2008/1/31

『岬にての物語』  

三島由紀夫『岬にての物語』(新潮文庫)読了
 
 恥ずかしながらこちらも初読。考えてみたらこれまでの人生、三島の短編をないがしろにしてきた。怪しからんことである。
 ここでも聖性の裏にひそむ邪があの手この手で描かれる。

 自分から息子をとりあげて、自分のそばから離さぬ姑への怨みつらみを、息子への愛情へと転化させる、子どもにとっては極めて迷惑なストーカー体質の母親を描く『椅子』。
 さんざんっぱら子どもに迷惑かけながら、「いいお父っつぁんだろう」という方向にボケた父親を殺害する、近親相姦の気のある兄妹を描く『水音』など、いささか気詰まりな物語などが並ぶ。

 いろんなものどもを隠蔽しながら歳月を重ねてきた戦後日本をイメージさせる、どれも重たい寓話である。
 三島19〜44歳。

2008/1/30

『批評の精神分析』  

東浩紀『批評の精神分析』(講談社)読了。

 これで2007年の東浩紀、LSD含む、合計6冊フルにつきあってしまう。Lの時にこれまでずいぶん東くんのことを誤解していたな、悪かったな、ずいぶん悪口言ったな、反省しなくちゃなと、それは素直に感じて、もう批判がましいことは言うまいと決めたものだった。

 でも、やっぱりどうしても何だかこう、いちいち癪にさわるのが、たとえば巽孝之との対談の扉で、巽さんとの関係を述べて、

 「僕にとってはまず日本SF作家クラブに入れてくれた大恩人。入会時には僕はSF作家ではないのになぜ、と思ったものだが、いまや日本SF大賞の選考委員も任されているので、巽氏の読みは正しかったのかもしれない。」(P.101)
 この文章、さて意味がわかりますか???
 東くんの学術的観点とは何の関係もないところで、揚げ足をとって申し訳ないけれど。

 あとはまあ、私は映画の人だから、またどうでもいい所を突っ込むんだけど、シネコンはスクリーン数が多いから、結構マイナーなものもやっていると。
 で、東くんは向ヶ丘遊園に住んでた頃、新百合ヶ丘のシネコンで映画を見ていたそうで、ラース・フォン・トリアーとか平気でやっていた、だからわざわざ新宿に出かけるのがばからしくなる、と言っている(P.378)。
 もちろん『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のことで、実は私もこれを新百合ヶ丘のシネコンで見たが(やれやれ)、これはたまたまこの作品がカンヌのパルムドールだから全国拡大公開しただけの話。シネコンで「結構マイナーなもの」は滅多にやりません。
 だから「わざわざ新宿に出かけるのがばからしくなる」ようだと困ります。従って、そのへんの都市/郊外の把握は間違っています。

 まあ、いずれにしても本書の議題とは、無関係のことなので、この文章そのものもゴミであることは承知。
 ただでさえ膨大な東テクストをこれ以上増やしてもしかたがないけれど、これだけ読んでみると、なんだか「朝まで生テレビ」とおんなじで、東議論も同じことをぐるぐる回って、結局、結論は何にも出ませんでした、という思いに駆られる。

 だいたい、そろそろ宮台(と大塚)のことなんかどうでもいいじゃんか。
 どうでもいいじゃんか、というのは、外国への発信力がゼロの論客を意識するのは、そろそろ終わりにしようよということ。そのへんは東くんもP.317〜321で、感じ始めているようだけど。
 「あえて」もそうだが、だいたい「ヘタレ」だなんて、外国語への翻訳不可能な言葉を使う学者はそれだけで5流以下。

 最後に、これほど言い換えに次ぐ言い換え、これほど対談者からの質問と説明ばかりが無限に出てくるというのは、それ自体、議論としてシャープさを欠くからではないかと、どうしても思わざるを得ない。
 結局、悪口になってしまって申し訳ないが。

2008/1/29

『ランボー/最後の戦場』  映画

 『ランボー4』(邦題『ランボー/最後の戦場』)がついに全米公開! 待ちわびたぞ。最初の週末の興収は1820万ドル。惜しくも初登場No.1は僅差で失したようだが、十分合格ラインだろう。

 何しろ『ロッキー・ザ・ファイナル』の初週は1300万ドルだったのだ。万人向けのロッキーを超えた数字を出してきたのである。
 『ランボー4』の製作費は4750万ドルというから、これは楽々回収だ。
 『ロッキー・ザ・ファイナル』の製作費は2400万ドルで、倍の金額をかけているわけだが、これは作品の性質上仕方がない。どっちにしても、今どき超低予算だ。

 予告編で見る限りでは、言語を絶するヴァイオレンス・シーンに満ちているようだが、ロッキーとは正反対の振り子の一方として、おおいにけっこうである。
 そしてここに来て、ロッキーもランボーも、スタローン自ら監督も手がけていることが、なおのこと喜ばしい(ランボーについては結局、監督のなり手がいなくって自分でやるしかなかったのが、本当に近いのだろうが)。
 老後に映画作家としてキャリアを積むスタローンを、私は心待ちにしていたのだ。

 『ランボー』は80年代を代表する名作だと思うし、『ランボー2/怒りの脱出』はアクション映画の最高峰だと思うし、『ランボー3/怒りのアフガン』は・・・いささか問題含みだが、スタローン最後の輝きだった!
 
 『ロッキー』がこれ以上はないほど、見事な幕を引いてくれたのと同様、『ランボー』のラストも美しくひいてほしいものである。
 いや、こっちだけは終わらせる気などさらさらないかのように、密林に姿を消していくというエンディングもありかもだ。
 どっちにしても、早くみたい!

2008/1/28

ジェーン・バーキン  ノンセクション

 またまた驚くことに、今日の「SMAP × SMAP」には、ゲストにジェーン・バーキンが登場する。

 もともと美人だと思ったことはないけれど、これがジェーン・バーキンだという頭がなければ、ただの気のいいおばちゃんである。
 でもその人なつっこさが際立っていてこれはこれで楽しく見る。それにセルジュの元妻でシャルロットの母親なのである。(それにジャック・ドワイヨンともその後、結婚したはずだ。もう離婚したんだったか?)

 ビストロの勝者には、プレゼントとしてエルメスのバッグ、「バーキン」がプレゼントされた。「バーキン」はもちろん女性もののバッグなので、木村が「このバッグを男がざっくり使うわけにいきますかね」とか聞いたところ、ジェーン・バーキン、やにわにそのバッグをひったくり、殴って踏んづけて、そのバッグの上で飛び跳ねてぐちゃぐちゃにし、自分のバッグ(もちろん「バーキン」)からいろんなガラクタをぎっしり詰め込んで、思いっきり型崩れさせて、「これでOK」とやってのけた。
 とはいえ自分の「バーキン」だって、ぎっしりモノが入っていて、完全に型崩れしているのだ(中居があらためたところ、ウォークマンさえ入っていた)。
 
 エルメスの「バーキン」がいくらぐらいのものなのか知らないが、数万円はくだるまい。こういうとことん飾らない、気取りのないスタイルが、バーキン流というか、フランス流なのかな(もともとイギリス人だけど)。
 「モノ」に振り回されず、「自分らしく」というやつである。いかにもだ。

2008/1/27

マキノ雅広  映画

於フィルムセンター。「生誕100年マキノ雅広」

マキノ雅博(+マキノ信三)『不沈艦撃沈』
 海軍省後援。兵器産業の社長が、海軍に呼ばれて10割増産を通達される。無理なものは無理と言った方がいいと主張するリアリスト社員と、やってやれないことはないと主張する熱血社員の対立。リアリストの妹は熱血漢の許婚である。

 結局、熱血漢の主張が通り、モーレツに働くが、性能に懸念のあった機械が事故って熱血漢を守ってリアリストが大怪我をする。
 そんな中、マレー沖海戦で彼らの作った魚雷が英国船を大破した知らせに沸きかえる。
内容はともかく、小国英雄のペンによるシナリオの弁舌豊かな言葉に驚く。とにかく、熱弁また熱弁。
 贅沢になって帰省した弟に怒った兄貴が、弟は国に連れて帰る! と、工場にクレームをつけたところ、そこをなんとか! といつ果てるともつかぬ言い訳演説を繰り広げる工場長。

 キミたちの作った魚雷が、この圧勝をもたらした! と、ラストに延々10分近くにもわたる海軍将校の熱血長演説。
 ともかく弁が立つ。カメラも回しっぱなし。現代の俳優にこれほどの滑舌は望めない。シナリオもないし、これだけ粘る演出法も消滅した。

 なお、工場のすごい騒音で、互いの声が聞こえない中、2人のボンクラ工員が、「リューマチでさぁ」「え! どこの町!?」「町じゃねえよ、リューマチだよ!」「だからどこの!?」「町じゃねえって!」という対話を永遠に繰り返す不毛なギャグに笑う。
 そのギャグ感覚は驚くべきことに、「スネークマンショー」の、「ここは警察じゃないよぉ」にまっしぐらに通じている。(1944年 96分 松竹)

マキノ雅広『野戦軍楽隊』
 情報局国民映画。
 風変わりなことに、軍楽隊としてお国のために尽くせという内容。作った方も見る方も、当時は大真面目だったのだろうが、軍服姿でしかめっ面をして、「佐久間ッ! コレハ何トイウ!」「ハッ! 十六分音符デアリマス!」「ヨシ!」などと楽典授業をやってる様は、なんとも滑稽である。

 音楽なんかやってられっか! とふて腐れる兵士が佐野周二で、彼に手を焼きながらコンビを組む音大あがりの兵士が上原謙というのが、いかにもなキャスティングで可笑しい。
 実際にはどこでロケをしたのやら、中国駐屯地で演奏する軍楽隊の演奏に突然唱和する、中国人の少女が李香蘭。
 何とも突然、しかし必然的に歌いだす彼女の導入は、さすがに奇跡のようなタイミングではっとする。

 ラストは中国語に日本語の字幕が出て、「中国の皆さん、私たちの敵は英米なのです。だから力を合わせて戦いましょう」とかそんな内容の演説。(1944年 67分 松竹)

マキノ雅広『殺陣師段平』
 型を大切にし、伝統を重んじる職人肌の新国劇の殺陣師段平(月形龍之介)。その「型」がダメなんだ。これからはリアリズムの殺陣なんだ! とダメだしする御大(市川右太衛門)。
 シナリオを書くは黒沢明!

 どうしても新たな時代への突入に納得できず、身を滅ぼしていく段平の姿と、それを究極のおおらかさで支える妻、お春(山田五十鈴)の真心がクロスする。ちょっとひねった芸道ものである。
 黒沢のねちっこい台詞回しと、マキノのねちっこい演出が衝突すれば核爆発は必至。固唾を呑んでみつめたが、これはあくまで個人の趣味を申せば、もうひとつノることができなかった。
 おそらくはマキノ+黒沢の名前から期待する、boidいわゆるところの、「活劇的瞬間」(便利な用語だ・・・)を確認することができなかったからだ。

 しかしながら、瀕死の段平が最後の殺陣つけをするあたりから、場内あちこちからすすり泣きが漏れはじめ、ラストの右太衛門の大演技では会場中が号泣しているのを肌で感じる。これも終映とともに怒涛の拍手が起こる。
 ちなみに段平の養女を演じる月丘千秋がとてもきれいで、萌えまくる。(1950年 107分 東横)

2008/1/26

『アイ・アム・レジェンド』  映画

フランシス・ローレンス『アイ・アム・レジェンド』

 こそっと家を抜け出して、近所のシネコンで遅ればせ見る。上映時間が100分程度だとこういう技が可能でうれしい。
 それにしても、『ハリーポッター』あたりから始まったと思うが、その年の記録的大ヒットというアメリカ映画が、ここ数年例外なくつまらなくなってきたのは、なぜなんだろうか。

 あんまり悪口は書きたくないから急いで2点だけ。

 人類絶滅から避難させるため妻子を乗せたヘリが、ゾンビにジャックされるのを絶望的に見つめるウィル・スミスの眼差しが、そのままブルックリン橋の爆破につなげられ、911を想起させるところ。
 人類絶滅という題材だが、ニューヨーク限定の物語であるということと、そのシーンをつなげると、911の首謀者たちは脳を犯されたゾンビで、ニューヨークの壊滅イコール人類絶滅ということなんだ、と、なんとも変わらぬアメリカ人の偏狭な(おそらく無意識だろうが)発想にため息をつく。

 で、そのゾンビを自分で「治療」するんだ、救うんだ、俺には使命があるんだと、ヒステリックに悪戦苦闘する主人公の姿も、中東某国にアメリカの「よき」民主主義を広めようと、悪あがきを続ける合衆国の姿やらがだぶって、なんとも薄ら寒い思いになる。

2008/1/25

一亀と龍一  

 田邉園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(作品社)を、入浴しながら何となく再読してみる。
 「文学」というものに真摯でありすぎると、どんな時代であっても、セールスというやつが伴わない。そのため、どれだけ華麗な実績を持っていても、編集者としての坂本一亀は決して幸福な終わりを迎えたわけではなかった。

 坂本一亀の仕事の折々において、息子の龍一は考えてみたら、どんな業績を残したんだろうか、とふと気になったので確認してみる。暇である。

 一亀が、三島に『仮面の告白』、野間に『真空地帯』などを書かせたのは、もちろん龍一の生まれる前。

 1963年には『文藝』編集長を退陣しているので、龍一が小学生の時分には、編集者としてのピークは終わっているとみるべきだろうか。

 そして、龍一、都立新宿高校に入学の1968年に小田実『現代史』を刊行している。
 河出書房を退社し、構想社を立ち上げるのが、1976年。龍一がYMOを結成する2年前。

 健康を害して60歳で引退したのが、1981年。YMOとして『BGM』、ソロとしては『左うでの夢』を出している。

 2002年に80歳で逝去。この年に『COMICA』と『エレファンティズム』をリリース。

 だから何だと言われそうだが、まあ戯れとして。

2008/1/24

レイモンド・チャンドラー  

 これはいったいどうしたことだ? 昨日のアクセス数が168?(そのうえ今も、着々増え続けている)
 「ヒース・レジャー」という標題が、アクセス数を増加させたのだろうか??
 これまでの最高記録は『コントロール』のことを記した日(2007/12/3)の、90件弱だったんだけど、ほぼ倍近くに。ネット空間というのは、どうなっているんだろう。


 レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹・訳 早川書房)読了
 さすがにぶっちぎりの面白さで、一気に読みきってしまう。当たり前だが、翻訳がとにかく群を抜いている。
 高校のときに清水俊二訳で読んだときは、これほどまでに面白いという印象はなかったが、もちろん翻訳のせいではない。読書力がなかったのだ。

 段取りだけをぎゅっと絞ったような短編ばかりを4冊も読んだ後で、この500ページを超える大長編を読むと、その段取りをふくらませるために、チャンドラーがその饒舌の才を、いかにふるっているかがはっきりわかる。
 村上春樹もあとがきで書いている通り、「偉大なる寄り道」。本筋とは関係ない書き込みの過剰さが、この長編の魅惑を駆り立てている。
 その魅力は、タランティーノのそれによく似ているように思う。本筋には何の関係もない、あのだらだらとしたおしゃべりだ。すなわち、それがなくても誰も困らないが、それこそが作品を面白くしている細部。
 
 もとより、この物語は何かしかるべき結末に向かって、まっしぐらに展開していくようなタイプのものではない。目的地などないのだから。
 だから小説の骨子は細部へと向かう。だが、それこそがハードボイルド小説というものではないだろうか。

 この物語はテリー・レノックスという、マーロウにたっぷりと迷惑をかける男が発端になるが、この男が姿を消して後、いろんな人間が出入りを繰り返す。レノックス本人もそうだが、誰もが本心のところがわからない。
 それは当たり前だ。マーロウ自身の本心だってわかったものじゃないからだ。
 そのわからなさを、村上春樹はまたしても適確に、自我の「ブラックボックス」という表現をする。
 そのあてどなさにうろたえつつ、読者はどこへともしれない結末へと連れて行かれる。
気がついたときには、最後のページをめくっていて、マーロウと共に、寂寥とした思いにとらわれる。

 そんな思いしか待っていないというのに、なぜにマーロウは探し続けるのか、その行動原理は何なのか。そのことをマーロウは、これ以上はないほどうまい文句で自己分析する。

 「ただ私はロマンティックな心を持っているというだけのことさ」(P.390)

 きっとそうなのだろう。そしてもちろん、ロマンティックな心を持っていなければ、文学などやってはいられない。

2008/1/23

ヒース・レジャー  映画

 なんと。これはさすがに驚いた。ヒース・レジャーが死んだ。28歳。おそらくは薬物の過剰摂取。
 ブラッド・レンフロに引き続きの若い俳優の訃報だが、レンフロは正直、今以上のキャリアは難しかったかもだけど、ヒース・レジャーはこれからじゃないか。
 
 確かに『アイム・ノット・ゼア』では、もっとも死に近い、ダークサイドのディランを演じた男だけど、これはしかし惜しい。
 『ブロークバック・マウンテン』のような良作とめぐり合って、せっかく演技開眼した矢先だというのに。やはり、あのピリピリした演技スタイルからも、神経質にすぎたのだろうか。
 
 ラッセル・クロウの系列につながる、オーストラリア出身の本格俳優の道が、まっしぐらにひかれていたはずなのに、残念な結果になったと思ふ。

2008/1/22

第80回アカデミー賞  映画

 なんだかんだいっても、今日の注目はアカデミー賞ノミネートだ。
 
 ただ今年は、どうも思い入れの高い作品・映画人がクローズアップされていないので、もう一つ個人的には盛り上がらない。個人の好みを別にしても地味すぎる。いっそ言うけど、ここ20年くらいで一番関心がないというか・・・。

 ジョージ・クルーニーは大好きだけど、ノミネーション作品がよくわかんないしな。
ポール・トーマス・アンダースンも大好きだけど、この人にはアカデミー賞からは断固背を向けた作品作りをしてほしい気がするし。

 そんなわけで、
 作品賞が、『JUNO』、『つぐない』、『マイケル・クレイトン』、『ノー・カントリー』、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。

 主演女優賞が、ジュリー・クリスティ、ケイト・ブランシェット、マリオン・コティヤール、ローラ・リニー、エレン・ペイジ。

 主演男優賞が、ダニエル=デイ・ルイス、ジョージ・クルーニー、ヴィゴ・モーテンセン、トミー・リー・ジョーンズ、ジョニー・デップ。

 助演女優賞が、ケイト・ブランシェット、ルビー・ディー、シアーシャ・ローナン、エイミー・ライアン、ティルダ・スウィントン。

 助演男優賞が、ケイシー・アフレック、ハビエル・バルデム、フィリップ・シーモア・ホフマン、ハル・ホルブルック、トム・ウィルキンソン。

 監督賞が、コーエン兄弟、P・T・アンダーソン、ジェイソン・ライトマン、トニー・ギルロイ、ジュリアン・シュナーベル。

 ちなみに太字が私の予想。何の根拠もなく直感で。でもまあ、こんなところじゃないかな。。。少なくともジュリー・クリスティは功労賞としてもほぼ間違いないのでは。



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