並木座だ。なんだか信じられない。)

 シネマヴェーラは今どき貴重な劇場だけど、よくないのはその特集上映のラインアップを全部見ることが不可能なことだ。平日にしかかからない作品が多すぎる。

 その点、並木座は2本立ての同プログラムを、土日を含む1週間きちんとじっくり流していた。だから、全作品を見ることができた。
 商業的な問題や、プリントのことなどいろいろあると思うので、シネマヴェーラを責めるつもりはまったくないけれど(何より、劇場そのものの質が段違いにいい)、失ったものはとても大きいと思う。

 並木透さん=金子正且さんにご冥福を。

2007/11/27

踊り明かそう  映画

 我が家の地域の各小学校が一堂に会して、地元のホールで音楽発表会。2年に一度の行事である。こういうのを平日にやられると見に行けないので非常に腹立たしいのだが、幸い録画を見せてもらう。
 とある小学校の演奏で、曲目が『キャッツ』から「メモリー」と『マイ・フェア・レディ』から「踊り明かそう」だった。
 
 「メモリー」は、まあいい曲だけど、しかし「踊り明かそう」になぜだか涙が出てきてしまう。
 寝巻き姿のオードリー・ヘップバーンが、感極まって枕を振り回しながら、歌いだすあのシーンが不意に思い出されてきたからだ。破けた枕から飛び出た羽毛が降り注ぐ中、歓喜の歌を歌うオードリー。中学生のころ、テアトル東京の70ミリ大スクリーンで見たときの喜びが甦る。

 そのオードリーも、レックス・ハリスンも、何よりもジョージ・キューカーももういない。けれどもスクリーンのオードリーは、あんなにも生き生きと♪〜I could have dance all night♪ と歌い踊っているのだ。

 『キャッツ』も実はかつてニューヨークのブロードウェイで観劇して、「メモリー」にも涙をこぼした記憶があるが、しかし残念ながらその場面の一つたりとも思い出すことができない。(とはいえ「メモリー」だって、これは掛け値なしにいい歌だと思う)

 やはり映画はすごい。オリジナル舞台のイライザ役であるジュリー・アンドリュースも、もちろんすばらしかったのだろうが、そのシーンと共には誰の記憶にも残っていないはずだ。
 だからこそ映画はいい。他の何よりもいい。改めて映画の素晴らしさをかみしめる。

2007/11/26

エルトン・ジョン  音楽

 エルトン・ジョンが来日したので、ぜひ行きたかったのだけど、1万円を超えるこの料金はやはり出せない。ビリー・ジョエルとのジョイントを含めて、過去3回聴いているからもうあきらめた。

 で、今日の朝日夕刊にそのコンサート評がのったので、せめてものと思って読み始める。一読「???」。

 「ド派手ないでたちのスーパースターは元々、私的な歌詞を詩的な旋律にのせて歌う内省的なピアノマンだったのだ」
とか、何言ってんだか。そうじゃなくて、あえて書き直すならば
「私的な歌詞を詩的な旋律にのせて歌う、ド派手ないでたちのスーパースターでピアノマン」というのが正解じゃないか。

 この筆者は、もともとロマンチックな歌を歌っていた歌手が、その後にド派手ないでたちを始めたかのように書いているが、大間違いだ。70年代のエルトン・ジョンを知らないのか。
 とりあえず、「内省的」とか「詩的な旋律」といった表現の妥当性は問わずにおくとしても。

 それから、「バックのストリング音とからみあい、低音がぴたり、はまったのだ」と書いているけど、おいおい、このステージは「ソロピアノによる」と自分で書いているじゃないか。
 そのストリングは突然どこから出てきたんだ。「はまった」という「低音」はなんの音なんだ。そもそも「はまる」というのはどんな状態を指すんだろうか。

 こんな感じで、全文が意味不明の報告に満ちていて、思わず目を疑い、つい3回くらい読み返してしまう。
 記名記事だが名前は出さないけれど、こういうエルトン・ジョンのことも、音楽のことも知らない、というか文章を書けないライターが、朝日新聞にコンサート評を書くのだなあと、恐れ入る。

2007/11/25

村上春樹  

村上春樹『村上かるた うさぎおいしーフランス人』(文藝春秋)読了

 読んだというか、目を通したというか。
 片付けをしていると書籍の包みが出てきて、開いたらその中に含まれていた。どうやら発売日に買ったまま、存在を忘れていたみたいだ。そのため今さらの読書に。
 
 前書きで著者本人が書いているように、「まったく世の中のためにはならないけれど、ときどき向こうから勝手に噴出してくる、あまり知的とは言いがたい種類のへんてこな何か」の放出。
 
 それにしても、こういうものがこれだけの量を伴って、「あとはもうなにしろずるずると、手ぐすねをひいていたみたいに勝手に出てきて、あっという間にこれだけのものがたまってしまいました」というのも、これもものすごい才能だと思う。
 こういう感覚は、やはり関西人の血のなせるわざなのだろうか、と関東人の私は勝手に思う。

 ほとんど感想はないけれど、第2部(なんと2部もあるのだ!)の「い」のかるたで、「003.5は半殺しの番号」ってことで、「そのスペシャル・エージェントは「半殺しのライセンス」しか与えられていなかったわけです」というのに、不覚にも笑ってしまう。

2007/11/24

たむらまさき・青山真治  

たむらまさき・青山真治『酔眼のまち―ゴールデン街 1968年〜1998年』(朝日新書)

 撮影監督たむらまさきが、つれづれなるままに語る体験記を、青山真治が聞き書きした本。あんまり面白いので一気読みしてしまう。

 「何度も言うけどこの頃、おれは角川を本当にやりたかった。悔しかった。」(P.142)という言葉が印象に残る。これだけの実績を作った人でも、やはり遣り残し感を持っているのか。そして、映画はやはり予算なのであって、使えるものなら使えるだけ使いたいと常々思っているのだろうなと。
 
 予算というのは多分、可能性の幅だと思う。きっと映画人はそうした幅がほしくてしかたがないのではないだろうか。
 黒沢清が『映画の授業』の中だったか、フリッツ・ラングのような影がほしくって、そうカメラに指示したらそんなの無理だと。あんな影を作るためにはものすごい照明が必要で、そんな予算はないと言われたというエピソードを思い出す。
 
 おそらくそうしたことを知り抜いた撮影監督は、頭の中に理想の画がものすごくたくさんあって、そうした予算上の欲求不満をもしかしたら監督よりも、一層痛切に抱えているのだろうな、と想像する。

 そうした撮影監督の眼が、映画を離れてゴールデン街と、そこに集う人間たちへと向けられる。70〜80年代の重要な映画人たちがどのような構えで映画を作っていたか、ゴシップ的なネタが出てくるわけではないが(そんな下品なことをするわけがない!)、オフィシャルな映画製作誌では決して書かれることのない、裏の集いの証言がここにつまっている。

2007/11/23

『ナンバー23』,『フライボーイズ』,『4分間のピアニスト』  映画

ジョエル・シューマッカー『ナンバー23』
 たまたま奥さん(ヴァージニア・マドセン)が、面白いよと古本を買ってくれて、まあそこからしてどこかおかしな発端なんだけど、その中身をこれはまさにオレだ!と思い込んで精神崩壊していくバカな男(ジム・キャリー)のトンチンカンな物語。
 なんでも、身の回りの数字がすべて23でできていて、その23という数字には取り付かれてしまうんだそうな。
 『パーフェクト・ストレンジャー』もそうだったが、最近のアメリカ映画は、なんだかどうでもいいことを、ものすごく大変そうに語るのが流行りなのか?
 とにかく、この監督・・・はときどきヘンな題材を撮りたがるからともかくとして、ジム・キャリーがなんでまた、この企画にのったかまったく謎。

トニー・ビル『フライボーイズ』
 なんだかこう、無駄にお金をかけていると言うべきか。改めて『トップガン』は偉大な映画だったんだなあと、ふりかえってみて思う。
 少なくともあの映画には、正しいキャラクタライゼーションというものがあった。
それに戦闘機乗りという役柄は、ゴーグルで顔を隠してしまうので、ただでさえ俳優にとっては顔が識別できないというハンデがあるから、トム・クルーズとヴァル・キルマーくらいの強烈なオーラを発する個性が必要だったのだということも、改めて思う。
 その意味でジェームズ・フランコは悪い子じゃないけど、やっぱり脇役の顔だ。超大作を支えられる俳優ではやはりない。

クリス・クラウス『4分間のピアニスト』
 ポスターの後姿のヒロインに、うっかり欲情したのが何より愚かだった。顔を見るとブスだった。
 それにもう、全編????????としか言いようのない、見当はずれのバカ映画。ドイツアカデミー作品賞??? もう言葉もなくあっけにとられてしまう。

 今日は本当に不作だった。こんなものに合計6時間以上も費やす余裕はないのだが・・・。

2007/11/22

ピエール・ブーレーズ  

ピエール・ブーレーズ『現代音楽を考える』(笠羽映子・訳 青土社)読了

 一応、読むには読んだが、正直なところこれはまったく歯が立たなかった。複雑すぎて理解できないし、根本的な音楽的教養がたりない。

 1960年のダルムシュタットにおける夏期講習の講義ノートに基づくというこの本は、ブーレーズが執拗なまでに、セリーの働きと可能性を分類・整理したものだ。
 その作業において、自作曲やウェーベルン、ベルクらの作品の譜例を多数示しながら、それに解説を加えていく。けれど、その譜例たるやあまりにも複雑で、まるでわからない。

 そうは言っても、やっぱりこの本に目を通してよかった。ブーレーズはこれほどまでに厳密に考え、音楽の可能性を探ったうえで、かくも秩序だった作品を産み、演奏を残していたのだ。
 もちろん、どれほどブーレーズ(やシェーンベルグやウェーベルンやベルグ)が、厳密な理論にのっとって曲を作っていても、私はもちろんだが、そんな構造を耳で聴いて察知することのできる鑑賞者は、よほど特別な訓練をした人だけだろう。
 けれども、彼らの作る音楽の背後にある想像を絶する次元の思考が、その音を支えているかと思うと、また聴くときの姿勢も変わろうというものだ。

「聞き手に提供される音楽事象に対する聞き手の立場は、いわゆる音響学的なものによりも、聴衆の心理・生理学に依存しているからである。聞き手は、音響事象が生じる場所を取り巻くエリアの外側あるいは内側に位置する。最初の場合、聞き手は音を観察し、第二の場合、聞き手は音に観察され、包まれるだろう」(P.101)

 と書くブーレーズは、やはり聞き手のこともわかっているのだ。
 そのうえでこうも書く。

「こうして得られた知識の荷物は、私たちの重荷となるどころか、私たちの路銀として役立ち、私たちを思索へと駆り立てることになるだろう。何度も繰り返してきたことだが、音楽は芸術であると共に学問である。」(P.226)

 月並みな言い方になるが、かくも偉大な音楽家と時代を共にすることができ、しかもその生き姿と演奏に接したことがあるという幸運を改めてかみしめる。

2007/11/21

生活の設計2  映画

 作戦行動といえば、2008年初頭はかなりマズイ。

 渋谷Bunkamuraでは、「ルノワール+ルノワール展」なる、考えてみればどうしてこれまで誰も気がつかなかったのか、このうえなく魅惑的な企画がかかる。2月2日からだ。

 ザ・ミュージアムではオーギュストの絵画と並べて、ジャンのしかるべき映画作品のダイジェストをかけるという。もう、聞いただけで想像が広がる。それ、ぜひ私にやらせてほしい! と叫びたくなるくらいだ。

 加えて、ル・シネマはもちろん日仏とフィルムセンターでの作品上映。まだラインアップの詳細はまだだけど、何がきてもOKだろう。久しぶりに『捕らえられた伍長』や、最愛の『草の上の昼食』などがスクリーンで観れたら言うことなしなのだが。
 あれこれ、好きな映画作家はたくさんいるけれど、ルノワールだけはダントツ、ぶっちぎりの世界ナンバーワンだと思う。

 そうかといって、そのフィルムセンターでは生誕100年を記念して、マキノの映画100本以上ときく。これも具体的なスケジュール、ラインアップの告知はまだのようだが、新春早速のところ1月8日からだ。
 何がどうなっているのやら。東京国際映画祭とか、それどころではないくらいに、2008年初めの東京は、深く激しい映画都市と化す。



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ