2008/2/29

『レンブラントの夜警』  映画

ピーター・グリーナウェイ『レンブラントの夜警』
 今日で終映と知って慌てる。ギリギリで駆け込むが待てよ、突然思い出したがグリーナウェイは『コックと泥棒、その妻と愛人』以後、全作品、最終日の最終回にギリギリで駆け込んでいる。たぶん頭では見なきゃと思いつつ、心のどこかで嫌いなんだろうなと思う。
 結論から言うと今回もやっぱり嫌いだった。

 もともとグリーナウェイという人は、何をやりたいのかよくわからなくて、好きになるとっかかりを見つけられない監督だった。
 それでも、『ZOO』、『数に溺れて』、『建築家の腹』といった初期作は、画面の統率力に優れていたし、個人的には最も(唯一?)好きな『ベイビー・オブ・マコン』には映像の衝撃力というものがあって、それなりに楽しんだ。
 ところがここにはそうしたものはもうない。より正確には前々作の『枕草子』でなくなり、前作『8 1/2の女たち』で完全に消えうせた。

 『レンブラントの夜警』も、映画をバラバラにすれば、その個々は確かに超ハイクオリティなんだと思う。演技とか撮影とか音楽とか編集とか音響とか。
 でも、それら全部がてんでバラバラで、一つのシークエンスのエモーションが、次のシーンにまるで持続・接続・連結しない。当然1つの作品として凝縮もされない。

 その結果、とってもかったるいものになる。一応眠りこそしなかったけれど、早く終わらないかなあと時計ばっかり見ていた。無念。
 最後の30分くらいで突然、絵の謎解きが始まって逆に驚く。これならホラ話として『ダ・ヴィンチ・コード』の方がまだしも100倍くらい面白い。

 一つだけ気になったのは、レンブラントの子どもとして、赤ん坊が登場するのだが、この子は画面に出るとき(出ない時もオフの音で)、必ず泣き叫んでいる。
 その意味を斟酌するのは不毛だが、『ベイビー・オブ・マコン』を持ち出すまでもなく、グリーナウェイの映画にあって、赤ん坊とは必ず受難の対象である。
 その泣き声が何とも突き刺さってきて、そんなこだわりぶりだけ、この映画に感心する。

2008/2/28

月刊プレイボーイ 4月号  

 「月刊 プレイボーイ 日本版」の最新号(4月号)の特集「この人の書斎が見たい!」を見る。

 吉本隆明の書斎写真に涙が出そうになる。
 四方が書物にぎっしり囲まれていることそのものは、何も驚くにあたらないが、おそらくはちょうど目の高さの、手に届きやすい位置に、故・安原顕の著書が数冊並んでいる。真っ先に目に飛び込んできたから、いちばん目立つところだ。これにしんみりする。

 あれこれあって、晩年はほとんど袂を分かっていたようだけど、しかしこうして安原さんの本が吉本隆明の書斎にあるのを見ると、何となく慰められる思いがする。よかった。

 それにしても、吉本隆明が海で溺れて危なかったとき、まさか安原さんの方が先に亡くなるなどとは(そして吉本さんがその後こんなに長生きするとは―もちろんよいことなんだが)夢にも思わなかった。

 他の人物の部屋はさほど面白くなかったけれど、ひとつだけ殺意を感じたのは、石田衣良の書斎(?)だ。もちろん石田衣良に何ら含むところはないが、まるでインテリア雑誌の部屋のようにこぎれいで、これは断じてまともな人間の部屋ではない!
 「でも、ほんとにこういう部屋なんだよ」とか言うなら、とりあえずそんな人物にモノが書けるはずない! 単なる偏見だけど。読んだこともないので知らん。
 
 こんな部屋は、ケロボールの未知なる力で作り上げないことには絶対にあり得ないのだ(吉崎観音『ケロロ軍曹』1巻P.68参照)。
 ともかく、こんな部屋を写真に撮らせてニヤついてるような人は、あまり信用できない。

 あとさすがにかっこいいのは、ミシェル・フーコーだ。
これは部屋というより、知能指数50億くらいありそうな研ぎ澄まされたフーコーの顔で、おなじみの癖であるぴっ!とのばした指を額にあてつつ、沈思黙考している姿に感激。
 なお、ジョン・アーヴィングのまるでビジネス・オフィスのような部屋には、やや興醒め。

2008/2/27

二井康雄さんのエキサイトイズム  映画

 いろいろとお世話になっている、大恩人にして映画ジャーナリストの二井康雄さんが、早速『ノーカントリー』について、印象的なレビューをアップされている。

 その表現がいい。曰く「古き良きアメリカへのレクイエムは、暴力が蔓延するであろうアメリカの未来への序曲でもある。」
 そして、アカデミー賞を制したのは、そうしたアメリカへの警告であるからだろう、と結ばれる。
 だがしかし、コーエン兄弟がそんな大きな観点を、本当に持てるんだろうか? とかすかな疑いを感じる一方で、こうした真摯なレビューを拝見すると、クルーニー陰謀史観とか冗談を書いてふざけている自分が恥ずかしくなる。ううう・・・。

 決して長くはないけれど、このようにその映画が観るに値する「理由」というものを、ぴしりと言い当てる簡潔さに優れ、また、映画の内容要約の手際の見事さに毎度学ばされる(特に私は映画の内容を書くのが苦手で、しかも嫌いときているから、得るところが本当に多い)。

 また、映画は週末にまとめて観るしかない身分の私は、「今週末見るべき映画」として、単刀直入に紹介されていて、文字通り週末の作品セレクトの大いに参考にさせていただいている。そんな二井康雄さんのサイトはこちら。
http://www.excite.co.jp/ism/concierge/?tag=%93%F1%88%E4%8DN%97Y

2008/2/26

偉大なるジョージ・クルーニー  映画

 以下は何の根拠もない、ただの思いつきの陰謀史観(?)なので、ほんの冗談ということでご寛恕のほどを。

 今年のアカデミー賞の結果をみると、どうも今のハリウッドで最も権力のある、陰のフィクサーはジョージ・クルーニーではないか。
 もちろん今年、作品・主演男優賞にノミネートされた本人の最新作のタイトル(『フィクサー』)とは無関係に。

 まず一昨年のアカデミー賞をとった『クラッシュ』から。
 『ブロークバック・マウンテン』の下馬評を制して受賞したこの作品。この年は、『シリアナ』と『グッドナイト&グッドラック』も有力視されていて、すべてのその背後にいるのはスティーブン・ソダーバーグだということは、2006年3月8日の私のダイアリーで見抜いた通り(根拠なし)。
 もちろんソダーバーグとクルーニーは一蓮托生。彼らと直接関係のない『ブロークバック』が最終的な受賞を取りこぼしたのはそういうわけだ(根拠なし)。

 そして去年の受賞は、スコセッシ悲願のアカデミー賞『ディパーテッド』。ここでスコセッシかどうかはとりあえず問題の外。
 ポイントはその作品に、マット・デイモンが出ていることだ。彼がクルーニー第三の子分であることは言うまでもなかろう。
 それに『ディパーテッド』には、第二の子分マーク・ウォールバーグだって出ているのだ。

 そう考えるとこの年『硫黄島からの手紙』、『クイーン』、『リトル・ミス・サンシャイン』が受賞する可能性は限りなくゼロになる(根拠なし)。
 しかし『バベル』なら、第一の子分ブラッド・ピット出演作じゃんか、という意見もあろうが、またしてもスコセッシ作品をおさえて『バベル』では、業界的な納得を得られまいし、第二と第三の子分を足したら、第一の子分に勝るのは自明である(何のこっちゃ)。

 で、今年。『ノーカントリー』の勝利に終わったわけだけど、近年のコーエン兄弟作品、2作にわたっての主演がジョージ・クルーニー(『オー、ブラザー!』と『ディボース・ショー』)。
 クルーニーの息がかかったチームである以上、受賞は当然だ(根拠なし)。
 それなら『フィクサー』がとるはずではないかと言われるかもだが、もし『ノーカントリー』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』をおさえての『フィクサー』なら、単に不自然。そんなヘマはするまい。

 たぶんダニエル・デイ=ルイスの演技は、これは本気でクルーニーも舌を巻いたのだろう。受賞は彼でしかるべし、とクルーニー尊師のこれは業界にお許しが出たのに違いない。
 それが受賞前のクルーニーによる、「どうせ受賞はダニエル・デイ=ルイスさ!」という、やや自虐的な軽口だろう。あれはつまり、「投票はオレじゃなくてダニエルの方な」という業界内への暗黙のサインだったのだ(根拠なし)。
 受賞の瞬間、ダニエル・デイ=ルイスがクルーニーにチューして、しかも「ミスター・クルーニーの寛大さに感謝する」とまで、過剰なコメントを述べたのは、要するにそういうことだ。ダニエル・デイ=ルイスの隣にクルーニーが座っていたのも、そのへん釘を刺しておく意味があったのに違いない(根拠なし)。

 だからといって、自分の作品を無冠ですますわけにはいかない。一番恨みっこなしの部門はどこだ。あえて探せば、それはもちろん助演女優賞だ。
 ケイト・ブランシェットは既に1個持っている。受賞作品は『ディパーテッド』(笑)。
 かくして本人までもがびっくりの、ティルダ・スウィントンの受賞と相成った。彼女にしてみたら、「バットマン」の子がハリウッドを陰で動かす「フィクサー」だなんて思いもよらぬことで、そりゃあ驚いたろう(今だにわかっていないかもしれぬ)。
 それが、受賞にあたっての彼女のあの仰天ぶりだ(根拠なし)。

そして、あまり気づかれていないようだが、今年『ノーカントリー』4部門に続く、最多受賞は、実は『ボーン・アルティメイタム』の3部門である。
 『ボーン・・・』が第三の子分、マット・デイモン主演作であることを思うと、優劣の差など決めようのない技術部門で、この作品が独占することに何の不思議もない(根拠なし)。

 恐ろしい男である。
 アカデミー賞受賞への最短距離は、ミスター・ジョージ・クルーニーとお友だちになることだ、と断言しておきたい。
 ああ、今となってはクルーズさんより、クルーニーさんとお友だちになりたいなあ。

2008/2/25

第80回アカデミー賞  映画

 今日のトピックは、やはりアカデミー賞の発表。作品、監督(『ノーカントリー』、主演男優(ダニエル・デイ=ルイス)、助演男優(ハビエル・バルデム)、脚本(『JUNO』)、脚色(『ノーカントリー』)、撮影(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』)と、すべて順当なところだけど(予想はずしたくせに)、主演女優賞と助演女優賞はちょっと意外だった。

 英語以外の言葉で作られた作品の、フランス人女優マリオン・コティヤール(『エディット・ピアフ/愛の賛歌』)がとるとは思わなかったし、激戦の助演女優賞でティルダ・スウィントン(『フィクサー』)というのも思いがけなかった。
 演技がどうこうでなく、どちらも票を得るためのハリウッド人脈が、そんなにあるとは思えなかったので。

 個人的には長編アニメーション賞の『レミーのおいしいレストラン』について。もちろんピクサー渾身の大傑作ではあるけれどもあまりに順当。
 ここは、国際社会の歪みを鋭く衝くことに打って出、異国に生きることの困難を見事に描いた意義ある傑作、フランスの『ペルセポリス』に受賞の栄冠を与えてほしかった。

 それにしても、アメリカ合衆国の現在・過去・未来に驚くほど知的に視線を透徹させた、アメリカ人のアメリカ人によるアメリカのための映画ともいうべき、(その意味ではアカデミー賞に何よりふさわしいはずの)『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』をおさえての主要部門独占なのだから、『ノーカントリー』がよほどの出来ばえでないと、ちょっと納得できない。
 「今度のコーエン兄弟はいける!」という評判を信じ、これは素直に封切を期待するのみだ。

2008/2/24

吉本光宏『イメージの帝国/映画の終わり』  

吉本光宏『イメージの帝国/映画の終わり』(以文社)読了

 「アメリカ」と「映画」の間にある距離を正確に見積もったという意味で成功。ようやく両者の関係に関する基本書が登場したなという思いだ。

 「アメリカ」の側にも、「映画」の側にも立つことなく、その中間地点に立って、「映画」が「アメリカ」のイデオロギーを表象する装置として、どこまで妥当するのかという考察である。
 そのイデオロギーとは、その章立ての通り「自由」であり、「戦争」であり、「資本主義」であり、「暴力」であるだろう。

 その論考の奥底に、常に通奏低音として流れるのは、もちろん911であるが、それを「ハリウッド映画のようだ」と語られた、いささか無反省な言葉。しかしここでいう「ハリウッド映画」とはどんなものを指すのか、はたしてどれだけの人間が考えたというのか。
 それは某国の総理が、自国自衛隊の派遣の妥当性を苦し紛れに訴えて、「国際貢献」などと不用意に語る見苦しさに通じている。ここでいう「国際」とはどこのことを指すのか、そんな言葉を臆面もなく使う人間が、無反省な改憲、派兵、増派を口にするのだ。
 この本はそうしたことどもに、真っ向から取り組む。

 いつの時代のものであれ、アメリカ映画を観るにあたっては、ここでの著者の観点なくしては必ずとりこぼすものがある。まして911以後にあっては。その意味で、私自身も強く釘を刺された思いをさせられた本だった。

 しかしあえて苦言を述べるならば一つだけ。主に取り上げられた作品が、『硫黄島からの手紙』であり、『マイノリティ・リポート』であり、『プライベート・ライアン』であり、『ジョーズ』であり、『宇宙戦争』だ。しかし、これらはアメリカ映画とは言っても、あまりにも突出した特別作品すぎはしまいか。
 参照作品として『マトリックス』や『若き日のリンカーン』、『地獄の黙示録』なども出るには出るが、アメリカ映画の真実は、もっと普通の作品の混沌の中から、立ち上がるものであるとも思う。

2008/2/23

バート・バカラック・コンサート  音楽

2月17日、東京国際フォーラムで開催された、

「バート・バカラック・コンサート」

のコンサートレポートをアップしました。

バカラックの音楽についての略史と、
当日のコンサートレポートとの2部構成です。

http://www.geocities.jp/nanbaincidents/bacharach.htm

2008/2/22

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』とブラームス  映画

 実は『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のすごさに興奮さめやらぬので、ダニエル・デイ・ルイスの野太い声がまだ、頭に染みついて離れない。ついでに、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の3楽章も。
 
 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』には、このブラームスが大きくフィーチャーされているのだ。そんなわけで、手持ちのCDを引っ張り出して、とっかえひっかえ聴いている。
 といっても持っているのは、カラヤン/ムター/ベルリンフィルと、マズア/ムター/ニューヨークフィルの2枚で、何のことはない新旧のムター盤というわけだ。

 カラヤン盤は1981年、ムター実に18歳の録音。マズア盤は1997年、ムター34歳の録音だ。
 ムターの恐ろしさは、青春真っ盛りの頃と、大家(それでも超若手だ)になってからの演奏と、私ごときの耳ではほとんど差がわからない。15歳の録音デビューの段階で、既に完成してしまっているのだ。
 
 演奏のことを書きたいわけでないので、このへんでやめるが、ロバート・アルトマンに献辞がなされた『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は、私の目にはアルトマンよりも、より一層スタンリー・キューブリックなのだ。

 公開前に多くは書けないが、いろんなところにキューブリック的な記号が落ちているように思えて、そのひとつが、音楽の一見(一聴)ミスマッチな使用だ。
 この祝祭的なブラームス3楽章の旋律は、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のドラマとぶつけると、狂気の空騒ぎのメロディにも聴こえてくる。

 既成のクラシック曲の絶妙な選曲は、キューブリックのお家芸であることは言うまでもなく、P.T.アンダーソンがそれを意識してのことかどうか。
 ただ、いずれにせよ今後の未来永劫、45歳のブラームスの手によるヴァイオリン協奏曲、第3楽章を聴くたびに『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のあれこれが頭に浮かぶはずだ。

 ちなみに偶然か意図してか、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は1898年、ブラームスが没した翌年から展開されるドラマである。

2008/2/21

ニコール・キッドマン  映画

 『ライラの冒険』のプロモで、ニコ様が日本のごとき下等な土地においでになってるようで、相変わらず目がつぶれるようなお美しさでいらっしゃるのだが、エヴァ・グリーン様がいらしていないのは残念である。

 しかしニコ様のおなかにはお子さんがいらっしゃるのだし、どれだけ万全を期しているとはいえ、しかし妊娠5ヶ月の身重で映画の宣伝に飛んで回るのはいかがなものかと思うが、これは私ごとき愚民には分をわきまえぬ盲言か。

 ネット上で来日中のニコ様のご尊顔をいやというほど拝ませていただき、ああ、写真なんかではなく、直接この目で拝見したい・・・とため息つきつつ、しかし、もしもこのお方と子作り・・・とまで贅沢は言わないが、まるっきり化粧を落とした、完全な素顔を見ることができたら、どんなお顔をしていらっしゃるのか、などという不敬がふと胸に浮かぶのであった。

2008/2/20


 商品情報誌『MonoMax』3月号に2ページほど登場。
 見本誌をお送りいただく。大感謝。

 ブルーレイディスクを他のご家族と共に鑑賞するという趣向で、私も一言二言コメントを発している。こうして起用していただけるのは本当にありがたい限りである。

 ともあれ、基本的な私の高画質画像に対する考え方は変わっていない。
 映画館のスクリーンで見えないものを、家庭の受像機で見えたとしてもしかたがないというものだ。
 画質を高めることで価値が上がるとすれば、それはAVのみであると思う。
 大画面の受像機で、ブルーレイの再生機とディスクでアダルトを見たら、さぞかし楽しいだろうなあと夢想する。

 それはともかく、ただ今回の誌面で『明日に向かって撃て』がサンプルの1つだったのだけど、この40年近く前の作品をブルーレイで観た時の、画面の鮮明さにはさすがに驚いた。今回の大きなショックである。
 もしも、こうした古典=スクリーンで封切当時の状態で観ることは絶対にかなわない作品が、当時に限りなく近い状態で観る事ができるのだとすれば、それはこのメディアの持つものすごい可能性だと思う。
 
 たとえばヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』など、私はフィルムが完全に褪色した、かなり悪い状態でしか観ていないのだけど、そうした作品があの水準で再生されたら、これはある種の革命かもしれない。
 封切でも観た『ダイ・ハード』をブルーレイで観たってしょうがないが、ルノワールのカラー作品をブルーレイで観たらどんなだろう? その意味で夢は広がる。

 あとは、白黒作品ならどうなるのだろうか、という興味がもう1点。グレッグ・トーランドの画面とかね。まだ白黒作品のブルーレイ化は為されていないはずだ。



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